Energy and Crystals

鉱石とエナジーワークと神智学と、生きること。

遺伝子の記憶 

 

以前、アメリカ「ヒストリーチャンネル」の番組を見ていたら、イタリアの研究チームが、「ナチスのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を生還した、PTSDなどの症状を持つユダヤ人」の子孫を調べたところ、精神疾患の発症率が高い事が分かった」とあった。

人間の気質は、ヒーリングの視点で表現すれば、エネルギーのデータとなって、過去生由来の当人のものだけでなく、親から、そして先祖代々受け継がれるものだと言える。

ヒーラーとしての私のイメージ(セッションでの見え方・感じ方と、神智学からの情報をすり合わせて)は、ソウルの転生データは宇宙に保管されていて、転生する際に胎児の段階のどこかでソウルが体に宿るその時に、データが移動して、オーラ第四層のコーザル体に搭載、そこから徐々に、エーテル(1)、アストラル(2)、メンタル(3)体と、整備されていく。

一方で、両親から受け継いだ遺伝子の中にあるフィジカルだけではなく、気質や本能的感覚などもまた、エーテル、アストラル・・と浸透していって、ソウルからの情報と混ざり合って、個人の特徴付けが起きていく。この辺りは胎児の段階なのか、生まれてからなのかはよく分からない。シュタイナーはどこかで書いていた(述べていた)気がする。

ホロコーストのようなかなり強いストレス、恐怖、飢餓や痛みなどの身体的苦痛を伴う記憶は、当人だけではなく、生き延びた後に生まれた子孫にもコピーされ継承されるという。より詳しく知るためにネット上で検索してみると、ホロコーストだけではなく、同じようなPTSDと子孫への遺伝を扱った研究が、世界各国の研究チームにより、報告されているようだ。

 

この事について、ヒーラー目線で更に考えていくと、ご先祖が苦しんだ記憶は遺伝子に何らかの変化を起こし、先天的な情報となってその後の子孫たちに継承される。ヒーリングを必要とする理由は様々であるけれど、体質だけでなく気質や、本能的なパターン、精神なども、家系の影響を受けていると言うのは、納得出来る。

今世それほど、苦労や苦痛を味わったわけではなく、平凡に幸せに生きて来た筈なのに、この常にある「空虚感/悲壮感/自己否定感/不安感/謎の怒り/疎外感/孤独感 etc.」はなに?というようなご相談は割とある。

その場合、考えられる路線は2つあり、

一つは、今世の自分にトラウマ等はなくても、過去生などの魂の記憶にその情報がある。

もう一つは、家系的、遺伝的に受け継がれている気質、である。

そして、双方は重なっていることが多い。魂は、未解決の課題を消化するために同じ鋳型、カルマパターンを持った家系や親を選んで生まれて来るからだ。

 

さらには、土地が持っている歴史・・という要素も、先祖代々その土地に住んでいるとしたら、影響を受けているかもしれない。

もちろん、皆が皆ではなく・・例えば古戦場近くに住むある家族が居て、代々、同じような病いや、嫁が来ないとか、男子が生まれない、などのカルマが持ち越されているとしても、ある時にキラキラと高周波でパワフルな人がその家系に生まれて来て、引き寄せでその人に同じようなパワフルな嫁が来て(笑)、悩まされて来た問題が一気に解決するかもしれない。

中和されたり・・また戻ったり・・ということもあるだろうし。私が実際に見聞きした中で、先祖が開拓・開梱していると、そこに住んでいた動物たち、特に駆除された蛇などのエネルギーがその家系に憑くということも。地主さんは神社を建てて祀ったりとされてる事がよくあるけど、やはりそういう事は大事なのだなと思う。

蛇について言えば、夫婦の繋がりが強いそうで、伴侶を奪われたりすると仇となった人間、その一族を恨んでしまうとか。

ニュータウンに住んでいて、さほどその土地に歴史は無いと思っていても、開発・開拓などで一気に広範囲の自然が破壊される時、そこに眠っていた(最近まで雑木林で隠れていたような)遺跡や遺物なども掘り返されて、昔の地主さんのような宗教的儀式をせずに工事を進めてしまう事もあるだろうから、ニュータウンでも安心は出来ない。実際に幾つも、そういった事例を聞いている。

それと、私自身が割と引越しが多かった為に、土地のエネルギーがそれぞれ全く違うことを体験するうちに、気の流れが良い/悪い なども感じやすくなっていて、最近だと事前に物件の前にその土地を見に行くようにしている。開発・開拓によって土地の性質が生かされずに損なわれている事も多々あるだろうと思う。

 

話が逸れたので元に戻すと・・この事は、アルガンザで基盤に据えている地球と魂の創世記「ジェネシス」世界観における、様々な原型エネルギー、原型種族との関連付けからも、説明することが出来る。家系に「〜の原型エネルギーが強め」などの表現をする事もあり、また家庭内で、家族同士それぞれの原型パターンを持って、互いに学びの為に生まれて来たりする。

土地についても、ジェネシスにいう宇宙由来の原型エネルギーや、その混合で生まれて来ているレムリア、アトランティスなどの先文明(非物質含む)のエネルギー、自然界の集合場、種族のグループ的な情報を持っていることもある。

 

一度、仏教徒して信仰・修行していた時代がある私としては、「先祖供養」「土地(歴史)の浄化」などのテーマでも、当時は学んだ事も多かったけれど、今はそれとは少し違ったスタンスを持っている。今ここ、の遺伝子をヒーリングによって癒す時、その遺伝子で繋がっている先祖の魂もまた、癒されると考える。同時に、誰かに癒しが起きると、同じ原型で繋がっているソウルたちの集合場にも、癒しが波及する。その逆もある。

見えないもの=霊、スピリットなど神秘的な領域 ではなく、

私たち人間の物質要素も、非物質要素も、魂も、すべてデータ(情報)で出来ているというのが、今、量子物理学などと接近してきた新たな時代期の「スピリチュアル」である。そうかと言って機械的なあり方や考え方、心や温かさをカットしたような世界観ではなく・・数学的であっても、その中に宇宙を貫く創造主の愛を感じられるような意識を、私たちが拓いていく時代が来ているということだ。

 

そうそう。同じくヒストリーチャンネルだったか、NHKだったか・・コンピューターを動かしている「0と1だけで表現される言語」=2進法。遺伝子もある意味、2進法なのだとか。つきつめて&意識を広げて考えると、遺伝子を始めとして、あらゆる人間の物質・非物質が同じ原理で説明が出来るのかもしれず。肉体でも、感情でも、魂でも、過去生でも、関係なく、同じ言語で記述されているのだとすれば、

インド哲学や仏教の宇宙観にあるような、宇宙の創造主はミクロにしてマクロであり、それが私たち自身である、というような話も、数学的に謎解ける日が来るのかもしれない。

今はまだ人間の知識、技術、科学的センスが追いついていない訳だけど、量子論、脳科学や医学の研究も、遺伝子の解明も、すべてが一つの法則で説明出来るはずであるし、古代インドの人々は・・少なくとも一部の哲学者や執筆者は、それを知っていたのだろう。

 

遺伝子に刻まれているあらゆる記録、データから、直接話を効くヒーリング、みたいな手法が生まれるかもしれないし、先祖供養や地鎮や霊媒や憑依などの「非科学的」な現象や手段も、きわめて科学的なアプローチによるエネルギー変換であるということが、理解される時代も遠からず、来るのだろうと思う。

ニコラ・テスラは電気を発明し、世界中に無料で配ろうとして阻止された。A.チューリングは二進法によりコンピュータの土台を発明したが、時代の犠牲者となって失意のうちに世を去った。それでも人類の歴史は少しずつ賢くなり、先駆者だった天才たちの偉業を少し遅れて理解し、実用化する。

これもある種のワンネスで、今ここにある世界こそが、私たちの魂が共に作り上げて来た結果である。良いことも、そうでないことも。遺伝子の中には、そんな人類・・いや、ヒト種族になる前からのソウルたちの、地球における歴史が詰まっている。

 

ジェネシスヒーリングのバイブル「the Genesis」の改訂作業をしていたら、時々ある、個人を超えた「歴史そのものと同化する」「アカシックレコードになる」ような感覚が訪れた。

 

ワンネスと言いつつも、まだ悟りに至った訳ではない私にはどうしても、固めておきたいコンセプト、自分の仕事を通して伝えるべきメッセージがある。

色々有って、良いと思う。それぞれ、の役目や立場で、良いと思う。それぞれの速さ、高さ、遅さ、低さ、自由な角度、あっていいと思う。ラジャスとタマスを行き来しながら、サットヴァにはいつか、それぞれのペースで行き着けばいい。

むしろ自分自身がそれにこだわり、世間や周囲になびくではない、自分のライフスタイル、生き方を重視して来た。

自由な人間が、自分自身としてそこに立ち、自分の足で歩いていけば良い。

けれど、滅ぼす力、壊す力、奪う力、損なう力、枯れさせる力、だけは、人類は無くしていくよう意図しなくてはいけないのではないか、と思っている。

戦争や破壊がある限り、遺伝子は傷を記録するから・・人類は負のループから抜けられなくなる。急には無くならないとしても、少しずつ創造と破壊の比率が変わっていき、いつか悲しみを伴うような攻撃や、奪い合い、戦いが、個人のレベルでも、国同士のレベルでも、起こらなくなることを願う。

 

Love and Grace

Amari

分断か統合か 『英国総督 最後の家』

11/19の日記『偉業と偏見の狭間で』を書いた時に、神智学の重鎮である C.リードビーター(1854-1934)と、当時の同協会会長(2代目)アニー・ベサントらの啓蒙活動が、イギリスからのインド独立の流れに大きく影響したという事を改めて考えていた。

どういう事かというと、ガンジーがイギリスに留学(当時のインドの知識人層は「本国」であるイギリスの一流大学に留学することが多かったらしい)、その際に神智学協会と交流していて、インドの伝統的な哲学や思想の奥深さを、逆に神智学者たちによって学んだことで、民族意識に火が灯り、政治活動家になっていく流れを作ったらしい。

また、つい最近の「日記」記事に秘教的な地球の歴史・未来史に関わる記事『星々の導き。プレアデス信仰は火星から?』 を書いてその後、近い未来もどうなるんだろう?という国際情勢の中で、「道が別れる」「主義や方向性、譲れない条件によって互いに分断を選択する」ということが、地球文明規模でも起こるのだろうかと考えていた所でもあり。

そこに偶然見つけた映画『英国総督 最後の家』にタイミング的に感じるものがあり、見てみることに。

 

とても面白かった。面白いと言っていいのか・・「良い映画」だった。

1947年、インドで100万人以上の犠牲者が出る結果となったイギリスからの独立と、同時に行われたパキスタン建国による「インドの分断」を扱った映画である。

監督は、自身の祖母が当時実際に渦中に在り、そのような一般の人々の分断の記憶の痛みを描きつつも、物語の中心にはイギリスから派遣された「最後のインド総督」マウントバッテン伯爵とその家族の人道、ヒューマニズムと迷いの日々を軸として描いていて、映画の作品としてうまくまとめながら、伝えたい事をしっかりと観る者に、印象的に伝えてくる作品に仕上げている。

 


日記ブログには以前、エリザベス2世女王陛下が亡くなった時には『イギリスのこと』という記事を書いていた。そこで少し触れたが、子供の頃から歴史好きだった私は、高校時代に学んだ世界史において、近代の地域紛争・民族紛争の多くを引き起こしているのは、帝国主義時代のイギリスゆえではないか・・という理由で、思春期の?反発する矛先をなぜか英国、に向けている時期があった。

パレスティナ、香港、アイルランド、そしてこのインドの分断という歴史的な一幕も。その後、解決され得ない問題の始まりとなった。

 

イギリスは17世紀から300年間、インドを「領有」していた。その支配政策はどうやら(映画で何度かセリフの中に出てくるが)大多数のヒンドゥー教徒と、少数派のイスラム教徒を「適度に争わせ」、その上に母国として君臨するという方法をとっていた。歴史上よくあるように支配者が去っていって「解放された」国では、治安が乱れ、規制するものが不在な中で無秩序に人々が争い合い、国が乱れる。

他民族、他国民を支配することに慣れている「大英帝国」の貴族、王族でもあるマウントバッテン卿は、軍人として東南アジアで日本軍と戦い、その撤退後の収拾が落ち着いた頃に首相チャーチルの采配で、既に独立が確約されているインドの政治的処理を行う人物として最後のインド総督となる。

優しく誠実な人柄をある意味、国に「利用された」結果、「インドを分断させた人物」として歴史に残る形となった。作中、分断直後に大量の難民が発生し、暴徒と化した人々の、イスラムvsヒンドゥーの紛争、暴動は大規模な内乱となり、宮殿のような豪奢な総督邸には難民たちが救いを求めて押し寄せる。その光景を目にして総督は、自分が下した決定ゆえの、その国の有様に涙する。

イスラム教徒を住まわせる為のパキスタンの建国。ただ、人々は数千年に渡りともにインド人として生きて来たのであって、突然に線を引かれたことでパニックに、実際に宗派同士の紛争も勃発している中、命がけで、ヒンドゥ教徒は「インド」国内へ、ムスリムは「パキスタン」と決定された土地を目指す他ない。

この時、1400万人の人々が移動をし、難民となり、100万人が犠牲となったという。

この辺りの流れは、まさにイスラエル建国でパレスティナで起きたことと同じである。

途中、若かりしエリザベス女王の結婚が決まった、という話が出て来た。最近、逝去された女王はこのような激動期のイギリス君主であったのだなあ、としみじみ。もっとも激動していたのはインドのほうではある。ガンジーは、一貫して分断ではなく両宗教がともに生きるインドとして、イギリスから独立することを目指していた。

「インドを解放しに来たのに、切り裂くなんて」

総督夫人のこの一言は、当時の両国に関わったエリートのうち、イギリスの利権だけを考えていた人間でない場合、共有される心情だったのではないだろうか。300年に渡る、はるか遠いヨーロッパの国による支配から、晴れて自分たちで治める自分たちの国であるインド、を夢見ていた人々やその土地、習俗を愛していたイギリス人たちは、複雑な思い、いや、苦しんだことだろうと思う。もちろん、この映画の主人公である総督も。

 

神智学協会との交流がきっかけとなったにインドの精神文化への開眼が、ガンジーを祖国の独立運動へと導いたという件。300年のイギリスによる支配の間に風潮として定着していたのかもしれないが、当時インドで生まれ育つと、ヒンドゥ教はデタラメだ、と洗脳されていたらしい。ガンジーもそう思っていた所、19世紀末の激変する世界の空気感の中でヨーロッパで生まれた神智学では、古来のインド哲学や秘められた叡智の素晴らしさを「発見」し、掘り起こしを行っていた。

ガンジー初め、少なからぬインドのエリートたちがそんな空気に押されるようにインド独立へと希望を固めていったのだろう。

リードビーターは既に世を去っていたが、クリシュナムルティなどは、そんなインドの様子をどう見ていたのだろうか(彼は恐らく当時はアメリカに移っていた?)。

 

最近、アジア情勢も不安要素が多いために、中国のこと、朝鮮半島についても同じ様に日本がかつて分断のきっかけを作ってしまったということなどを、よく考える。し、古代史において日本にやって来たいわゆる「弥生人」のルーツ(紀元前の中国由来+もしかするとシルクロード由来+その後断続的な半島からの流入)に昔から興味があるから、最近はその筋の書籍を本棚から手にとって読んでいたりもした。

そして、直近の日記に書いた地球の遠い未来のことまで、思索は飛躍し繋がっていく。

これから、もちろん数百年規模で、だろうけど・・人間の望む未来は二手に分かれていくのではないか、と思っている。もうその頃には宗教の違いなどではなく、科学や生命、もしかすると魂などの量子物理レベルの取り扱いにおいて、人々の思想が大きく二分されていくのではないか。と。ひょっとするとそれが、「宗教」のようなものになっているかもしれない。

 

ガンジーが言った(この映画の中で)。

「心臓を二つに分けたら、二度と動かない。国も同じだ。」

 

「インド独立の父」と呼ばれるガンジーは、この映画で扱うイギリスからの独立そして国の分断、のわずか数ヶ月後に暗殺された。イスラム教徒、新国パキスタンと争ってはならないという平和主義を貫徹していたことで彼を逆恨みする、強硬派のヒンドゥ教徒によって銃弾に倒れた。

一方、マウントバッテン卿は、インド総督の後は英雄的な軍人・政治家としてイギリスで活躍していたが、映画で描かれた時代から30年を経た1979年に、なんとIRA(イギリスからのアイルランド独立を掲げる軍組織)により、家族数名ともども暗殺され、世を去っている。

かのヴィクトリア女王のひ孫であられるそうだ。

映画によると、実はイギリス政府は対ソ連対策で、海洋交通の要衝として港を有するカラチでの利権のために、最後の総督マウントバッテン伯爵を派遣するよりも前に既に、パキスタン独立を推進したいインドのイスラム系政治勢力とは話を付けていた、という。反対派(ヒンドゥ教徒)の指導者たちを説得しまとめるために、人間性から人望のある伯爵を総督にした、つまり国に利用されたということだ。-- これが事実かどうかは、不勉強のため分からず確認していない--

 

個人的に、100年前前後のインドとイギリスの文化や人の往来には興味を持っていたのと、ロンドンに行った時にパキスタン系の移民の方々が多く、どのような経緯でインドと別れたのかをいつか勉強しようと思いつつここまで来てしまったので、この映画は大いに響いたし、色々と考えさせられた。

この数年は韓流ドラマ、時代劇をよく観るようになったせいで、ハリウッドやイギリス発の作品でも何か物足りないというか、深みや、ググっと刺さるような人間ドラマの交錯が足りなく感じてしまう症候群・・になっているが、この映画は、中に添えられたインド人の男女の純愛物語もともに、韓流に負けないくらいの力があった。

歴史的な実話ゆえの、迫力もあるのかもしれない。インドという国が持つパワーや波長も、監督自身のルーツでもあるということだから、作品に自然と吹き込まれているのかもしれない。

*興味ある方はぜひ、見てみて下さい* (2018年製作 インド・イギリス合作)

 

Love and Grace,

Amari

ヒーリング、クリスタル、オーガニックライフを提案 : Arganza

日記 Blog : A Diary - Office Arganza

始まりと原郷、そして未来。

イギリスの新首相が立候補1名で即決された。報道では、日本でも「イギリス初のアジア系首相」とか言われている・・海外メディアの表現を邦訳したのだろうけど、実際に「アジア系」という印象は少なく、スラリとした長身、長い手足、話すそぶりや顔立ちも・・イギリス人だなあと見る。白人の血が入っていると思いきや、ご両親ともインド系とのことで・・ アーリア人種、印欧語族とはこういうことか、と朝から考えゴトが壮大に広がる。


共通の言語を話すひとつの集団が、東〜中央ヨーロッパの辺りに居て、それらがロシアなどの東欧、西ヨーロッパ、インド・ペルシャ(イラン)さらには南ヨーロッパのギリシャ、イタリアまで、分布したという。共通のひとつの文明を呈していたという話を、シュタイナーなど神秘学方面の人々は「統一時代」と言う。これに基づくと、少なくとも南インド以外のインド人は「アーリア系」インド人であり、インドに住む事で肌の色や多少顔立ちが変化した白人種、という事になる。
けれど考古学や言語学においては更に複雑で諸説あるよう。

この「印欧」アーリア系に含まれる人々は、手足が長くてすらりとして肌が白く彫が深い顔立ち、という事になっている。神智学も、その手の分野が流行した?19世紀に生まれていて、人種や文明に関する神秘的な視点が文献に伝えられる。けれども・・当時の時代の風潮や、空気感の中で編まれたものだから、幾らか修正が必要なのだろうと個人的には思っている。それにしても、石器時代から、青銅器、鉄器時代への移行期の中で、人間の質や文化がどう変遷していったか、これは若い頃からの個人的な強い関心テーマなのだ。


「ハピの巫女姫」「ガイアナ神謡集」もその興味関心の土台の上で書いていて、舞台設定は今から11000年前(ハピ)〜ガイアナのシリーズ(?!)の最後は、9000年前ころ(紀元前7000年)を想定している。「統一時代」と言われるものは、その数千年後になる訳だけど、それらの、「物証があって今の私たちの歴史観において「先史時代」と呼んでいるもの」の「更に前」の、「失われた時代」を描くことが、自分のコンセプトでもある。
つまり、神話の様な「統一時代」を更にさかのぼり、アトランティス終焉後の「リセット」から、現在存在が知られている原郷的な文明に至るまでの空白の時代。

『なぜ今こうなっているのか』・・が、いつも知りたくて仕方ない。

空白・・と言っても、現時点で世界最古と言われているメソポタミアはだいたい7000年前、か。日本の縄文だって立派な文明、という説もあるけれど、そこは「文明」の定義とは何かということなってくる。


話が逸れてしまったけど、新首相のスナク氏については分からない、御先祖に白人系の方が居るからなのか、アーリア系インド人の方がイギリスの知的・上流層で磨かれているとあの様なイギリス紳士風になるのか、、ともあれ、「アーリア系」にはどうもコンプレックスを(そうでない)民族は無意識に持っているだろうし、「アーリア系」に該当する方々もおそらくは無意識レベルで、差別ではなくとも区別する感覚はあるのだろうと思う。

日本人は、自覚している以上に実は、差別主義者だと外国の方々には思われている。差別するつもりはなく、どちらかというと「島国根性」なのだと思うけど・・外からやって来たものは、崇めるか、近づかない様にするかのどちらかだ。そこに悪気は無かったりする訳だけど、そのどちらもが、された側は「人間扱いされていない」と受け止めるよう。


地理的に、古代中国の戦国時代や、朝鮮で内乱が起きた時などに常に、新しい色々な物を携えた人々が流れついて、牧歌的に暮らしていたホビットのような縄文の人々はその都度、びっくりしながら、受け入れて、融合してきた筈だ。そうしていつしか出来上がった「日本」という文化。鎖国をしてアイデンティティを深めて行った先の、近代化、敗戦、復興。そして平和ぼけという幸せな境遇を経て、
私の密かな危惧は、数十年後、いや数百年後、日本列島の人々は果たして日本語を話しているだろうかという。出来れば残したいと、誰もが思うはず。

 

興味深い、と言ったら今の時世的に語弊があるかもしれないが、ウクライナ・ロシア国境付近というのは、上記の「統一時代」(つまりヨーローッパと中東・インドを含めた全域)の文明の原郷(ルーツ)、と考えられている場所でもあるよう(これについても違う学説もある)。その地から拡散した現文明期の何らかのカルマの昇華が今、始まったのだと考えられなくもない。
そのルーツに属さない東アジア人やアフリカの立場、役目、演じるべきキャストは何だろうか? 世界地図がこれから変わっていくのだろうか。平和ボケや島国根性では、本当に私たち日本人は固有の文化や言語を、失ってしまうかもしれない。

どのように始まって、どうして今こうなっているのか・・を、実学ではなくメタフィジカル、秘教的な立ち位置から考え、パラレルな「歴史」を描いていく。。自分に出来ることはそれで精一杯かもしれず。

Arganza のHP内の日記「A Diary」に徒然の雑記として書いていたものを、長くなったのでこちらに掲載。そのため、内容まとまらず中途半端ですが、お許し下さい。

Love and Grace

 

- A Diary - : Office Arganza HP

 

日常を支えるエナジーヒーリング:ウトパラ(Arganza内)

「進化」とは、世界が平和になること

 

約一年ぶりの記事になってしまいましたが、今年に入ってから、Instagram で散文的な文章を綴り、また3月には二年越で細々と準備していた新しい「オフィス・アルガンザ」のサイトを公開し、新しいメニュー、ページも書き下ろしたり、サイトのInfoDiary にも日々の呟きや伝えたい事などを、割と頻繁に書いています。

以前のペースにだいぶ戻って来たかな? しばらく「書かないように」していたのは寧ろ、自分にとっては例外的な期間でした。その分、ショップの商品ページが長文になったりして・・

このブログを、基本的には「書き物」の本拠地としたいのですが、仕事の全体像から言って準備が整わず、の日々でした。今後は、少しこれまでよりはリズムが出来てくるかと思います。

数年間かけて行ってきた「移行期」の、これまでの仕事の整理と、これからの仕事の準備。今年度は、移行期の最後の一年として、少しずつ、「これからの仕事」の一部分が表に出せるようになって来ました。その一連で、浮かんで来たメッセージを、今日も書いてみます。

 

「進化」とは、世界が平和になること

先日、12年ぶりにリモート(遠隔)グループセッション(『白い聖堂』旧・シャンバラ光の学校)を行うにあたってのページ作りで、「進化」「進化」と連呼していて、神智学などメタフィジカルな学びと、ヒーリングという分野を通じて歩んで来た自分としては当たり前の概念・言葉なので、普段は特に説明することもなく書いている訳だけど・・ふと、

「わたし別に進化なんてしなくてもいいワ」という、昔、時折サロンで聞いたような言葉を思い出して、ああ・・確かにそういう人の意見、少なからずあるなあ。特に日本社会は、平和なお影で「世の中を良くしよう」みたいな話が苦手で、引いてしまうし。若い人々の間では、「意識高い系」なんていう分類のワードも存在するよう

・・・・「系」も何もなく、当たり前の事なんだけどなあ・・ といつも思っている訳だけど、そんな「別の視点」が、頭を過ぎりました。

ヒーリングなど「スピリチュアル」な分野でも、話がオオゴトになると引いてしまう女性たちが多いし、俗の友人たちでも、「歴史」や「国際社会」みたいな話題になると「壮大だね」「知識が凄いね」「勉強してるのね」と返ってくる。いやいや、普通の思考なんだけれども・・と、若い頃からそれは変わらず。皆、面白がって私からそういった話を聞き出す時間を楽しんでくれてはいたけど・・・

年を重ねた今は、日本がそれだけ平和であり、また女性たちが、あまりややこしい事を考えないように育てられているという社会の性質ゆえだと思っている。

最近、ジェンダー的な話題は盛り上がりつつあり、何よりだと思うけど、実は女性達の方が社会的責任を自分が背負うことを望まない傾向が、日本にはあると私は感じる。自分はシングルマザーを自営業でやって来て、父親的な、世帯主・事業主としての役割と、母親としての役割を一人で両方やって来て、

普通ならば男性たちが味わう、家族を背負う責任感、そのために常に意識を張り詰めている世帯主としてのプレッシャーから来る、自分自身の不自由さと、口には出せないやるせなさの様なものも、理解出来る。女性側の、子供の母親としてのプレッシャー、家事に追われる辛さ切なさも、理解出来る。その上で思うのは、ジェンダー問題よりも前に、一人の独立した人間として、自分の頭で考えること、自分で結果に責任を持つことを前提に選択をすること、が、日本人には欠けがちで、潮の流れに受け身で乗っている、という、大衆意識が強いと思う。

歴史もあるし、風土が培った国民性の結果だから(日本の、日本人の良い面もたくさんあるし)そこを批判するのが目的ではなくて、『進化』という意識が、なぜ日本社会の空気の中で育ちにくいか、定着・浸透しにくいかを説明するために、今、そこに触れている。

アルガンザのワーク、ショップに綴る文章、SNS等でも、当たり前のように「進化」「進化」と書いてしまっているけれど、人によっては上記のように、「別にそんな必要は。楽しく生きていられたらそれでいいケド・・」と思う人も居るかもしれず。

そういえば昔よく母親に言われたっけ・・・(私が)自分では、皆が同じように分かっていると思って説明を省略して、その先の話をしているせいで、話が通じず、誤解されがち。と。

友人たちにも「私たちのところに降りて来て」とよく言われたっけ・・(笑)

『白い聖堂』について、シャンバラ、神智学について書いていて、ふとそんな事を思い出していたので、今日は原点に立ち返り、「進化とは」「なぜ進化することが必要か」について、伝えておこうと思う(ここまで前置き。笑)。

 

社会は様々な問題を抱えている。地球の自然破壊もかなりの所まで来ていて、昨今、それらの多くの課題が、世界的にSNSなどのメディアを通じて共有され、「エシカル」意識も普及しつつある。言葉としては飛び交っていても、やはり日本の人々の構えはまだまだ、世界基準に比べると足りていないのではないだろうか。

自然科学の分野では定説として、地球上6度目の大量絶滅が、人類によって引き起こされる、いや、すでに始まっているとも、言われている。

自然破壊、社会的格差、貧富の差、医療などの地域差、飢餓の問題、そして戦争。

それらの原因はと考えていくと、当然ながら、人間の利己や利欲、無知、怠惰などの種族的に持っている「欠点」ゆえの、結果の現象化に他ならない。

そのままにしておくと、地球上の問題はさらに進み、もう手遅れということになる。なぜ、問題をそのままにしておけない、と思っていても、人類総出で急いで何とかしよう、と団結して、一気に解決したりしないのか? どんな分野でも同じで、良い方への変化を、常に邪魔する力は働く。個人の人生、生活のレベルでも、社会レベルでも。会社などの組織でも、良い方への変化の流れは、そう簡単に為されないのは、大人ならば皆、経験していることと思う。

人間の中には良心、善の性質、仏教で言えば仏性(ブッディ・慈悲)、無条件の愛、があって、自分が悲しい思いや苦労をした人が、「こんな想いは自分だけで沢山」と発言する姿を、見たことがあるだろう。そういう人が、社会を変えなくてはという運動に着手する、というケースも少なくない。

一方で、人間は、逆の力がフックするためのネガティブな種も持ち合わせている。分かり易いネガティビティだけではなく「怠惰」や「人任せ」のような、インド思想で言ういわゆる「タマス(怠性)」もまた、人や社会が良くなろうとする時に邪魔をする要素になる。日本人はこの要素が強いのだろうと思っている。逆の「ラジャス(動性)」が足りない、とも言える。

ヒーリング、という分野でサロン、スクールをしてきたアルガンザの活動を通して、癒しや成長が人をどれほど、輝かせるか・・を目の当たりにして来た。エネルギーワークでヒーリングが起こり、日々のメンテナンスをするようになると、肉体・エネルギー両レベルから綺麗になっていくので、印象や顔つきも全く変わっていく。生き生きして、最初にお会いした時に被っていた影や重さが消えていくので、それぞれが持っている個性の魅力が開花していく。

ご本人ももちろん、生きることへの苦しみが減って、思考や感情が変わり、周囲の人々や家族にまで、時にその変化の波は波及する。

これを、大きいスケールで考えてみれば当然、社会や、世界全体が、苦しみや問題を手放し、創造的で自由になり、争いや不平等もなくなり、比較や嫉妬や破壊もなくなり、地球の自然界も守られて、世界が平和になっていく。・・・当然、そうなるだろう。

けれど、

外に広がっている、私たちが所属している、社会や物理的な現実の中では、ヒーリングやエネルギーワークの成果・効果は立ち消えやすく、影響を受けて乱されやすく、周波数をずっとキープしていくことが難しい(それゆえにアルガンザではセルフワークを何より重視し、クライアントや生徒さんたちにオススメしている)。

ヒーリングを受けた効果は一生消えたりはしない(オーラ体に記録される)けれど、自分の周波数が落ちてしまうと、その周波数の自分でしか存在出来ないのだ。癒しや解放が起きた時の周波数をキープしてこそ、変容の一歩一歩を、確実なものにしていける、ということ。

楽器の練習や、スポーツのトレーニングや、バレエのレッスンと同じだと思って欲しい。ずっとその意識、周波数を続けていかないと、今は、難しい。衰えてしまう。出来たことが出来なくなり、逆戻りもしてしまう。「今は」というのは、集合意識、人間社会の意識場、エネルギーが、まだそれだけ荒々しい故だ。

 

一人一人が、ネガティビティを自分の中で克服し、意識的な変化を起こしていかなければ、社会、世界は変わらない。けれど、自分がまだ、生きることが苦しかったり、目の前の問題に追われていたりすれば、当然、まずはそれを解決させなくてはならない。癒しや解放を経て、生きることが楽になったり、問題の解決方法の糸口をつかむ(スピリチュアルな意味での)知恵を身につけることが出来た時、当然、次の扉が開いていくものだ。

世界がなぜ、大変な問題を多く抱え、六度目の大量絶滅を迎える日が近いとまで言われているか。それを回避し、世界が存続して、地球上で人々が、自由に創造的に、健康的に暮らせるために、どうしたら良いか。同じ仕組みを、ヒーリングを体験し、効果を実感した人は、個人レベルで身をもって知った筈だ。

けれど扉の向こうに、歩みを進めようとする人は少ない。

立ち止まったり。戻ってしまったり。そこに、人間が良い方へ変わっていく、つまり進化する力学を止めようとする力が、働くのだ。

 

神智学や、アルガンザに言う「進化」とは、社会、世界の問題を解決していくために、人間そのものが変わっていく方法論に他ならない。それは意識的な学びや知識だけではうまくいかないし、チャクラやライトボディ、ソウルシステムとして分かっている古来の叡智を手がかりに、まずは、個人の問題を克服、解決していくために働き、

その先、進化成長した個人が、より多くの人にその知恵をシェアしていき、結果として、個人の癒しで為されたのと同じように、社会で、ひいては世界規模で、同じ様に癒し・問題の解決・成長・良きほうへの変容、創造 が、実現されていく。ひとつの同じ流れの上にある。

 

不平等の為に、不均衡の為に、理不尽なシステム故に、悲劇をこれ以上生み出さない為に、各分野で、奮闘している人たちが居る。世界をより良くするために。苦しみや悲しみではなく、喜びや笑顔を増やしていきたいと願うのは、ヒトが持っているハートの愛、善性、慈愛、仏性ゆえ。

メタフィジカル、スピリチュアルの分野は、古来の知恵が伝えるチャクラやライトボディ(オーラ)、ソウルシステムの知識とともに、個人レベルであれ、世界レベルであれ、「平和」を生み出すために、良き変化を起こしていくことを説き、一人からさらに周囲へと伝えることで、結果的に、世界が平和になり、自然界と地球が無事に保たれ、その中で生きるヒトの未来を、実現しようと奮闘するものではないか、と私は思っている。

ネガティビティを克服し、よりよい地球という現実を創造できる人類に変容していくこと、

それが『進化』だ。

結果として、世界、地球そのものも『進化』する。

 

またまた自分の話で恐縮ですが、

14歳でマザーテレサの存在と活動を知り、16歳でマイケル・ジャクソンの『Man in the Mirror』に刺激を受け、19歳でオノヨーコさんのフェミニズム思想に影響を受けた。それら全て、「何とかしなくちゃ」という突き動かされるような情熱の一つの流れとなって、日本社会の実態もそこそこ理解できた高校生当時、日本に居てはダメだ、と思った。

アメリカで大学・大学院を出て、世界を旅しながら学者をやって、人類の意識に影響を残せるような研究と著述をしよう。高校二年の時にそんな志をしてはみたものの、親の経済力をまったく推し量れていなかった。留学に備えて勉強に明け暮れた高校時代だったけれど、親の現実との妥協点から、日本から出れなかったし、公立の短大限定という制限を設けられた中で精一杯の選択をした。

その後、会社員時代、子育て時代に二度、通信や夜間部で大学の続きの学びを試みたものの挫折。何しろ自己メンテナンスの方法、人間の心と体の健康の仕組みも知らず、意志は強くてもそれ以外は弱かった。

この辺りの理想と現実、やる気と、実際の(人間界の)壁の摩擦から、またエネルギー面でも実は過敏だったこともあり、二十代半ばでウツになり、30歳を過ぎて、ヒーリングと出会った。

そして、自分を助けてくれたこの癒しの世界に、恩返しするためにまだ携わっている。「光の世界」だけは例外と思いこんだものの、どんな世界とも同じ、下手をするとそれ以上の闇の網が張られている。人類全体に同じ力が働いているのだ、分野は関係ない。逃げても仕方ない。個人の人間の中に、その「逆向きの力」の種があるのだから。(陰謀論の話ではなく)

 

世界には、こんな問題が存在している。今この瞬間、苦しんでいる人々がいる。社会のこのようなひずみから、苦しみ嘆く人が後を絶たない。・・・・このような話に触れた時、何も思わず、何が出来るかなと考えたりしない、自分には関係ないと処理してしまうようなことがもし、あるとすると、その心の「病み」具合を、心配するべき。目立たずに静かに起きている「病み」「闇」があると言ってもいい。もしかすると多くの人が、そうなのかもしれない。

「わたしは別にこのままでも・・」と思うこともまた、ある種の、「闇」「病み」なのだ。それが分かりにくい。だから、変化が起きにくい土壌、と言える。

 

光が自らを二つに分けて、闇を作ったという神話もある。

まさに私たち人間は、そんな風に用意された二元の世界で、自由な意志という選択権を与えられて生きている。自由な意志で、選び取らなくては、意味が無いからだ。

自由な意志で、判断し、自ら選択しなくては、「進化」は起こらないように出来ている。

自由な意志、結果を受け止める勇気、選択する心の強さ、ぜんぶ 日本人には苦手なもの。

(他の国の人々にもそれぞれ、課題、テーマがあるだろうと思う。)

 

本来、人間は、「皆で世界を平和にしよう」と思う気持ちを持っている。それが無条件の愛、仏性というものだ。世界が平和になる、ということは、人間が進化する、ということなのだ。

 

人類の進化プログラムを見守る世界のまなざしは、地球そのものを壊したりはしない。わざわざ造ったのだから。

「ハコブネ」は地球そのものであり、地球の歴史は今後もつづく。

そのハコブネに、乗っていられる文明レベルかどうか、によって、今後の方向は変わっていく。科学的に分かっているだけで、地球上の生命はもう5回、大量絶滅(ほぼ全滅)している。

それぞれの分野で、ハコブネのために奮闘している人々が居る。私はエナジーヒーラーゆえに、エナジーワークやヒーリング、メタフィジカルな情報を通して、説明をしています。

うちのワークを受けなさい、とか、石を買いなさい、という意味では全く無し。(笑)・・そもそもそんな精神でこの仕事をしていたら、数年しか続かないことでしょう。無条件の愛やエネルギーのクリアリングを謳う分野なので、そんなに甘くはない。シビアであり、それ故に、他には無い「やり甲斐」や感動もある。

 

話が逸れつつ、今日はこのくらいで。

Love and Grace,

Amari

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「贖罪」--- 二度目の『トッケビ』から。

韓国ドラマ『トッケビ(鬼怪)』のことを、いつか Face Book に書いたなあと探してみると、ちょうど一年前、去年の6月のことでした。

少し前に、2サイクルめの同作を見終わって、前回とは違う部分にやはり意識が向いたり、改めて重ねて思うこともあり。そこに来て、現実で見聞きしたこと、アルガンザワークのプラクティショナーさんたちへの遠隔伝授セッションから垣間見たジェネシス物語の断片なども、同じテーマで歯車が合ったように感じたタイミングで、刻んでおこうと思います。

同ドラマは、韓国でヒットメーカーと呼ばれる人気脚本家であるキム・ウンスク氏(金銀淑・女性です)が手掛けて、以前の投稿で書いたように私の印象は「日本の古き良き少女漫画みたい」で、とても好印象でした。スタイリッシュな演出やキャスティングのセンス、役者さんたちの実力と魅力、音楽、ストーリーの流れもちょっとした会話や小さな枝葉的要素もよく出来ていて。

同氏の作品は他にもヒット作が多いそうで、最初は時代劇限定だった我が家も、『トッケビ』をキッカケに少しずつ現代ドラマも見るようになりました。てっきり、同じ作者だと思っていた『青い海の伝説』は、実はまた別の人気作家さんの作品だと知って驚きました。諸要素が、よく似ているので。それは韓国ドラマのパターンなのかな。

今挙げた二つの作品はどちらも、時代劇シーンもありつつ、輪廻転生した主人公たちがカルマの中であれこれと相互作用し始め、運命を乗り越え、受け入れる部分は受け入れ、飛び越えたり新たな自由意志を発揮したりしながら、最終的にはハッピーエンド。『青い海の〜』は人魚伝説、『トッケビ』は鬼伝説をベースにしている。『トッケビ』のほうがより、宗教的な奥深さや、スピリチュアルな重さが感じられる。そこが魅力でもある。

何を見ても、アルガンザでまとめてきた地球と人類の魂の歴史『ジェネシス』の世界観や原型に照らして、考察してしまうクセが付いていて・・そのあたりのお話を少し。

二度目の『トッケビ』。主人公であるトッケビとその花嫁の二人も、もちろん素晴らしい(役者さんも、描かれる人物像、設定も)のですが、今回はその脇で準主役の「死神」さんにやや注目気味で見ていました。このドラマでは、前世で自ら命を断った人々が「数百年の地獄」を体験した後に、人間界で死神の仕事をしている。いわば公務員のようなもので、神に仕えているという意識、神への畏怖心は安定している。黒いスーツ、黒い帽子。帽子を被ると人間からは見えなくなる。死にゆく事になっている人間のリストが、自分の受け持ち分だけ届く。記載された日時にその人間を迎えに行き、然るべき場所へと送り出す。

ポイントは、トッケビが前世のままの肉体と記憶で939年生きているのと対照的に、死神たちは地獄を経てもまだ罰として、生前の記憶を失っている。つまりなぜ自分が罪人なのかを知らされていない。任務を通じて、死を巡る人間たちの様々な態度や感情を目の当たりすることを続けて、命の大切さを知っていくと同時に、どこかで、自分の過去生に関わる人間と任務を通じて再会し、その時には関連する人間たちも神の差配で同時に生まれ変わっていたり、関わり合っていたりしている。結果、過去生の記憶を取り戻し、自らの罪を自分の体験を通して学び、昇華できれば、死神の任務を終えることが出来る。どうやらそのような仕組みのよう。

トッケビと何故か同居する事になった(もちろん神の采配で)死神は、前世でトッケビと深く関わっていたため、その時代に関係する魂たちがドラマ序盤で続々と出会い直す。トッケビも死神の顔を見ても関わっても、覚えていない・気づかない設定になっていて、ドラマの終盤まで二人の関係・カルマは明かされない。けれどお茶の間的にはけっこう早い時期に察知していましたが・・。

まあ、そうなんです。「罪人」なので、この死神さんが前世を思い出した時に、現世目の前で起きていることとも絡み合いながら、自分の罪の重さと、自分を愛する者たちを不幸にした罪に涙する様子は、初見よりも注目できたせいか今回とても響きました。前世の彼は、「自分の妻も、忠臣も、民も、誰も私を愛さなかった」と言って自らの命を断ってしまいますが、過去を知ったトッケビが彼にぶつけたのは、「お前は妻にも臣下にも民にも、愛されていた」そして、「お前は妻も国も、自分自身さえ守ることが出来なかった」という言葉。

こういった愛にまつわる倒錯は、「ジェネシス」世界観で言うと、闇に囚われたアンドロソウルや、ケルビムソウルにも見られる切ない特徴だなあと。実際には何も問題が起きていないにも拘らず、自分の中にある弱さと、何らかの闇の力(このドラマでは時代モノなのでいわゆる奸臣の黒い囁き)が繋がった時に、愛や光や希望がすべて見えなくなり、すべてを否定したくなり、自分を卑下して堕ちて行ってしまう。多くの人にちゃんと愛されていたのに。ただ自分が、その人々を信頼し続けることが出来ていれば、何も問題は起きなかったのに。というパターン。

けれどこういう弱さは、大なり小なり誰にでもあるだろうと。主人公たちはその点、光に強い魂なので不屈の信念、絶対的な愛を貫けるタイプ。韓国時代劇にもよくある心弱い疑心暗鬼で被害妄想、壊れてしまう王様たちは、見ていると本当に(ジェネシスで言う)アンドロソウルが、光を失って囚われている典型のように見えます。何を言っても光の言葉は耳に入らず、闇の言葉に引きずられどこまでも。『トッケビ』の描く死神務めのようなシステムがあれば確かに、時間は相当かかるけれど、ソウルはいつかクリアリングされることでしょう。

最近、見ていたアルガンザでの伝授セッションのシーンの中で、自ら堕ちていく天使たちの軍団の物語がありました。天使たちとして地球に来る前に別の星系で、ある集団と対峙し戦った過去があり、そちらの、闇に染まったソウルたちは地球に「落ちる」ことで、転生を通じて学ぶコースにあり、一方で、天使たちとして地球に来ている彼らは、何とそこでまた自己犠牲的に同じような力との戦いの中で、自らを敢えて捧げるということをしていた。。。その意味が、自分の思考では分からなくて、暫し考えてしまった私。

石たちが「ジェネシス」世界観を体現し鎮座している、アルガンザのワークルームでぼうっとしていたら、不意に「贖罪のために自ら身を堕とす」というフレーズが降って来ました。「天使たち」に一体、なぜ、贖罪が必要なのだろうか・・・・・そこは、地球でのシステムや制度を超えた部分なので、想像して実感することは出来ないけれど、過去生(宇宙時代)で正義の戦士だった者たちが地球に天使として生まれ直し、かつて戦った者たちと再会し、罰を与えるのではなく、再び自己犠牲を行って散ってしまう必要が、それでも有ったという。

少し日を置いて感じてみると、「天使たち」は自己犠牲を通じて、闇の力の作動から当時の地球を救った訳ですが、その時に味わった闇の不快感や、黒い力に意識をも蝕まれていく体験が魂に刻まれた結果、人間界の転生コースに入った後には、神や宇宙を信じられず、自分自身さえ信頼出来ず、物事は常に戦いを伴い、決して良い結果では終わらない・・というインプットが入ってしまったようです。その状態で、さあ、ハイ、人間としての転生スタート。・・・何という大変な道のりでしょう。神や正義を知っていて、そのために戦っていた彼らでも、「敵」「闇」「正義」「戦い」という二元性を超えていくためには、その刷り込みを昇華していくためには、かつて持っていた善なる記憶や意識さえ忘却して、人間界をスタートしている。

 これは「天使」的な存在たちの一例であって、『ジェネシス』にはたくさんの、天使存在のグループが登場し、それぞれのカルマを持っています。

 韓国はキリスト教徒が多いと聞きますが、キリスト教、聖書の世界観の「贖罪(あがない)」と「自己犠牲」が、このドラマにはちらほらとあり。同時に、仏教が伝える輪廻転生、カルマ、因果応報の法則をも描き、人間の肉体を持って登場する「神」には、どうやら男・女の二神が居るようで、キリスト教(一神教)の超越神というよりは、道教に影響を受けたような男女の、青と赤をまとった対の神々という設定があるのかな?と思って見ていました。人間を生み出し守る女神と、死や自由意志も含めて人間世界の秩序を整理する男神、というようなイメージ。

 現実で目にする中でも、「敢えて堕ちる」人の姿を見ることがあります。私自身もヒーラーになる前、二十代半ばにそのような数年間がありました。その時の話を、かつてお世話になったヒーラーの先生に聞いて頂いた時、「自分から走って走って、崖に向かって落ちた、みたいな感じね」と。崖に落ちるべく疾走していた。まさにそのような時期でした。

 贖罪というのは、そう簡単なものではないのだな。としみじみ、思います。何気なく生きて流れに乗っていても、さして「罪を犯した」自覚が無くても、きっと来世では今世のマイナス要素を拾わなくてはいけなくなる。もちろんその逆、プラスゆえの恩恵や幸運もありますが。

 そう、崖に堕ちて、怪我をして、まずはその怪我を癒しつつ、落ちた分だけ戻らなくてはならないというマイナス要素から、歩みは始まる。人類の魂は、生まれ出されてからアトランティス人種を体験するまで、落ちて落ちて、落ち続けていた。周波数を下げつづけ、光だったのに闇と出会し、ついには闇に囚われ、自分の記憶を失った。ソウルとしては、自分が何者か分からない。「死神さん」と一緒なのです。

けれどどこかで、次元の裂け目が用意されていて、本来何者なのかを思い出す時が来る。その時こそ、悲しく苦しい涙に満ちた時間。けれどそれを、乗り越えなくてはならない。そこから先、真の「贖罪」が始まるために。

 原罪意識のような話をしたいのではなく、本来、愛であったという自分の魂を、記憶喪失から抜け出し、解放してあげることが、水瓶座時代の癒しと進化のテーマなのです。

 神智学では、人類の魂はアトランティスで二元性を極めて「堕ちきった」ところから、今は少しずつ、上がっても良いよ、上がらないと、そろそろね、という時代に入ったところであるという。けれどまだ過渡期の範疇だから、フタを開けると、ため込んできた恐れや不信や傷や不調和が騒ぎ出して、またフタを閉めてしまう。時代劇の「奸臣の囁き」のように、目に見えない精霊のようなモノ、モノノケ的な原型エネルギー、それが出入りする周囲の普通の人々の言葉などを通じて、前に進もうとしても再び、恐れや怠惰や不信を煽られてしまう。

 そのうち、そういうモノたちは存在出来なくなる時代が来ると思うけれど、今はまだまだ。

 長い長い贖罪の道。輪廻転生。

 それは、人類が罪深いからではなく、自ら選んで一度堕ちて、すべて忘れて、けれど歩きつづけるうちに思い出し、取り戻し、落ちた分だけ上昇し、さらに上に抜けていくというコースを、歩いているから起きている。ソウルの選択、自由意志なのです。

 だから騙されず、耳元のささやき、お腹の中でふと生じる不安に、惑わされず。ソウルを取り戻して行こう。

 ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが書いていました。恐れとは、神を信頼していないというある種の罪である、と。そのような「罪」の中で、ぐるぐると周りつづけ、転生しつづけるのを、本当は誰も望まない。

 けれど、不安を煽る力が、人間世界のあちこちに存在し、常に人々はそれに心を向けてしまうし、社会構造がそもそも、それで出来ている。

 『トッケビ』では、主人公キム・シンの妹、そしてトッケビの花嫁、この二人の女性たちはとても優秀で、メタフィジカル的に分析してもよく出来ている。キリスト教的自己犠牲をおこなう=天使、の姿を一人は演じていたし、もう一人は、過去生でも転生した現代でも真の愛が揺るぎなく、自分の感情に拘らず、神なる力の法則に乗っ取って決断、行動している、とてもシャンバラ、シリウスを感じさせる。つまり女神性と言っても良い。(←現世の外見やキャラの印象が全くそうではないトコロがまた面白い^^)

ヒットメーカーである作者さん、おそらく無意識ながら大いなるものからの受信、魂の高い層で筆を進めることが出来る方なのだろうと思った、二度目のトッケビ、でした。他のキム・ウンスク脚本作品を見ていても、男性主人公たちはセンシティブで気難しく、やや「病んでいる」キャラクターが多い一方で、女性陣は健康的でまっすぐ、頼もしく、愛にゆるぎないというパターンが多いかも。この『トッケビ』では、トッケビさん、および死神さんの、それぞれの「病み具合」が何とも愛らしく、良い味を出しています^^

アルガンザ・ジェネシスヒーリング™️

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Love and Grace,

Amari

 

奈良旅 2020年冬 シルフィードと大地の都、エソテリ旅。Vol. 3

前々記事前記事 からのつづき

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さてさて。

どうやら、前日(2日目)までで色々な層でのお仕事は終わったようで、最終日の3日目はだいたいいつも恒例の、盧舎那仏様へご挨拶。これは、20歳でひとり旅を始めた頃からの定番でもある。

なぜこんなに奈良が、奈良公園が、春日の森が(もちろん今回は行かなかった飛鳥や三輪も)好きなのか。自分でも不思議なほど。私は昔から自分に関係ある、ない、をすぐに感じてしまうような性質があって、人に誘われたから・・とか、メディアで取り上げられていたから・・とか、日本人ならば寧ろ普通かもしれない「周囲がやっているから」という理由で、自分が行動したり、時間を割いたりすることが出来ない。ゆえに必然的に旅などは一人でという事が多く、仕事も今のように自営業が合っているのだろうと思ふ。

興味を持つ分野は10代後半くらいで自我が固まってから殆ど変わっていなくて、それでも人間的に生きて行く上でのスキルの部分では、たえず大人になることを促されるので、少しずつ学ぶ中で、新しい分野をさりげなく?好きになったりもする。時が来れば学びや興味の扉が自動的に開くもので、「ちょっと好きかも」「かじって学んでみました」というコンテンツは少しずつ増えてはいく。

けれど、10代後半〜二十代前半に目覚めて大事にしていたようなものは、ずっと変わらずメインテーマであり続けている。一時、低迷した時代には見失うというか、手放さざるを得なかったり、ヒーラーの仕事で駆け抜けた初期の頃は自我意識が薄くなり、過去の記憶や過去の自分への興味が消えていき、ある意味、別の人になりかけていた(そうそう、その頃は完全にビーガンでノンアルコールだった)。その後色々とシステムから修正が入り、取り戻したり力を付けたり、鍛えられたり。そうなった時に、自我が大事にしていた「好き」もまた戻って来た。そのひとつが「奈良」である。

皮肉にも、奈良に移住して三輪山の麓にサロンを出して仕事に「熱中」していた4年間は、過去の奈良への愛着や、散策したいというモチベーションを失っていた時代。神智学でいう「熱誠家」にあたるのだろうと今では振り返る。スピリチュアルに自分が変容・成長していくことに情熱を持っているような時代。今では確かにちょっと違う。もう少し重たく、責任を感じているし、どう伝えたら伝わるだろう、何を残せるだろう、よりよい形にして人の役に立てるにはどうしたらいいだろう・・と、プロデュースする事に意識が集中しているし、そこにあるのは「情熱」や「楽しさ」でも「やりがい」でもない。

責任という力学を通じて行う、自分なりの愛の表現。そんな感じだ。

その中で、表現や思索を磨いていかねばという今のベクトルに、若い頃に情熱を感じていた奈良や歴史探求、哲学としての仏教や、美術・建築・思想などに触れることの出来る旅が、仕事の流れと統合されていくことが心地よい。「それなりに、キミの情熱と行動は、未来のキミのために役に立っているよ」・・・と、若い頃の自分に語りかけたい気持ちで、東大寺境内を歩いていた。

17歳くらいだったか、今の自分に通じるような、恐らく魂そのものの個性のようなものが固まって以来、頑張り過ぎて駆け抜け過ぎて、仏教信仰と修行、古代史探求と大和路めぐり、小説の執筆、ニューヨーク、ロンドン・パリまで一人旅、忙しい交友関係、日本全国に老若男女の友人たち、常にその人々の人生相談を引き受け、ロックバンドや作詞作曲、ライブ、観劇に大学の通信教育、夜間大学の受講・・・と。そりゃあパンクするよ、壊れるよ。と今なら思うけれど。その後、弾けるようにウツに落ちていき5年を過ごすことになる。

まだ元気で、奈良を歩いていた頃の、貧乏旅行を思い出す。ろくに食事もとらず、ユースホステルに泊まって真夏の炎天下を歩き続けたり。今と違ってスマホも無いので、ナビも時刻表も出せず、紙の地図とガイドブック、事前に書いてきた旅程の自筆のメモ、そして重たい(デジタルでもない)一眼レフカメラ。方向音痴だから道に迷う、電車を乗り間違える。奈良公園は節約のためか、もしかすると文系で左脳処理が乏しく距離感をイメージ出来なかったせいか、基本歩きで通していた。だから目的地に辿り着けず。などなど。

47歳の今は時間も体力も省エネ。バスを多用して移動。そして心強いスマホが居てくれる。不器用極まりない旅をしていたあの頃に比べて、エナジーワーカーとして15年以上を過ごしてきた今は、(スマホのお陰だけではなく)すべてがカチっと巧く噛み合い、運んでいくような絶妙な流れの中で、短い旅の中に必要なことだけがギュっと詰まっているよう。

「奈良」というテーマを巡っても、「vol. 2」に書いたように様々な時代を経て来た。情熱、移住、子育て、ヒーラーとしての関わり、二手に別れていた家族の統合、拠点の手放し。最終日3日目は、それらの全てに感謝しながら、一つの流れになって習合されていく現実、昇華されていく過去のエネルギーを、空に見送るような気持ちで、ゆっくりと歩んで盧舎那仏に会いに行った。

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普段より格段と空いている境内。制服姿の修学旅行生と大仏殿・・が、むしろここ最近の雰囲気からして、新鮮に見えた。

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定番のショットですが・・やはり少しだけセラフィー、シルフィーな雲がこの時、出ていました。同じ形で飛んでいる、まるで仏教壁画の飛天のような。

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こちらも(去年の奈良旅のインスタ記録でもご紹介した)定番。複雑な歴史を持つ大仏殿の境内の中で、創建当時から唯一、変わらずに立っている青銅の八角灯籠。見上げるほど大きい。国宝です。

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学生の皆さんから、盧舎那仏の大きさを感じて下さい。(勝手に・・笑)

脇侍は虚空蔵菩薩、反対側に如意輪観音。このお二人が身長7メートル。大仏さんは14メートルです。聖武天皇が創建した当時は、大仏も大仏殿もさらに巨大だった。今はこれでも縮小され、鎌倉期の再建・修復を経て現存しているものが多い。

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盧舎那仏の後ろ姿。光背だけでも迫力満点。

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こんな様子は見たことが無い・・人が映らない大仏殿。いつも人気の柱の穴くぐりもクローズされていた。

境内で近くを歩いていた私と同じくらいの世代の女性二人が「大きい!」「こんなに大きかったんだね」と、大仏殿が見えて来た頃に驚いていた。そうそう、同じ世代の方々・・私が若い頃に奈良に通っていてもまるで興味なさそうで。奈良出身の人にも「見るとこ無いでしょ?」と言われることも。友人たちが着いて来てくれた事もあったけど・・反応はいまひとつ。これくらいの・・つまり40代も後半になると、お寺や仏像に少しくらいは興味を持つのが一般的感覚なのかな? 自粛ムードで観光客がぐんと減っている中、もしやこんなご時世だからこそ、初めて興味を持って足を運んでみた、という人たちも結構いるような感触を肌で感じた。

テンション高めのアジア圏の観光客の皆さんの姿が無く。奈良好きで通っている風のご夫婦とか、スーツ姿で「仕事の出張で来たけれど時間が空いて・・」風の男性とか。手ぶらでお参りに来ている地元の方? そして本当は海外に行ける筈だったのかもしれない高校生の皆さん。いつもと違う、とても静かな奈良。だから余計に異空間、異次元に感じられて、統合と昇華の計らいを感じやすかった。

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「光と影」

「陰と陽」

そんなキーワードもちらつく3日間だった。

帰路へ。大仏殿の裏手から。

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ありがとう〜

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家族連れかな。

去年の奈良旅でインスタに載せた、「講堂跡」の礎石の写真のシリーズ?を撮るため、同じ石を探したけどちょっと急いでいたこともあって見つからず。似ている石をお借りして記念撮影。今回の旅直前に、儀式的にブーツを新調していた・・・靴はエネルギー視点からも大事なアイテムで、現実をシフトアップしたい時には、良い革の良い靴を買い、古い靴を感謝とともに処分する。

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ネットが無かった時代に写真集などで奈良に浸っていたのがスタート地点。その頃からの癖のように、大仏殿を遠くから望むような場所も好き。幾つかお気に入りスポットがあったりする。

感謝とともに。

(記事に載せた写真プラス、写真を足して、また違うセレクトで、アルガンザのInstagram にも投稿する予定。良かったら覗いて下さい。)

Love and Grace,

Amari

奈良旅 2020年冬 シルフィードと大地の都、エソテリ旅。Vol. 2

前記事のつづき

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春日野を後にして、近鉄奈良にバスで戻り、特急で大和八木へ。待ち合わせも無事に出来て、要件は約1時間で終了。さてどうしようかな、八木まで来ているのだから、三輪に行く(桜井駅)ならば電車で10分足らず。時間的にもあと2時間ほどで神社仏閣や博物館も閉まるようなタイミング。三輪にいくのが自然かな、と事前には考えていた。けれど、前記事に書いたように今回、春日野で三輪を体験していた。だから、行く必要が無いと感じた。特急の車窓から三輪のお山に挨拶をして、桜井を通過。

何故だか分からないけど、無性に平城宮に行きたいと思った。平城宮跡は何度かレンタサイクルや徒歩で、近所のお寺やホテルに行く途中で見かけたり通り過ぎたりする程度で、ちゃんと「上陸」したことが無かった。せんとくんを生み出した遷都1300年(2010年)前後に、朱雀門や第一次大極殿などが復元され、現在も着々と工事が続いているよう。どこまで再現されるのか分からないけど、広大な平城宮の敷地内に、門や建物、庭園などが当時の姿で蘇っていくのならば、華麗なる李朝時代を伝える韓国ドラマのように、日本でももっと奈良時代のドラマや映画の撮影が可能になって、作品が増えるかもしれない・・それに期待したい。

話を旅程に戻すと・・・平城宮を特急の中から一望したらば(電車で通り過ぎていてもしばらく続いているほどに広い)、ススキが一面に広がっているエリアがあった。あそこに行こう、と決意しつつも、もうひとつ、同じ大和西大寺駅を拠点として散策できる大好きなお寺がある。秋篠宮家のネーミングの由来になった「秋篠寺」。ここも、二十代前半の一人旅の中で好きで何度も訪れた場所。有名過ぎるほどだけど、美しい伎芸天の仏像が人気で、奈良時代から現存している本堂それ自体も国宝。苔むしたお庭も風情があって、全体に清潔感と、守っている方々のセンスの良さ、伝統的な洗練された美意識の高さを感じるお寺。

好きで通っていた、とは言え、何年振りだろう。。。奈良に住んでいる四年の間は結局、行けそうで行けなかったから、かれこれ。。。二十三年振りとか(!)なんと。

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山門から、参道に入り、風情のあるお庭を片手に玉砂利を踏む。

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時間があれば、ゆっくり眺めていたいようなお庭。(私はちょっと急ぎ足)

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こちらの可愛いお堂が本堂。奈良時代から立っているって、法隆寺もそうだけど奈良のお寺ならでは(ダジャレではなく)で、京都は応仁の乱による焼失、再建が多いから、奈良のように古くは無い。やはり独特の古さと、大切に守られてきたオーラを感じる。正確には鎌倉時代に大修理を経ているとのこと。

このあたり、平城宮に近かったエリアなので、当時の皇族がたが発願しているお寺が多い。この秋篠寺も光仁天皇による776年の発願を受けて建立、その子にあたる桓武天皇が平安京に遷都したころに完成しているよう。光仁天皇もなかなか、奥様の井上内親王ともども、悲劇の人でもあり。そんな事を思いながら、参道・入り口を経て、こちらの本堂とその前の玉砂利の広がりに出たら、午前中に春日野で見かけていたエンジェリックな雲から、またすこし様相を変えて、乱舞する羽毛のように。

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何故だかここで、ほろりと・・泣けてしまった。

二十三年振りの伎芸天。それから、当時はあまり意識を向けていなかった御本尊は薬師如来。脇侍に、日光・月光菩薩。「薬師十二神将」が、6人ずつに別れて御本尊の左右に。それから地蔵菩薩と不動明王が対応するように左右に。そして伎芸天、対応して反対の端には同じサイズの(共に造られただろう)帝釈天。さらに、区切られた空間の外側の左には「五大力菩薩」という、とても菩薩には見えない、天部かなという怖い形相、武装しているような五体の躍動感ある像。反対側にはコワモテでどのお寺や博物館で見ても引いてしまう赤い肌をした愛染明王。ここも、左右の両端でとても良い感じのバランスだ。

伎芸天は名前からしても分かる通り天女という事で伝わっている。けれど、体つきからして女性ではないことが分かる。本当は何の像なのだろう?といつも興味深く見つめてしまう。けれどご正体が何であれ、とにかく美しさに魅了される。(とても有名な仏像で、検索するとすぐに出て来るので宜しければ「ぎげいてん」と入れて見て下さい)

そんなに広くはないお堂の、中心部、薬師如来の前に立つと、左右のバランスの良さと全ての仏像が調和してひとつのグループを成しているような一体化した迫力が迫って来る。目を閉じて全霊でそれを浴びる。体の芯まで、浄化されていくよう。

お堂の中の小さなブースに座っているのは普通、御老人の職員さんというイメージがあるけど、お守りを買おうと思ってふと見るととても若い、高校生・・大学生かな?お兄さんが座っていた。こんな素晴らしい場所に静かに座っていられるのだから、徳を持っているのだろうな・・なんてオバさん、思いながらお守りを頂く。

お堂から名残おしい気持ちで外に出ると、再び見上げた羽毛の空に・・もう一度泣けてしまった。春日野で解けたものについて、感じてみる。こういう時、「赦し」のような現象が起きるものだと思っていた。ところが、却って、何だか分からないその「相手」に対しての「許せない」という魂の声は高まっていた。それは意外だった。とても静かだけれど、よくよく声を聞いてみると「許せない」「許してはならない」「許す必要はない」という。

けれど全くそれは「感情」や「想い」ではなく、まして「怒り」でもなく。ただエネルギーを読み取り直観する魂の、ありのままの感覚だった。ジャッジメントではなく、自然界の法則と同じように、ナチュラル、自然そのものだった。

「許せない」===けれど、自分が先方に何かを返す必要はないということを、潜在意識ごと悟った。受け入れた、というか。宇宙が返すのだから、自分がやり返す必要も、心や魂を損なわれる必要も、気に掛ける必要さえない。ただ、宇宙があるがままを返すのだから。と。

何でしょう?前世の記憶なのか、いにしえ人の集合場からの受信なのか・・・この、春日野で起きたエネルギーの解放と、秋篠寺で静かに払拭されたことによる気づきの2ステップで、とにかくこの境内では震えるような涙がお腹の底から湧き上がった。

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何度か、お礼をしながら境内を後にして山門をくぐる。

バスで大和西大寺駅へ戻り、そこからもう一度、今度は平城宮跡に向かうバスに乗る。

既に夕方で、日が沈んでしまいそう。

何とか、間に合いますように。

 

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間に合った!

おまけに夕焼けで、広大な宮殿跡地と復元された建造物、ススキや紅葉が美しい。

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大和盆地の向こう、生駒山系(大阪方面)、そして間近には午前中に出かけていた春日方面の山並みも。秋篠寺から1時間も経っていないのに、エンジェリックな雲たちはどこかへ消えていて、今度は長細く横たわるような優しげな雲。

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ありがとう、奈良。

先刻の用事は不動産の売却が成立したための契約。20歳の私が大好きになってしまい、そこから通い続けた5年間。その後、精神的な低迷とともに旅にも出られなくなって5年が過ぎ、30歳を過ぎてからヒーリングと出会って、癒しの道へ。ヒーラーの仕事が安定し始めて33歳の時に奈良へ。一年後に新築の分譲マンションを買い、家族で桜井へ本格移住。その後、シュタイナー学校進学のために娘と二人で横浜へ。2010年。

残してきた両親が今年の10月に神奈川へ。その準備として私たちは先に中古住宅をリフォームしながら待ち受けていた(詳しくはインスタにあり)。まだまだ先かと思いきや、急に買い手の方が良いご縁で現れて、トントンと。これで本当に「奈良の家」は無くなる。けれどまったく執着もなく、不思議なほど寂しさもない。

春日で三輪を体感した、というのとこれは似ているのかもしれない。もう奈良は・・というか、奈良への自分自身の愛着やノスタルジーは当たり前のように自分の一部になり、奈良というテーマは外にあるのではなく全てが自分の内側にある。いつでも自分の中から感じることが出来る。それを確認するために、これからもまた通うのだろうし、若い頃のような切望はもちろん無い。

ごく当たり前のようにそこに居る。ただそれに感謝する。そういう存在になっている。

他の土地や、他の興味についても同じで・・・ひとえに、私自身の変化によるものと言えるかもしれない。欲する、望む、求める・・ということは無い。ただ内側にある響きを、確認するために、響き合わせるために、どこかから聞こえるサウンドに呼ばれるように足を運んだり、何かや、誰かに、出会ったりするのかもしれない。

写真↑の正面奥に写っているのが「朱雀門」。結局、ここまで歩いて平城宮の反対側へ抜けることにした。朱雀門前のバス停から、バスでホテルに帰る。

(たぶん、「つづく」)

Love and Grace,

Amari