Energy and Crystals

鉱石とエナジーワークと神智学と、生きること。

未来の思想と生殖

一昨日、19日の夕空。壮大な空模様の、ほんの一部。


2022年公開の映画『プロジェクト・ユリシーズ』を観た。制作がドイツ&スイスの合作という、ちょっと渋い背景。けれどハリウッド映画という感じの仕上がり。
近未来の地球、環境汚染等々で、ヒトが住めなくなる。富裕層など脱出可能な人々はケプラー209という惑星に移住。僅か二世代で生殖機能が働くなり、ヒト種族を守るために地球への「帰還」計画がスタート。選ばれた宇宙飛行士が派遣される。その頃地球は、一面の泥の海。そして時折水の満ち引きで洪水が起こる。地球には「生存者」たちがいて、泥に塗れながら命を繋いでいた。彼らは帰還計画の「ケプラー人」から「泥の民(the Muds)と呼ばれる。
そしてまあ色々なことが起こり、1時間半ちょっとの映画の中で、一応は決着、解決をみる。これからの未来・・ケプラー系地球人たちが帰還し、「泥の民」と共存していくのだろうか、という微かな希望が差したところで終わる。
 
深読み&ジェネシス神話と絡めて考える、シリーズ。
まずはタイトル。20世紀初めのアイルランドの作家ジョイスの名作小説「ユリシーズ」を連想させる(きっとそうなんだろう)。ユリシーズギリシャの英雄叙事詩ホメロス作と伝わる)『オデュッセイア』(オデュッセウスの歌という意味)のラテン語発音が更に変化し英語化したもの、のよう。つまりオデュッセウスの長い放浪の旅からの故郷への帰還、を表現していると思われる。
幾つか印象的だった点。前に日記に書いた「インターステラー」という映画と似ている部分がある。特に、宇宙飛行士の父、と、その娘によって人類をめぐるプロジェクトがうまく運ぶという。どこか神話的な設定。息子ではなく娘である、という点が、時代を反映しているのかも。プラス、父と娘という設定に何か特別なロマンのようなものを、特に欧米の人々が(深層心理的に?)持っているのかもしれない。
どちらの映画も、あとあとの人類の歴史の中で、父と娘が英雄として名を刻まれるような功績。それが目立った形ではなく、純粋な父と娘が通い合わせる愛によって成り立っているという感じ。実際に、欧米のもろもろの著名人など、死後に娘や孫娘がその業績を残すことに貢献したり、確かにそのイメージはあるかも。欧米の娘たちは、立派な父を尊敬し、偉業を継ごうとするという何か原型的な感覚、感情のパターンがあるのかもしれない。
又は、映画の作者や監督などの男性陣?が、自分の仕事を「愛しい娘が理解し受け継いでくれたら」というある種の理想像があることの反映と、取れるかもしれない。
 
それと、ちょっと引っかかったこと。原作は読んでいないから分からないけど、明らかな悪役の男性たちや、エキストラレベルの人々以外に、目立ったそれも善良な人々の中で唯一の犠牲の死が、アジア系の女性で。物語の中でも大事な、また描かれていない未来においても重要な立ち位置となるだろう少年の母親だし、主人公の宇宙飛行士(娘)の父親が、現地で愛した「泥の民」の女性、だと思われる女性が、とてもあっさりとそれも気の毒な形で犠牲になっている。
見ていてその辺り、ミスサイゴンを思い出させた。仕方ないとも思うけど(ホントはそれじゃダメなんだろうけど)アジア人女性=現地の妻=(用が済んだ時点で)犠牲 をさらりと、やはり原型的なのか、深層心理なのか、描いている点に、アジア人女性としては引っかかるものを感じた。けど、仕方ない、と感じる自分も居てそれはそれで問題だとも。単なる人種差別的な無意識?の心理だとしても、やはりそうさせてしまう、エネルギーや意識のシステム的な問題を、アジアの、日本に居ると感じていることも確かだから・・
 
単純に劣っている、という意味ではない。それぞれ、優れている点、ダメな点あるわけで、人種に優劣があってはいけない。けれど、何というか・・「犠牲が似合ってしまう」という原型的な空気が、アジア人の、特に女性にはある。これが最近、アルガンザのジェネシス神話で分かって来たことと重なる。つまりそれなりの理由があると感じてしまう。だから仕方ないというのではなく、変わって行かなくては、と思う。
一昔前は「妻にするなら日本人、愛人はフランス人、家はイギリス、車はドイツ、シェフは中国、」みたいな偏見の譬え話があったけど、一昔前の男性陣が「妻にするなら」なぜ「日本女性」が「良い」と考えたのか・・・よくよく、感じてみたほうがいい。従順だということだよね・・・そして、いざとなったら、または用事がなくなったら、ミスサイゴン(日本ではないけど)のような犠牲で消えていく。悲しいネ、忘れないよ、ありがとう・・・みたいな原型ストーリーか。
 
そして、更に深読み。ケプラー209に移って僅か二世代で生殖できなくなるという部分。シュタイナーに学び、それをヒントにしてジェネシス神話に取り入れた「月」という存在の地球への影響から考えると、地球の生殖を支配しているのは月、なので、離れたら当然、機能しなくなると私は思った。けれどそこで頑張って、人類を生み出した神なる次元がヒト種族を見捨てていなければ、新しい生殖システムまたは手段が、生まれていくのではないかというのが、私の考え。テクノロジーで何とかするのかもしれない。それも含めて。
主人公の宇宙飛行士(娘のほう)が地球に来て、泥の世界で奮闘していると程なくして、月経が復旧したというシーンがあった。彼女の足に経血が流れてくる、という場面。・・・この映画の価値観においては、それは良いこと、未来への希望の証なのかもしれない・・・けれど、個人的にはこの生殖システムはそれほど(宇宙基準で)良いものとは思えないから、複雑に感じた。
聖書のイブへの呪いのように、月のサイクル28日でめぐる(そんなに子供を次々と産むわけではないのに)この忙しい生殖システム、男性側もだけど、かなり動物的、原始的なあり方で翻弄され、束縛され、体も気分もアップダウンし、そこにエネルギーを取られて、負担も多いから毎日3食食べなくてはならず、そのために日々働かなくてはならない、という、人類を束縛する最大の「呪い」のように思える。
 
これが、一年に一度、いや、数年に一度、「子供を持ちたい」と意図した夫婦が、「神」に申し出ると生殖機能が働き、子供を授かる・・みたいな仕組みであればどれほど、効率よく、合理的で、人類はもっと心穏やかに、思考を洗練させ、意味のある創造にエネルギーと時間を費やすことが出来るだろうか、、と、若い頃からずっと思って来た・・(笑)そのような星から私の魂は来たのかもしれない。地球上の生殖、性というものを理解するのにかなり混乱していた。
同時に、今この地球で生きていても、人類が月よりも太陽またはもっと別の力にエネルギー的に結ばれると、生殖システムは変わっていくだろうとも、思っている。
映画では、ケプラー人は「for the many」、己を捨てて、感情を抑えよ、という思想を持っている。字幕では for the many は「人類のため」と訳されていた。そこは、ある意味進化している姿であるが、もし原作が利己的(動物的)、感情的な部分も含めて「帰還」すべしという作者の意図が込められているのだとしたら、個人的には意見が合わないなあと思いながら見終わった。
 
for the many はもちろん、大事なことであるし、そのためには感情や利己を抑えるというのも自然のことわり。けれど、それにもっと早く気づいて、地球を捨てて去る前に、母なる星の環境破壊や人類の乱れを止めることが出来れば良かった・・・という、教訓として、見れたら良いのかもしれない。とにかく何しろ、自分たちのせいで壊れそうな地球を見捨てて生き延びることを考えるのではなく、何とかしようと奮闘すべきではないかと。女性性の中にあるハートの愛(自然界と通じる)のようなものは、きっとそう感じるものだろう。
 
Love and Grace