Energy and Crystals

鉱石とエナジーワークと神智学と、生きること。

ちょうど良い真ん中を目指して

最近の Info記事で「南の海から(女性性的・リラ・プレアデス)」と、「北方から(男性性的・恐らくシリウス・ヴェガ)」的な要素が、人類学(遺伝子)レベル、文化人類学・宗教・民俗学レベル、そして更に下層にジェネシス原型レベルで、縦長の日本列島に流れ込んで来たのでは、という書き方をしていて、今回そのような表現に至ったけれど、考えてみれば人類学・民俗学的にはずっと分かっていたことで、それがジェネシス原型論の体感や瞑想ワークの中で、実感されたということだ。

更にこの点、なんとなくの考え事を繰り広げているうちに、あることに気づいた。

数年前にもうドラマは完結している『ゲームオブスローンズ』。私は(何度かSNS等でも触れていたけど)シーズン2〜3くらいの頃に存在に気づいて、まだネット配信で何かを見るという時期に入ってなかったので、その都度、DVDを買って観るようになった。まだ若大将は子供だったため(さすがにあれば見せられんでしょう・・)、DVDが届くと一人でこっそりと休みの日にドキドキしながら少しずつ見続けて、放送されるまで何年かブランクがあった最終シーズン(第8章)は待ち侘びた、という感じで。全シーズン、付録?付きのボックスが揃っていたりする(笑)。

 

私が映画やドラマについて書く時は基本的にネタバレなので、ご了承ください。一視聴者としてのワクワク感よりも、なぜか昔から制作者・原作者や監督などの目線で、何を伝えたいのか、ここに何を引っ掛けているのか、含めているのか・・という目で見てしまうので、自分自身がまったくネタバレを気にしない人間で、むしろ本などは最後の結論や後書きから読んだり、映画もメイキングを先に見たりするのでス。それと原作を読まずにドラマ版だけで書いているので、原作を知る方からするとずれている部分があるかも..この点もご了承ください。

 

そうそう。見た方ならご存知のとおり。このドラマの原作は「氷と炎の歌」というタイトルで、「七王国戦記」という副タイトルも付いている。架空の大陸に存在する7つの王国、それを束ねる宗主国玉座を巡って争い合う、という。南部の国の「女王」と、北部の代表である「王」、それぞれが「炎」で「氷」であるわけだけど、この二人、最終段階でようやく実は親族であることが判明する(たしか叔母と甥になるのかな。年齢は多分同じくらい)。運命に引き寄せられるように、南から北上、北から南下しながら、それぞれの敵を倒して次第に自身に忠誠を誓う者たちが増えていく中で出会い、結ばれる。

 

なるほど氷と炎が出会って融合し、最後には王国に平和が戻るのだな〜・・と安心して見ていると、最終話でびっくりしてしまう。賛否両論、というか、ドラマが終わった頃はどちらかというと批判的な意見が多かったように見えた。けれども、ドラゴンや魔物、多少の魔術が出て来たりして「ファンタジー」のくくりに入りつつも、原作者が非常に歴史学に造詣深く、人間を人間臭く描ききっているという点で、「ファンタジー感」が無い、リアリズムの中で物語が進んでいく。それを考えると、あの結末は非常に、納得できる・・ドラマ、ではなく、実際の歴史の展開として自然、と言えるのかも。

炎の女王も、北部の王も、どちらも「犠牲」として大陸の表舞台から姿を消す。愛と人道で人々の崇敬を得ながら最終決戦まで来ていた女王は、七王国の統一を目の前にして、血筋が騒いだか残虐な支配者の顔を見せる。それを見た北部の王、彼女を人間としても同志としても愛していた者が、彼女を殺めるという決断を。そして彼は殺人罪終身刑という。なんとも言えない結末。二人の人生を賭けた努力によって、専制的に玉座を死守していた一族は絶えて、大陸には平和が?訪れる。けれどその時、二人は居ない。

 

歴史の触媒のようになって、消えていく二人の英雄。氷と炎。作者はアメリカ人だそうだけど、北欧神話などの、英雄が最後には決して幸せにならない、むしろ貧乏くじを引くような犠牲で終わるというパターンに、影響を受けているように思う。歴史上たいていの英雄、カリスマは、確かにそのような定めを世に示して名前を刻んでいることも確かに多い。けれど全てでは無い・・「細く長く」じゃなくても、「太くても長く」健全に天寿と使命をまっとうした英雄、カリスマも居る。ゆえに、作者の思想的なものによるのかも。私はディスニー的なハッピーエンドもありだとも思う(現実としても。そういう現実創造力を発揮できる人間であれば)。

結末、は置いておいて。

言いたかったのは、日本列島でも、Game of Thrones (氷と炎の歌)であっても、もしかするとどの国でも、文明でも、「南・女性性・タマス」、「北・男性性・ラジャス」このセットが、法則として存在するのかもしれないという仮説。確かに、人間は南に居るとゆるんで、おおらか〜怠惰になり、女性的になる。北に暮らすと真面目〜神経質になり、男性的になる。その背後に、ガイアとヴァイアマスが南極と北極にそれぞれ座していたりしたらどうしよう。。地球上の海流やプレートの流れ、などすべて「ジェネシス原型」「ジェネシス神話」で説明できたりしたら。(広げ過ぎだけど「ニューエソテリシズム?新・神智学的にはその展開もライフワークとして良い)

 

旧石器時代人、もしくはもっと古い原人レベルかもしれないとも言われている、南から、北から、日本人の源流が入って来ていて、縄文人といっても、南方系と北方系で既に特徴づけされたいたはず。そこに到来した中国、朝鮮からの少なからずの「弥生人」=新説では、紀元前700年前から奈良時代(紀元後800ころ)までの、1500年という長期にわたって、渡来の波はずっとあったという。常に戦乱に悩まされていた中国や朝鮮では、その都度、亡命貴族・王族や、ボートピープルが日本を目指した。それらの渡来人たちは、またどのような中和作用、刺激をもたらしたのだろう。彼らが「中間」という訳ではなく、渡来人にも様々な文化・政治・宗教的背景があった。(帯びているジェネシス原型エネルギーも)

そんな「多様性」がミックスされて、天災の多いこの土地で、なんとか生きていく工夫を其々違う背景を持つ人たちが模索した。し続けた結果が、日本である。・・・という、新たな視点もあるかも。

 

よく言われている日本人の「動かない・空気を読む・人がしていることをしよう」という性質の原因は、稲作民であるため共同体意識が強い、とか、戦後のGHQの思惑、とか、徳川政権の支配体制が巧みだった(そこでの洗脳が抜けていない)などの理由が挙げられる。

けれど、もっと遡れば最初から、仕組まれて(用意されて)いたのかもしれない。上記の3つの要因・要素も含めて、プログラム、設定通りであったのかも。人類全体もそうだ・・眠ったように動かない、目覚めないように働くタマスの力と(その現象と)、争いばかりしているラジャスの力(とその現象)。南方的なエネルギーにおいては人々は欲深くなり、北方的なエネルギーに刺激され人々は争いを続ける。それすらも「歴史」あるいは「文明」というシナリオ通りの、現実、現象なのかもしれない。

その中から、中庸を見出し、抜け出す。何から抜け出すかって?

この「現象界」から。映画『マトリックス』と、同じみたいに聞こえるけど、もっと古く、仏教では・・引いてはその元であるインド哲学では、数千年前からそれを説いている。

 

両方あるし、二極だし、二限性だし、多様でフュージョンだけど、そんな中でも「善(愛)」とは何かを自分で見つけながら、「中間」という透明な場所を探している。それぞれ、何がどれくらい偏っているか、濁っているか、混乱しているか、そのバランスの悪さはみんな違う。二人として同じ人はいない。だからこそ、自分自身で自分のバランスの悪さに向き合いつづけ、(ひとつの生ではなく魂として)「ちょうどよい中間」つまり中庸を見出す。

『スローンズ』のジョン・スノウはその意味で魂の中庸、を達成したと言えるのかも。最愛の人を正義のために、状況判断して、大陸の平和のために手に掛けたのだから。

あ、そうだ。このドラマをジェネシス的に深読みしていて、もう一つ気づいたのが、南の女王の家系はドラゴンの末裔と言われていて、ドラゴンを飼い慣らし乗りこなす(炎を吹き空を飛ぶ西洋風ドラゴン)。ドラゴンは、東洋とは違って西洋では女性性と結びついていて、欲望、などのイメージもある。一方で北部には精霊たちの魔法の失敗のような形で生まれてしまった「魔王」が死者たちをゾンビにして軍隊を組織している、という。炎と氷、は、単に南と北だけではなく、人間の欲望とそれが齎す破壊力(南のドラゴン)、魔術・自然界が孕む危険と破壊力(北のダークネス)を表してもいそうだ。

 

話があちこち行くけれど。

ヨーガ哲学やヨーガの実践においては、菜食や禁欲が説かれている。けれどアーユルヴェーダは医療、健康術なので、禁止というのは無く「その人なりのバランス」をとることを考えていく。・・これもある意味、仏教でよくいう「方便」であると私は思う。バランスが取れていったら諸体が浄化されていって、禁欲も菜食も、難しいことではなくなる。むしろ自然にそれを指向するようになる。

人類全体では、行先は果てしない。けれど個人個人、「幸せになる」ための唯一の道は、「ちょうど良い真ん中」を見つけていくこと。これは間違いない。

きっと宇宙人たちも。宇宙文明もそんな振り子の揺らぎや、失敗や修正を繰り返し、同じように中庸を目指す途上にあるはずだ。

 

Love and Grace

Amari