Energy and Crystals

鉱石とエナジーワークと神智学と、生きること。

「贖罪」--- 二度目の『トッケビ』から。

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長野県産黄水晶ふたつ。私物から「Aコレ」に出品します。
韓国ドラマ『トッケビ(鬼怪)』のことを、いつか Face Book に書いたなあと探してみると、ちょうど一年前、去年の6月のことでした。

少し前に、2サイクルめの同作を見終わって、前回とは違う部分にやはり意識が向いたり、改めて重ねて思うこともあり。そこに来て、現実で見聞きしたこと、アルガンザワークのプラクティショナーさんたちへの遠隔伝授セッションから垣間見たジェネシス物語の断片なども、同じテーマで歯車が合ったように感じたタイミングで、刻んでおこうと思います。

同ドラマは、韓国でヒットメーカーと呼ばれる人気脚本家であるキム・ウンスク氏(金銀淑・女性です)が手掛けて、以前の投稿で書いたように私の印象は「日本の古き良き少女漫画みたい」で、とても好印象でした。スタイリッシュな演出やキャスティングのセンス、役者さんたちの実力と魅力、音楽、ストーリーの流れもちょっとした会話や小さな枝葉的要素もよく出来ていて。

同氏の作品は他にもヒット作が多いそうで、最初は時代劇限定だった我が家も、『トッケビ』をキッカケに少しずつ現代ドラマも見るようになりました。てっきり、同じ作者だと思っていた『青い海の伝説』は、実はまた別の人気作家さんの作品だと知って驚きました。諸要素が、よく似ているので。それは韓国ドラマのパターンなのかな。

今挙げた二つの作品はどちらも、時代劇シーンもありつつ、輪廻転生した主人公たちがカルマの中であれこれと相互作用し始め、運命を乗り越え、受け入れる部分は受け入れ、飛び越えたり新たな自由意志を発揮したりしながら、最終的にはハッピーエンド。『青い海の〜』は人魚伝説、『トッケビ』は鬼伝説をベースにしている。『トッケビ』のほうがより、宗教的な奥深さや、スピリチュアルな重さが感じられる。そこが魅力でもある。

何を見ても、アルガンザでまとめてきた地球と人類の魂の歴史『ジェネシス』の世界観や原型に照らして、考察してしまうクセが付いていて・・そのあたりのお話を少し。

二度目の『トッケビ』。主人公であるトッケビとその花嫁の二人も、もちろん素晴らしい(役者さんも、描かれる人物像、設定も)のですが、今回はその脇で準主役の「死神」さんにやや注目気味で見ていました。このドラマでは、前世で自ら命を断った人々が「数百年の地獄」を体験した後に、人間界で死神の仕事をしている。いわば公務員のようなもので、神に仕えているという意識、神への畏怖心は安定している。黒いスーツ、黒い帽子。帽子を被ると人間からは見えなくなる。死にゆく事になっている人間のリストが、自分の受け持ち分だけ届く。記載された日時にその人間を迎えに行き、然るべき場所へと送り出す。

ポイントは、トッケビが前世のままの肉体と記憶で939年生きているのと対照的に、死神たちは地獄を経てもまだ罰として、生前の記憶を失っている。つまりなぜ自分が罪人なのかを知らされていない。任務を通じて、死を巡る人間たちの様々な態度や感情を目の当たりすることを続けて、命の大切さを知っていくと同時に、どこかで、自分の過去生に関わる人間と任務を通じて再会し、その時には関連する人間たちも神の差配で同時に生まれ変わっていたり、関わり合っていたりしている。結果、過去生の記憶を取り戻し、自らの罪を自分の体験を通して学び、昇華できれば、死神の任務を終えることが出来る。どうやらそのような仕組みのよう。

トッケビと何故か同居する事になった(もちろん神の采配で)死神は、前世でトッケビと深く関わっていたため、その時代に関係する魂たちがドラマ序盤で続々と出会い直す。トッケビも死神の顔を見ても関わっても、覚えていない・気づかない設定になっていて、ドラマの終盤まで二人の関係・カルマは明かされない。けれどお茶の間的にはけっこう早い時期に察知していましたが・・。

まあ、そうなんです。「罪人」なので、この死神さんが前世を思い出した時に、現世目の前で起きていることとも絡み合いながら、自分の罪の重さと、自分を愛する者たちを不幸にした罪に涙する様子は、初見よりも注目できたせいか今回とても響きました。前世の彼は、「自分の妻も、忠臣も、民も、誰も私を愛さなかった」と言って自らの命を断ってしまいますが、過去を知ったトッケビが彼にぶつけたのは、「お前は妻にも臣下にも民にも、愛されていた」そして、「お前は妻も国も、自分自身さえ守ることが出来なかった」という言葉。

こういった愛にまつわる倒錯は、「ジェネシス」世界観で言うと、闇に囚われたアンドロソウルや、ケルビムソウルにも見られる切ない特徴だなあと。実際には何も問題が起きていないにも拘らず、自分の中にある弱さと、何らかの闇の力(このドラマでは時代モノなのでいわゆる奸臣の黒い囁き)が繋がった時に、愛や光や希望がすべて見えなくなり、すべてを否定したくなり、自分を卑下して堕ちて行ってしまう。多くの人にちゃんと愛されていたのに。ただ自分が、その人々を信頼し続けることが出来ていれば、何も問題は起きなかったのに。というパターン。

けれどこういう弱さは、大なり小なり誰にでもあるだろうと。主人公たちはその点、光に強い魂なので不屈の信念、絶対的な愛を貫けるタイプ。韓国時代劇にもよくある心弱い疑心暗鬼で被害妄想、壊れてしまう王様たちは、見ていると本当に(ジェネシスで言う)アンドロソウルが、光を失って囚われている典型のように見えます。何を言っても光の言葉は耳に入らず、闇の言葉に引きずられどこまでも。『トッケビ』の描く死神務めのようなシステムがあれば確かに、時間は相当かかるけれど、ソウルはいつかクリアリングされることでしょう。

最近、見ていたアルガンザでの伝授セッションのシーンの中で、自ら堕ちていく天使たちの軍団の物語がありました。天使たちとして地球に来る前に別の星系で、ある集団と対峙し戦った過去があり、そちらの、闇に染まったソウルたちは地球に「落ちる」ことで、転生を通じて学ぶコースにあり、一方で、天使たちとして地球に来ている彼らは、何とそこでまた自己犠牲的に同じような力との戦いの中で、自らを敢えて捧げるということをしていた。。。その意味が、自分の思考では分からなくて、暫し考えてしまった私。

石たちが「ジェネシス」世界観を体現し鎮座している、アルガンザのワークルームでぼうっとしていたら、不意に「贖罪のために自ら身を堕とす」というフレーズが降って来ました。「天使たち」に一体、なぜ、贖罪が必要なのだろうか・・・・・そこは、地球でのシステムや制度を超えた部分なので、想像して実感することは出来ないけれど、過去生(宇宙時代)で正義の戦士だった者たちが地球に天使として生まれ直し、かつて戦った者たちと再会し、罰を与えるのではなく、再び自己犠牲を行って散ってしまう必要が、それでも有ったという。

少し日を置いて感じてみると、「天使たち」は自己犠牲を通じて、闇の力の作動から当時の地球を救った訳ですが、その時に味わった闇の不快感や、黒い力に意識をも蝕まれていく体験が魂に刻まれた結果、人間界の転生コースに入った後には、神や宇宙を信じられず、自分自身さえ信頼出来ず、物事は常に戦いを伴い、決して良い結果では終わらない・・というインプットが入ってしまったようです。その状態で、さあ、ハイ、人間としての転生スタート。・・・何という大変な道のりでしょう。神や正義を知っていて、そのために戦っていた彼らでも、「敵」「闇」「正義」「戦い」という二元性を超えていくためには、その刷り込みを昇華していくためには、かつて持っていた善なる記憶や意識さえ忘却して、人間界をスタートしている。

 これは「天使」的な存在たちの一例であって、『ジェネシス』にはたくさんの、天使存在のグループが登場し、それぞれのカルマを持っています。

 韓国はキリスト教徒が多いと聞きますが、キリスト教、聖書の世界観の「贖罪(あがない)」と「自己犠牲」が、このドラマにはちらほらとあり。同時に、仏教が伝える輪廻転生、カルマ、因果応報の法則をも描き、人間の肉体を持って登場する「神」には、どうやら男・女の二神が居るようで、キリスト教(一神教)の超越神というよりは、道教に影響を受けたような男女の、青と赤をまとった対の神々という設定があるのかな?と思って見ていました。人間を生み出し守る女神と、死や自由意志も含めて人間世界の秩序を整理する男神、というようなイメージ。

 現実で目にする中でも、「敢えて堕ちる」人の姿を見ることがあります。私自身もヒーラーになる前、二十代半ばにそのような数年間がありました。その時の話を、かつてお世話になったヒーラーの先生に聞いて頂いた時、「自分から走って走って、崖に向かって落ちた、みたいな感じね」と。崖に落ちるべく疾走していた。まさにそのような時期でした。

 贖罪というのは、そう簡単なものではないのだな。としみじみ、思います。何気なく生きて流れに乗っていても、さして「罪を犯した」自覚が無くても、きっと来世では今世のマイナス要素を拾わなくてはいけなくなる。もちろんその逆、プラスゆえの恩恵や幸運もありますが。

 そう、崖に堕ちて、怪我をして、まずはその怪我を癒しつつ、落ちた分だけ戻らなくてはならないというマイナス要素から、歩みは始まる。人類の魂は、生まれ出されてからアトランティス人種を体験するまで、落ちて落ちて、落ち続けていた。周波数を下げつづけ、光だったのに闇と出会し、ついには闇に囚われ、自分の記憶を失った。ソウルとしては、自分が何者か分からない。「死神さん」と一緒なのです。

けれどどこかで、次元の裂け目が用意されていて、本来何者なのかを思い出す時が来る。その時こそ、悲しく苦しい涙に満ちた時間。けれどそれを、乗り越えなくてはならない。そこから先、真の「贖罪」が始まるために。

 原罪意識のような話をしたいのではなく、本来、愛であったという自分の魂を、記憶喪失から抜け出し、解放してあげることが、水瓶座時代の癒しと進化のテーマなのです。

 神智学では、人類の魂はアトランティスで二元性を極めて「堕ちきった」ところから、今は少しずつ、上がっても良いよ、上がらないと、そろそろね、という時代に入ったところであるという。けれどまだ過渡期の範疇だから、フタを開けると、ため込んできた恐れや不信や傷や不調和が騒ぎ出して、またフタを閉めてしまう。時代劇の「奸臣の囁き」のように、目に見えない精霊のようなモノ、モノノケ的な原型エネルギー、それが出入りする周囲の普通の人々の言葉などを通じて、前に進もうとしても再び、恐れや怠惰や不信を煽られてしまう。

 そのうち、そういうモノたちは存在出来なくなる時代が来ると思うけれど、今はまだまだ。

 長い長い贖罪の道。輪廻転生。

 それは、人類が罪深いからではなく、自ら選んで一度堕ちて、すべて忘れて、けれど歩きつづけるうちに思い出し、取り戻し、落ちた分だけ上昇し、さらに上に抜けていくというコースを、歩いているから起きている。ソウルの選択、自由意志なのです。

 だから騙されず、耳元のささやき、お腹の中でふと生じる不安に、惑わされず。ソウルを取り戻して行こう。

 ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが書いていました。恐れとは、神を信頼していないというある種の罪である、と。そのような「罪」の中で、ぐるぐると周りつづけ、転生しつづけるのを、本当は誰も望まない。

 けれど、不安を煽る力が、人間世界のあちこちに存在し、常に人々はそれに心を向けてしまうし、社会構造がそもそも、それで出来ている。

 『トッケビ』では、主人公キム・シンの妹、そしてトッケビの花嫁、この二人の女性たちはとても優秀で、メタフィジカル的に分析してもよく出来ている。キリスト教的自己犠牲をおこなう=天使、の姿を一人は演じていたし、もう一人は、過去生でも転生した現代でも真の愛が揺るぎなく、自分の感情に拘らず、神なる力の法則に乗っ取って決断、行動している、とてもシャンバラ、シリウスを感じさせる。つまり女神性と言っても良い。(←現世の外見やキャラの印象が全くそうではないトコロがまた面白い^^)

ヒットメーカーである作者さん、おそらく無意識ながら大いなるものからの受信、魂の高い層で筆を進めることが出来る方なのだろうと思った、二度目のトッケビ、でした。他のキム・ウンスク脚本作品を見ていても、男性主人公たちはセンシティブで気難しく、やや「病んでいる」キャラクターが多い一方で、女性陣は健康的でまっすぐ、頼もしく、愛にゆるぎないというパターンが多いかも。この『トッケビ』では、トッケビさん、および死神さんの、それぞれの「病み具合」が何とも愛らしく、良い味を出しています^^

アルガンザ・ジェネシスヒーリング™️

https://www.arganza.jp/genesis/genesis.html

Love and Grace,

Amari

 

奈良旅 2020年冬 シルフィードと大地の都、エソテリ旅。Vol. 3

前々記事前記事 からのつづき

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さてさて。

どうやら、前日(2日目)までで色々な層でのお仕事は終わったようで、最終日の3日目はだいたいいつも恒例の、盧舎那仏様へご挨拶。これは、20歳でひとり旅を始めた頃からの定番でもある。

なぜこんなに奈良が、奈良公園が、春日の森が(もちろん今回は行かなかった飛鳥や三輪も)好きなのか。自分でも不思議なほど。私は昔から自分に関係ある、ない、をすぐに感じてしまうような性質があって、人に誘われたから・・とか、メディアで取り上げられていたから・・とか、日本人ならば寧ろ普通かもしれない「周囲がやっているから」という理由で、自分が行動したり、時間を割いたりすることが出来ない。ゆえに必然的に旅などは一人でという事が多く、仕事も今のように自営業が合っているのだろうと思ふ。

興味を持つ分野は10代後半くらいで自我が固まってから殆ど変わっていなくて、それでも人間的に生きて行く上でのスキルの部分では、たえず大人になることを促されるので、少しずつ学ぶ中で、新しい分野をさりげなく?好きになったりもする。時が来れば学びや興味の扉が自動的に開くもので、「ちょっと好きかも」「かじって学んでみました」というコンテンツは少しずつ増えてはいく。

けれど、10代後半〜二十代前半に目覚めて大事にしていたようなものは、ずっと変わらずメインテーマであり続けている。一時、低迷した時代には見失うというか、手放さざるを得なかったり、ヒーラーの仕事で駆け抜けた初期の頃は自我意識が薄くなり、過去の記憶や過去の自分への興味が消えていき、ある意味、別の人になりかけていた(そうそう、その頃は完全にビーガンでノンアルコールだった)。その後色々とシステムから修正が入り、取り戻したり力を付けたり、鍛えられたり。そうなった時に、自我が大事にしていた「好き」もまた戻って来た。そのひとつが「奈良」である。

皮肉にも、奈良に移住して三輪山の麓にサロンを出して仕事に「熱中」していた4年間は、過去の奈良への愛着や、散策したいというモチベーションを失っていた時代。神智学でいう「熱誠家」にあたるのだろうと今では振り返る。スピリチュアルに自分が変容・成長していくことに情熱を持っているような時代。今では確かにちょっと違う。もう少し重たく、責任を感じているし、どう伝えたら伝わるだろう、何を残せるだろう、よりよい形にして人の役に立てるにはどうしたらいいだろう・・と、プロデュースする事に意識が集中しているし、そこにあるのは「情熱」や「楽しさ」でも「やりがい」でもない。

責任という力学を通じて行う、自分なりの愛の表現。そんな感じだ。

その中で、表現や思索を磨いていかねばという今のベクトルに、若い頃に情熱を感じていた奈良や歴史探求、哲学としての仏教や、美術・建築・思想などに触れることの出来る旅が、仕事の流れと統合されていくことが心地よい。「それなりに、キミの情熱と行動は、未来のキミのために役に立っているよ」・・・と、若い頃の自分に語りかけたい気持ちで、東大寺境内を歩いていた。

17歳くらいだったか、今の自分に通じるような、恐らく魂そのものの個性のようなものが固まって以来、頑張り過ぎて駆け抜け過ぎて、仏教信仰と修行、古代史探求と大和路めぐり、小説の執筆、ニューヨーク、ロンドン・パリまで一人旅、忙しい交友関係、日本全国に老若男女の友人たち、常にその人々の人生相談を引き受け、ロックバンドや作詞作曲、ライブ、観劇に大学の通信教育、夜間大学の受講・・・と。そりゃあパンクするよ、壊れるよ。と今なら思うけれど。その後、弾けるようにウツに落ちていき5年を過ごすことになる。

まだ元気で、奈良を歩いていた頃の、貧乏旅行を思い出す。ろくに食事もとらず、ユースホステルに泊まって真夏の炎天下を歩き続けたり。今と違ってスマホも無いので、ナビも時刻表も出せず、紙の地図とガイドブック、事前に書いてきた旅程の自筆のメモ、そして重たい(デジタルでもない)一眼レフカメラ。方向音痴だから道に迷う、電車を乗り間違える。奈良公園は節約のためか、もしかすると文系で左脳処理が乏しく距離感をイメージ出来なかったせいか、基本歩きで通していた。だから目的地に辿り着けず。などなど。

47歳の今は時間も体力も省エネ。バスを多用して移動。そして心強いスマホが居てくれる。不器用極まりない旅をしていたあの頃に比べて、エナジーワーカーとして15年以上を過ごしてきた今は、(スマホのお陰だけではなく)すべてがカチっと巧く噛み合い、運んでいくような絶妙な流れの中で、短い旅の中に必要なことだけがギュっと詰まっているよう。

「奈良」というテーマを巡っても、「vol. 2」に書いたように様々な時代を経て来た。情熱、移住、子育て、ヒーラーとしての関わり、二手に別れていた家族の統合、拠点の手放し。最終日3日目は、それらの全てに感謝しながら、一つの流れになって習合されていく現実、昇華されていく過去のエネルギーを、空に見送るような気持ちで、ゆっくりと歩んで盧舎那仏に会いに行った。

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普段より格段と空いている境内。制服姿の修学旅行生と大仏殿・・が、むしろここ最近の雰囲気からして、新鮮に見えた。

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定番のショットですが・・やはり少しだけセラフィー、シルフィーな雲がこの時、出ていました。同じ形で飛んでいる、まるで仏教壁画の飛天のような。

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こちらも(去年の奈良旅のインスタ記録でもご紹介した)定番。複雑な歴史を持つ大仏殿の境内の中で、創建当時から唯一、変わらずに立っている青銅の八角灯籠。見上げるほど大きい。国宝です。

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学生の皆さんから、盧舎那仏の大きさを感じて下さい。(勝手に・・笑)

脇侍は虚空蔵菩薩、反対側に如意輪観音。このお二人が身長7メートル。大仏さんは14メートルです。聖武天皇が創建した当時は、大仏も大仏殿もさらに巨大だった。今はこれでも縮小され、鎌倉期の再建・修復を経て現存しているものが多い。

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盧舎那仏の後ろ姿。光背だけでも迫力満点。

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こんな様子は見たことが無い・・人が映らない大仏殿。いつも人気の柱の穴くぐりもクローズされていた。

境内で近くを歩いていた私と同じくらいの世代の女性二人が「大きい!」「こんなに大きかったんだね」と、大仏殿が見えて来た頃に驚いていた。そうそう、同じ世代の方々・・私が若い頃に奈良に通っていてもまるで興味なさそうで。奈良出身の人にも「見るとこ無いでしょ?」と言われることも。友人たちが着いて来てくれた事もあったけど・・反応はいまひとつ。これくらいの・・つまり40代も後半になると、お寺や仏像に少しくらいは興味を持つのが一般的感覚なのかな? 自粛ムードで観光客がぐんと減っている中、もしやこんなご時世だからこそ、初めて興味を持って足を運んでみた、という人たちも結構いるような感触を肌で感じた。

テンション高めのアジア圏の観光客の皆さんの姿が無く。奈良好きで通っている風のご夫婦とか、スーツ姿で「仕事の出張で来たけれど時間が空いて・・」風の男性とか。手ぶらでお参りに来ている地元の方? そして本当は海外に行ける筈だったのかもしれない高校生の皆さん。いつもと違う、とても静かな奈良。だから余計に異空間、異次元に感じられて、統合と昇華の計らいを感じやすかった。

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「光と影」

「陰と陽」

そんなキーワードもちらつく3日間だった。

帰路へ。大仏殿の裏手から。

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ありがとう〜

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家族連れかな。

去年の奈良旅でインスタに載せた、「講堂跡」の礎石の写真のシリーズ?を撮るため、同じ石を探したけどちょっと急いでいたこともあって見つからず。似ている石をお借りして記念撮影。今回の旅直前に、儀式的にブーツを新調していた・・・靴はエネルギー視点からも大事なアイテムで、現実をシフトアップしたい時には、良い革の良い靴を買い、古い靴を感謝とともに処分する。

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ネットが無かった時代に写真集などで奈良に浸っていたのがスタート地点。その頃からの癖のように、大仏殿を遠くから望むような場所も好き。幾つかお気に入りスポットがあったりする。

感謝とともに。

(記事に載せた写真プラス、写真を足して、また違うセレクトで、アルガンザのInstagram にも投稿する予定。良かったら覗いて下さい。)

Love and Grace,

Amari

奈良旅 2020年冬 シルフィードと大地の都、エソテリ旅。Vol. 2

前記事のつづき

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春日野を後にして、近鉄奈良にバスで戻り、特急で大和八木へ。待ち合わせも無事に出来て、要件は約1時間で終了。さてどうしようかな、八木まで来ているのだから、三輪に行く(桜井駅)ならば電車で10分足らず。時間的にもあと2時間ほどで神社仏閣や博物館も閉まるようなタイミング。三輪にいくのが自然かな、と事前には考えていた。けれど、前記事に書いたように今回、春日野で三輪を体験していた。だから、行く必要が無いと感じた。特急の車窓から三輪のお山に挨拶をして、桜井を通過。

何故だか分からないけど、無性に平城宮に行きたいと思った。平城宮跡は何度かレンタサイクルや徒歩で、近所のお寺やホテルに行く途中で見かけたり通り過ぎたりする程度で、ちゃんと「上陸」したことが無かった。せんとくんを生み出した遷都1300年(2010年)前後に、朱雀門や第一次大極殿などが復元され、現在も着々と工事が続いているよう。どこまで再現されるのか分からないけど、広大な平城宮の敷地内に、門や建物、庭園などが当時の姿で蘇っていくのならば、華麗なる李朝時代を伝える韓国ドラマのように、日本でももっと奈良時代のドラマや映画の撮影が可能になって、作品が増えるかもしれない・・それに期待したい。

話を旅程に戻すと・・・平城宮を特急の中から一望したらば(電車で通り過ぎていてもしばらく続いているほどに広い)、ススキが一面に広がっているエリアがあった。あそこに行こう、と決意しつつも、もうひとつ、同じ大和西大寺駅を拠点として散策できる大好きなお寺がある。秋篠宮家のネーミングの由来になった「秋篠寺」。ここも、二十代前半の一人旅の中で好きで何度も訪れた場所。有名過ぎるほどだけど、美しい伎芸天の仏像が人気で、奈良時代から現存している本堂それ自体も国宝。苔むしたお庭も風情があって、全体に清潔感と、守っている方々のセンスの良さ、伝統的な洗練された美意識の高さを感じるお寺。

好きで通っていた、とは言え、何年振りだろう。。。奈良に住んでいる四年の間は結局、行けそうで行けなかったから、かれこれ。。。二十三年振りとか(!)なんと。

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山門から、参道に入り、風情のあるお庭を片手に玉砂利を踏む。

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時間があれば、ゆっくり眺めていたいようなお庭。(私はちょっと急ぎ足)

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こちらの可愛いお堂が本堂。奈良時代から立っているって、法隆寺もそうだけど奈良のお寺ならでは(ダジャレではなく)で、京都は応仁の乱による焼失、再建が多いから、奈良のように古くは無い。やはり独特の古さと、大切に守られてきたオーラを感じる。正確には鎌倉時代に大修理を経ているとのこと。

このあたり、平城宮に近かったエリアなので、当時の皇族がたが発願しているお寺が多い。この秋篠寺も光仁天皇による776年の発願を受けて建立、その子にあたる桓武天皇が平安京に遷都したころに完成しているよう。光仁天皇もなかなか、奥様の井上内親王ともども、悲劇の人でもあり。そんな事を思いながら、参道・入り口を経て、こちらの本堂とその前の玉砂利の広がりに出たら、午前中に春日野で見かけていたエンジェリックな雲から、またすこし様相を変えて、乱舞する羽毛のように。

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何故だかここで、ほろりと・・泣けてしまった。

二十三年振りの伎芸天。それから、当時はあまり意識を向けていなかった御本尊は薬師如来。脇侍に、日光・月光菩薩。「薬師十二神将」が、6人ずつに別れて御本尊の左右に。それから地蔵菩薩と不動明王が対応するように左右に。そして伎芸天、対応して反対の端には同じサイズの(共に造られただろう)帝釈天。さらに、区切られた空間の外側の左には「五大力菩薩」という、とても菩薩には見えない、天部かなという怖い形相、武装しているような五体の躍動感ある像。反対側にはコワモテでどのお寺や博物館で見ても引いてしまう赤い肌をした愛染明王。ここも、左右の両端でとても良い感じのバランスだ。

伎芸天は名前からしても分かる通り天女という事で伝わっている。けれど、体つきからして女性ではないことが分かる。本当は何の像なのだろう?といつも興味深く見つめてしまう。けれどご正体が何であれ、とにかく美しさに魅了される。(とても有名な仏像で、検索するとすぐに出て来るので宜しければ「ぎげいてん」と入れて見て下さい)

そんなに広くはないお堂の、中心部、薬師如来の前に立つと、左右のバランスの良さと全ての仏像が調和してひとつのグループを成しているような一体化した迫力が迫って来る。目を閉じて全霊でそれを浴びる。体の芯まで、浄化されていくよう。

お堂の中の小さなブースに座っているのは普通、御老人の職員さんというイメージがあるけど、お守りを買おうと思ってふと見るととても若い、高校生・・大学生かな?お兄さんが座っていた。こんな素晴らしい場所に静かに座っていられるのだから、徳を持っているのだろうな・・なんてオバさん、思いながらお守りを頂く。

お堂から名残おしい気持ちで外に出ると、再び見上げた羽毛の空に・・もう一度泣けてしまった。春日野で解けたものについて、感じてみる。こういう時、「赦し」のような現象が起きるものだと思っていた。ところが、却って、何だか分からないその「相手」に対しての「許せない」という魂の声は高まっていた。それは意外だった。とても静かだけれど、よくよく声を聞いてみると「許せない」「許してはならない」「許す必要はない」という。

けれど全くそれは「感情」や「想い」ではなく、まして「怒り」でもなく。ただエネルギーを読み取り直観する魂の、ありのままの感覚だった。ジャッジメントではなく、自然界の法則と同じように、ナチュラル、自然そのものだった。

「許せない」===けれど、自分が先方に何かを返す必要はないということを、潜在意識ごと悟った。受け入れた、というか。宇宙が返すのだから、自分がやり返す必要も、心や魂を損なわれる必要も、気に掛ける必要さえない。ただ、宇宙があるがままを返すのだから。と。

何でしょう?前世の記憶なのか、いにしえ人の集合場からの受信なのか・・・この、春日野で起きたエネルギーの解放と、秋篠寺で静かに払拭されたことによる気づきの2ステップで、とにかくこの境内では震えるような涙がお腹の底から湧き上がった。

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何度か、お礼をしながら境内を後にして山門をくぐる。

バスで大和西大寺駅へ戻り、そこからもう一度、今度は平城宮跡に向かうバスに乗る。

既に夕方で、日が沈んでしまいそう。

何とか、間に合いますように。

 

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間に合った!

おまけに夕焼けで、広大な宮殿跡地と復元された建造物、ススキや紅葉が美しい。

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大和盆地の向こう、生駒山系(大阪方面)、そして間近には午前中に出かけていた春日方面の山並みも。秋篠寺から1時間も経っていないのに、エンジェリックな雲たちはどこかへ消えていて、今度は長細く横たわるような優しげな雲。

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ありがとう、奈良。

先刻の用事は不動産の売却が成立したための契約。20歳の私が大好きになってしまい、そこから通い続けた5年間。その後、精神的な低迷とともに旅にも出られなくなって5年が過ぎ、30歳を過ぎてからヒーリングと出会って、癒しの道へ。ヒーラーの仕事が安定し始めて33歳の時に奈良へ。一年後に新築の分譲マンションを買い、家族で桜井へ本格移住。その後、シュタイナー学校進学のために娘と二人で横浜へ。2010年。

残してきた両親が今年の10月に神奈川へ。その準備として私たちは先に中古住宅をリフォームしながら待ち受けていた(詳しくはインスタにあり)。まだまだ先かと思いきや、急に買い手の方が良いご縁で現れて、トントンと。これで本当に「奈良の家」は無くなる。けれどまったく執着もなく、不思議なほど寂しさもない。

春日で三輪を体感した、というのとこれは似ているのかもしれない。もう奈良は・・というか、奈良への自分自身の愛着やノスタルジーは当たり前のように自分の一部になり、奈良というテーマは外にあるのではなく全てが自分の内側にある。いつでも自分の中から感じることが出来る。それを確認するために、これからもまた通うのだろうし、若い頃のような切望はもちろん無い。

ごく当たり前のようにそこに居る。ただそれに感謝する。そういう存在になっている。

他の土地や、他の興味についても同じで・・・ひとえに、私自身の変化によるものと言えるかもしれない。欲する、望む、求める・・ということは無い。ただ内側にある響きを、確認するために、響き合わせるために、どこかから聞こえるサウンドに呼ばれるように足を運んだり、何かや、誰かに、出会ったりするのかもしれない。

写真↑の正面奥に写っているのが「朱雀門」。結局、ここまで歩いて平城宮の反対側へ抜けることにした。朱雀門前のバス停から、バスでホテルに帰る。

(たぶん、「つづく」)

Love and Grace,

Amari

奈良旅 2020年冬 シルフィードと大地の都、エソテリ旅。Vol. 1

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テレビを見ない私でも、さすがにニュースがちらちらと目に入り、世相的には旅をするタイミングではないと感じつつ、冬の奈良へ。どうしても避けられない事務的な要件があり、最初は「代理人では?」とか「オンラインでは?」と尋ねてみたくらいだったけど、そうは行かないということで、ならば一年半振り、ご縁のある場所や以前から思い入れのある場所へ寄って来ようということに。

出発2日前に予約したホテルは平日ということもありガラガラで。去年利用した時とはまったく違う鎮まり感。さすがに観光地・奈良なので人が居ないという訳ではないけれど、いつもの外国人観光客のにぎわいが引いて、25年以上、奈良に通っている私の目には初めてというくらいに人出が無かった。無理もないけれど。私も本当は「自粛派」。

去年はやはり用事もあって二度、奈良に行っていて。確かSNS等では「ブログで旅日記を綴ります」と宣言していたけど、書けず仕舞い。もしかすると今回の記事を書きながら、話がつながって行ったりしたら、自然と去年の旅記録も載せられるかも?・・なんて淡く期待を抱きながら、今回は記憶が新しいうちに、書き始めてみよう。

ただいま、アルガンザでは今年リリースのプログレッシヴ版「エヴォリューション」の(プラクティショナー伝授は1年前に始まっていたものの)ようやく、クライアントの皆様にお届けする「ワークブック」の最初の2冊が配本できる状態になったところ。そこに至るまでの、いつもの高次が用意する試練のような流れを、執筆中の私も、ワークの現場を担っていくプラクティショナーさんたちも共有しながら、各自の修行、そして全体の潮流を体験し、関係する「サンダルフォンニュートリション」や、(来年改訂に着手する)「レムリアンセイクレッドレイキ」なども、同じ世界観の中つながり合うエネルギーゆえに動いていて、

新しい情報も多く集まり、それによって「ワークブック」の内容に手を加え、「天使」の一般概念をアルガンザ流でガラリと書き換えながらの「アルガンザ天使学」の展開(のまずは触りだけ。ライフワークくらいの難題でもあるから。)という動きも起きている。行く先々でエンジェリックな、天使の羽のような雲が、出発前の関東から、移動する先、する先に着いてくるように現れ、しばし感じ入って感謝していると、その地を去る頃には薄まって消えていく、を繰り返して。何かとても、意義深い時間なのだろうなと感じていた。

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奈良に着いてすぐ、定番の奈良公園に。近鉄奈良駅から歩き出すとすぐに見えてくる興福寺で、お決まりの「最初の一枚」。さっそく、雲が凄かった。

先日インスタグラムに書いたようにトーハクの会員優待期限がなんとこの日、最終日。少しでも活用しなくては・・と、同じ国立博物館ならば使えるので、奈良公園内の奈良国立博物館へ。仏像館、ほとんど一人で見て回る(人が少なくて)ような状態で、とても贅沢。やっぱり、飛鳥・白鵬・奈良時代までの仏像が好き。せめて平安かな、けれど鎌倉期の運慶・快慶はやはり凄いと想う。

冷静に見ていると、どんな分野でもそうだけれど、上手い人の技術の高さは卓越して見えるものだ。とはいえ、素朴な市民が彫ったらしいというものでも、良い雰囲気で引き付けられるものもある。だからこそ、博物館で大事にされているのだろう。

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雲が向かっているのか、そこから現れている(ように見える演出?)のか、大事な御蓋山(みかさやま)のフォーカスを予感させる。20歳の新人会社員時代に大和路ひとり旅を初めた時も、幾つかフォーカスしていたテーマのひとつが春日山付近の古代祭祀で、中途半端であまり深く掘り下げないまま年月が・・(27年も!)経っての今だけど、去年の奈良旅では、ここ10年くらい寧ろ避けていた春日について、「和解の旅」とか名付けて、興福寺の薪能と合わせて心をオープンにして臨んだ。ところが、ひとりよがりの「和解」設定はまあ、良かったものの、拮抗するエネルギーの厳しい逆流があり、やはりそう簡単な問題ではないのだなと痛感して帰って来ていた。

あれからそのテーマもすっかり忘れて、今回何も考えずに用事のために出向き、優待券を活用せねばという三次元思考で奈良国立博、に行ってみたらば、特別展示で「春日大社の祭祀」を取り上げていて、呼ばれた感じもし始めた。展示そのものはどう、ということでは無かったものの、「そう言えば主祭神はタケミカズチだなあ」「ヒタチの国から鹿に乗って御蓋山に降り立ったという伝承だったなあ」と考えていると、

昨年こころみた「和解」旅のカラクリ、個人的な魂の影響力などが解けていく予感がした。若い頃に春日山周辺に思い入れていた理由は、巫女らしい女性たちや女神系エネルギーの気配があり、恐らく縄文時代〜ヤマト国により再編成されるまでは、古来の神奈備だったに違いないし、なぜ神様が(栗本慎一郎氏が、縄文以来の本来の日本、ヒノモトの重要地だったと表現している)ヒタチ(茨城県)から、奈良に移動してしまったのだろうかという事を考えると、古代史に詳しい人々ならば言わずもがな、ご存知だろうけど・・藤原氏の台頭の影響によるもの。もっと言えば、藤原氏による、蘇我氏の権力・土地・神話・バックの神様 の乗っ取り・・というと言葉が悪いか・・・「成りすまし」・・もっと悪いか、まあ、そういう事なのです。(笑)

どこの国の歴史でも、いつの時代でもあることで。もちろん色々な考えの人がいるし、私は古代に興味を抱いた20歳ころから色々と読んで来た中で、エナジーワーカーとしての経験、体感や直感などもともに、ここ数年は、栗本氏の著書で展開されるソガ=イズモ(日本海側の広い範囲)、アズマ(東国・東北の広い範囲)の首長的な存在だったという説に、賛同している。もちろんルーツは、古来言われて来たように「渡来人」だとは思うけれど、早い時期にやってきて、ネイティブの縄文の部族社会と仲良くしていたのだろうと。

話が逸れたけど、

何か偶然ではない、博物館での「春日祭祀」に誘導されるように、翌日の午前中は春日大社の奥の方へ、行ってみようとふと思いつく。

そして明くる日。まずは、ホテルからバスで奈良公園エリアへ、「春日大社参道入り口」で降りる。本当はもっと大社に近いところまで、歩かずにバスで入りたいと思っていたところ(午後に大事な用事があったので体力温存のため)・・その路線が本数が少なく、「入り口」バス停を利用することに。けれどお陰で、昔は大好きでよく行っていた「飛火野」エリアを満喫できた。広大な芝、春日原始林から継続的に点在する森の巨木たち、鹿たちもここでは広々と群れで広がっていたり。そして、大事な神奈備も背後に見える。

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2007年、家族がこの近くで大変な事になり、救急車を呼んだ。遡ればもっとずっと前、若い時分の旅でも、何度か「問題」が起きたり、ヒヤっとしたり、という経験が春日の森、春日野ではあり、2007年の一件から、以前の思い入れは引いて「近づきたくない」という気持ちが続いていた。去年の「和解」を経てもまだ、今思えば少しどこか、心を開けない感覚が残っていたのかもしれない。

今回、直前までのスケジュールが過酷だったので、一切計画を立てず。ただ博物館だけは行くというラフな予定から、結果的に誘導されてみると、この日は本当に世界が美しく違う次元に居るようで不思議。空気の粒子が違うというのだろうか。それでもヒーラーとしてこの数年、様々なエネルギーの拮抗を「研究」してきて、そうそう簡単に喜べない、簡単に解決するとは思えない、という構えが出来ていた。だからこそ全く期待をせずにふらりと向かう旅だったのが、良かったのかもしれない。

顕在意識ではよく分からないけど、何か過去生に関する記憶、更にその原型はアルガンザの「ジェネシス」概念で言う、「ジェネシス層」のいろいろに由来・起因している何かが、奥へ、奥へと登っていくにつれて解けていくようだった。春日のいわゆる「大社」は御蓋山の中腹にあたるそうで、今回インスピレーションを得た大社よりも奥のゾーンへ足を進めることにした。

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飛火野で遭遇した、「鹿寄せ」という楽しいイベントは動画をフェイスブックに載せたので、良かったら覗いてください。

 

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大社にももちろんご挨拶に立ち寄る。ちょうど御神事の最中で、琴と横笛、祝詞と巫女さん二人の舞の美しい場面にも遭遇。

御蓋山自体は神が降臨した聖地。ということで「禁足地」とされていて、一般ピープルはここから拝んでいいよ、という「遥拝」の場所が幾つかあり。その他、たくさんの摂社に出会いながら。

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神社として、オヤシロを建てるようになったのは6世紀に朝鮮半島から仏教が伝来して、お寺という立派な建築物に圧倒されたヤマトの人々が、祭祀にも建物が必要だと考えるようになったから、と言われている。それ以前の神祀りは、きっとこんな風↑だったのだろうな、と思う。木々や岩を神なる場所として区切って、祭祀を行う。

これまでは自分の中に色々な区別、識別が起きていたのだろうと思う。今回、この春日の山の中腹や、森の中を歩いていて、「三輪」を感じた。20歳の旅で「ひとめぼれ」して通い続け、10年以上過ぎてからその麓に移住し、四年間住んでいた、三輪。

一方で、何かこう、興味を持って通いつつも、自分との相性の悪さを感じていた春日。けれどその幻想がスルっと外れて、「ああ、同じものだ」と腑に落ちたような瞬間があった。相性が悪かったのは、その地ではなく、歴史の断片、一側面、確かにそこにあったマジカルな力と、それが自分の過去生や、持っているエネルギーと出会すと実際に作用していた拮抗するもの、それが顕現して現象化していたこと。

人の感情にヒーリングが起きるのと同じような体験を、その土地、歴史的なテーマにおいて、体感したようだった。ただ、あるのは祝福と、光、感謝だけ。間に分け入って邪魔をするエネルギーにより、仲違いさせられていたような・・・喩えて言うならば。

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そんな訳で、今回は三輪には行かなかった。その必要が無かった・・・春日で、三輪と会っていたから。

そして!

面白い「落ち」もある。旅から帰って来て一晩過ぎて、翌朝気がついたのは、実は私、自宅のある神奈川県、サガミの国のアースワークのためにあれこれと調べたり、ソフィア他、クリスタルでワークしていた中で、つい最近「これは春日信仰について調べないとな」と思っていたのだった。信じられないことに、旅の道中、まったくその事を忘れていた。けれど春日信仰の中心地、春日大社と春日山には行っていたという。笑

昔から変わらないこの天然振り。ここが高次と仕事をする上ではきっと大事なのよ〜・・ある種の才能なのよ〜・・と、自分に言い聞かせてみたり。

そうそう。もちろん、春日信仰という言葉によって私がイメージしていたのは、縄文の石器時代の人々による太陽崇拝=春分の日、春の太陽(春の日・カスガ)、にまつわる信仰のことで。春日大社がタケミカズチ神を主祭している、というのとは内容が違う。ゆえに春日大社に行きたかった訳ではなくって、春日信仰がおそらく縄文の人々によって行われていた一つの拠点であった春日山、御蓋山に行き、その空気を体感することが、ポイントだったのだろうと後からしみじみと理解する。さらに、その地で「三輪を感じた」ことにも深く納得。三輪山も同じように、縄文の人々による太陽崇拝の拠点であったのだから。

時間がないのと体力的にもかなり問題がある中、ただ導かれるまま駆け抜けたような旅だったけれど、とても重要なエネルギーの動きがあったと感じている。

長くなりそうなので、幾つかに記事を分けることにします。

今日はこのくらいで。〜〜「つづく」〜〜

Love and Grace,

Amari

報われない偉業

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大シフトの8月、も終盤のせいか、糸を手繰っているうちに自分でも深い、大きめのもの(消化・昇華するべきテーマ)が出て来た。

去年から少しずつ、奈良の家からオフィスへと、古い書類群を送っていた段ボール数箱。なかなか本腰を入れて整理できずに月日が過ぎていたところ、今週は助っ人の手もあり、作業を進めることが出来て・・

 アルガンザになる前の「ロザリア」「天と大地」時代のサロンの記録のボリュームと、当時の自分の集中したエネルギーの注ぎ方が書類群から激しく伝わって来て、古代史探求や、20代の仏教信仰、さらには受験勉強なども同じくだったが、いつも必ずタイムマシーンを開ける作業(記録の整理)は、決まって物悲しくなってしまう。
 
もう定番だったので、そういうものだと思って気にして来なかった・・・が、今回スタッフさんが手伝いに入っていたことで、客観的な視点が自分の中にも生まれて、「この悲しい感じ、変ではないか?」と、自覚するに至った。実際には過去の努力・奮闘は報われなかった訳ではなく、必ず良い結果を連れて来てくれた。パーソナリティの中心はその部分をちゃんと分かっていて、信念のようなポジティビティもある。けれど、そこから分離している「何か」が、悲哀に変換してしまうのだ。
 
冷静に堀り下げてみようと決意した瞬間に、整理している書類の中から、2007〜8年ころ、当時メル友のような関係だった東北に住む女性 --- 同じ歳、同じ本名の、タロットや占星術やチャネリングアートをしていた女性が見てくれた、星読み&サイキックリーディングの鑑定結果の書類が、出て来た。
 
「秘教の研究においてトラウマがある」と書いてあった。当時は「秘教の研究」と言われても読み流していたようで印象に残っていない。けれど今ならば、「秘教徒を前世でもしていて、続きをしに来ている」と数年前から生徒さんたちにも話していたからよく分かる。加えて、何らかの研究者としての「トラウマ」については、ちょうど考えていた所でもあった。
 
石巫女クラスで取り上げたウェーゲナーの「大陸と海洋の起源」を、最近持ち歩いて電車で読んでいたりもしていた。私はこういう、「先駆的な研究を堂々とやってのけたけど、悲壮感の中で死んでいった」とか、「まだ時代に受け入れられず当人は絶望の中で早逝した」とか・・「研究者の悲哀」に妙に敏感なのだ。そしてこれは、最後に残った「理由のない感情パターン」でもある。
 
ヒーリングと出会ったころ、今世では身に覚えが無いにも拘らず自分の中に深く入っていて、ネガティブな感情反応を生み出しているパターンを多く抱えていた。私の場合、ネガティブの中身はほとんど「悲しみ」や「虚しさ」「恐怖」などだった。父権制への恐怖、十字架、ギロチン、高所恐怖症、閉所恐怖症、伴侶である男性の死と犠牲、そこへの罪の意識(「ハピの巫女姫」のリーヴ、「ガイアナ神謡集」のレオダイなどに反映)、などなど。それらが一つ一つ、セルフワークやセッションを通じて癒されていった。
 
自分になぜか入っている多くの原型的エネルギーからの感情パターンがクリアリングされると、本当に嘘のように「反応」も消えていき、そのような感情に理由もなく落ちるようなことは、無くなるもの。これは或る意味とても「科学的」だと言える。感情や思考が情報の注入、セッティングであり、的確な手順でそれを外したり中和できれば、翻弄される自分のメカニズムそのものが、無くなっていく。
 
この数年どうも、悲しい末路のエピソードがあったり、偉業の割にはパっとしない人生、みたいな先人たち(研究者・執筆家)にシンパシーを感じていた。かつて若いころは上記のほかに、「狂ってしまった人」や「自殺する芸術家」に同情するクセがあったが、これらもまた、過去生を癒すことであっさりと消えていた。この二つは、実際にそのような過去生が、比較的新しい時代にあった為に、影響が強く出ていたパターンだった。
 
「秘教研究や執筆の、(前世の)続きを、今世でやっている」と自覚している今、その仕事に直結する、打破しなくてはいけないトラウマがあるのだと、漸く気付く。これを綺麗にしなかったら、この先には進めないというくらいに自分の今世の「本題」であるがゆえに、むしろ子供の頃や若い頃は息を潜めていて、ここ数年で浮上して来ていたのだろうという事にも、やっと気付く。
 
過去の自分の「反応」パターンを振り返り、その本質を理解するのに時間は必要なかった。。過去生では、自分の弟子、または共同研究者のような立場の人々に裏切られてしまったのだろうと納得する。そして過去生のさらに深層にある原型パターンを既に「ジェネシス」で紐解いて、体験もしているから、断定しやすかった。
 
アトランティス文明期、叡智のマトリックス「ソフィア」から、情報だけ取り出してソフィアとその守り手のエルフ界を破壊した「革命派」の人々。数年前、このジェネシス情報が開示された時、私はソフィアの意識になって、ウオンウオンと大泣きしていた(笑)。
 
先にそれを体験していた(鋳型を癒していた)から、もっとも近い過去生だったゆえに生々しくお腹の中に沈んでいたとは言え、意識を向けただけでスルスルと解け始めた。過去に大きなテーマと向き合うには、かなり大掛かりな体勢が必要だったり、長期的に少しずつ分かっていったりしたものだけれど。鋳型に先に触れていたから残照のようなものだけが残っていたか、またはこれからの仕事に直接関わるからこそ今、ソウルのデーターバンクから改めて降りてきて、お腹に入ったとも言えるかもしれない。
 
悪気のないちょっとした不注意(利己の波動)、人がついついやってしまうというレベルの利己による他者の侵害に、過度に悲しくなる性癖も、ここに起因していそうだ。人魚姫に助けられた王子がそれに気づかず魔女が化けた女性が命の恩人だと勘違いするシーンに、子供のころに号泣した理由も(笑)
 
ウェーゲナーの大陸移動説は、すぐには理解・評価・賛同を得ることは難しかったけれど、当人の死後、価値に気づいて取り上げる学者が出て来て、評価されるに至る。さらに技術革新からデータによって彼の気づき、研究、主張が正しいと認定される時代が到来した。こういったタイムラグが生まれるのは、「天才と凡人が居るから」で片付けられる問題ではない。自身に感情的な違和感があったとしても、それは自分の中に在るものが反応しているのではないか?という謙虚さとともに、「普通ではない」ことを言い出す人々の声と真摯な態度に、ハートを開く感性が、人々にあれば解決すること。
 
ある程度のワンネス的叡智の周波数の共有は、やはりこれからは必要だと思う。そうでないと、自由になった人類は各自の利己で暴走する。地球は持続可能ではなくなる。
 
・・と、話が逸れたけど。私個人の記憶だけではなく、
アトランティスにおいて、自我の目覚めを体験しつつある人類の中から、神なる世界に手厚く保護され、闇に染まる、利己で暴走する、という状態にさえ未だなりようが無い仕組みの中に居たところから、「俺たちは結構賢いから、何でも自分たちでやってみようゼ」という「革命」が起こった時、彼らは宇宙的叡智のマトリックス「ソフィア」を電磁的に攻撃して破壊し、かつ、ソフィアに蓄えられていた情報だけは自分たちが活用するために吸い取った(アルガンザ「ジェネシス」でのストーリー)。・・ここで、ソフィア側だったソウルは人類の(愛を注いでいた存在たちの)仕打ちを深い傷として刻んでいる。
 
「愛しんでいたものたちに、情報だけ持っていかれ、自分は滅ぼされる」
 
このパターンを持っている人々は、少なからず居るはず。ソフィアを守っていた存在たち、その世界、人間界に居てソフィア側だった魂も多く居たのだから。・・そういえば日本人は「判官贔屓」で、民族のDNAとしてはやはり、自然界系、レムリア系、ソフィアの守り手たち・・の流れを濃く継いでいるのかもしれない。そのために「大人になれない(進化に乗れない)」人々が多いのだろうか?
 
タイムカプセル、自分の過去の「頑張った記録」を見るにつけ、悲壮感に包み込まれていたことも、過去に多くの「反応パターン」が嘘のように消えた、思い出せないくらいに関係なくなった事例と同じように・・過ぎ去っていくものなのだなあ。。。と、意外な、不意にやって来た新しい秋の風の到来を予感している。
 
ちなみに上記の、占星術とタロットで鑑定してくれた女性は、私がまだ奈良に居たころに急な発病を経てあっという間に天に還られた。亡くなる直前、彼女が好きだった「マグダレーナ」という洗礼名で洗礼を受けてクリスチャンになっていたということを思い出して、これは偶然ではなく、彼女のスピリットがくれたメッセージだったのでは?と思った。というのも、ちょうど執筆物のための文献として、マグダラ関連の本を4冊並べて、読んでいた最近だったから。
 
太古フェミニズムが、縁を繋いでくれたのだった。女性性や女神のテーマは、自分がずっと前に昇華したために、最近はほとんど頭を過ぎることもなく。『聖娼』のキーワードで私を検索で見つけたと言っていたっけ。。もう15、6年も前のこと。マグダラの読書をしていても、申し訳ないことに彼女を思い出さなかった。けれど、私は当時何を読んでどんなふうに感動し、母系社会や聖娼制度の国を舞台にした「ハピ」や「ガイアナ」を書いたのだっけ・・・と記憶を辿ってはいた。なぜか抜け落ちていたけど、書き上げたばかりの「ハピ」をメルマガで購読してくれ、まだ高揚感でワクワクしているような当時の私の世界観を、ひととき一緒に、喜びとともに感じてくれていた一人だったのだ。
 
「過去の努力を振り返ると押し寄せる悲壮感」のパターンは過去生ゆえだと気付いたことで、過去も現在も未来も、創造の1本の流れにあるという、何か、「魂の生み出す力」のようなものが戻って来た。
 
そう言えば、世界史の中でもっとも「報われない偉業」と呼ぶべきは、近年までのマグダラのマリアの立場、だったかもしれない。ここ30年くらいで、報われつつある。2000年越しの誤解と偏見を超えて。本来、イエスと対等に扱われるべき人物なのではないか・・とさえ、思っている(ジョン&ヨーコのように)。世が世なら。つまりちょうどあの頃に盛っていった父権制・男社会へのシフトの波の中で、情報を改竄されることが起きていなかったならば。
 
いろいろと話が枝葉を広げつつも。
 
まさしく、変容の夏。
 
読んでくれたみなさまにも、華麗なる変容を!
 
Love and Grace,
Amari

New エソテリ、或いはメタスピ。

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こちらのブログは「スピリチュアル」が好きではない、どこか怪しいと思っている(笑)人々にも読んで欲しい、そしてその「すぴ」の括りの先入観を外して、メタフィジカルな探求者の中には、宇宙文明とか惑星の進化とか言いながらもそれを歴史として取り扱い、真剣に人類の過去と未来、そして現在を研究し模索する中に身をおいて、何とかプロ(専業)として目に見えないエネルギー、魂というものをケアし導くという仕事をしようとしている者たちが居るということを伝えたいと、スタートして2年半が過ぎた。

同時に、そのような在り方をする新しい時代の「すぴ」を超えた、バランスのとれたエナジーワーカーたちが次世代、次々世代に生まれて欲しい、という両方向からの目的で、以前の「いかにもエナジーヒーラー」のブログ群を閉じて、リニューアルするべく開設したもの。

今書いた「目的」はこのブログに限ったことではなく、数年前からの、そして今後の私の活動指針でもある。2016年で一般クライアントの受付を終了し、2017年にはスクールの縮小、小数精鋭を育てていくマスタークラス、伝授、勉強会に的を絞って来た。来年春にそれらも終えることになっていて、一部の例外的活動(既にアルガンザワークのプラクティショナーである人々だけを対象にする伝授が幾つか来年まで続く)を除き、「エナジーヒーラー」としての仕事を「引退」する。

現場に立つ専業者は、一つ一つの事例に集中し、クライアントのニーズを満たすことで、サービス業としてお客様に報いる必要がある。それと、研究や新たな道を切り拓くための模索、広角で広い視野を持ち、未来に焦点を当ててその分野ごと「進化させていく」ためのチャレンジを、同時に行うことは出来ないからだ。

上記の、「真剣に人類の過去と未来、そして現在を研究し模索する中に身をおいて、何とかプロ(専業)として目に見えないエネルギー、魂というものをケアし導くという仕事をしようとしている者たち」は、もちろん昔からずっと居た。それは「秘教」とか「オカルト」とか呼ばれて綿々と一部の知識人たちに受け継がれ、時にアブナイ集団や思想を生んだ事もあるだろうし、最近ならば140年前のブラヴァツキーを初代とし、シュタイナー、アリス・ベイリー、そしてクリシュナムルティを輩出した『神智学教会』が知られている。

現在、ニューエイジと呼ばれている(日本ではいわゆる「スピリチュアル」)ジャンルは、ここから派生している。多くのチャネリング情報、ヒーリング体系、出版、スクールがどんどん生まれ、特に日本では「江原さん効果」でスピに参入した人々も加わって、質や方向性が錯綜し、今はかなり混乱している。

メタフィジカルな分野は、神智学、があれば十分だと実は思っている。そもそもブラヴァツキー夫人、2代目のアニー・ベサントの試みは、古今東西の秘教的叡智からエッセンスを追いつつ、直観や東洋の聖人の教えも取り入れ、、リードビーターやアリス・ベイリーは更にインドのヨーガ思想や哲学、チャクラやオーラの概念、ソウルシステムまでを現在の表現でわかりやすく説明した。思想の違いで離脱したシュタイナーは、単に思想や癒しだけでなく医学・建築・農業・教育・美術などあらゆる分野に神智学と直観的世界を活用しメソッド化するという「人智学」を打ち立てた。

そして、神智学教会の幾らか犠牲のような側面もあったクリシュナムルティは、人生の後半、そんな彼だからこそ説得力のあった独特の思想哲学を、ボームなど科学者とコラボしながら紹介し続けた。これだけ、天才たちが集まり、完璧な役割分担を演じたのだから、もうこれ以上、何も必要ないというくらいに、「すべて」が詰まっている。私はそう感じている。

けれど・・・アリス・ベイリー著書の中で、情報源であるチベット僧のジュワルカルは言っている。時代に応じて、探求者たちは変化(進化)していく。地球の表面世界に届く高次元世界からの光線、意識やチャクラに刺激を与えるウェーブも、変わっていく。その時代時代に生きる人々や状況に合わせて、伝えるための表現も、変化していく必要がある。

今は過渡期だと信じたい・・情報だけではなく、メタフィジカルなエネルギーも錯綜し、混乱している。向かう方向、引っ張っていこうとするベクトルがバラバラで、このジャンル自体が、以前のような心地よさや輝きを感じさせない。

深淵な神智学の語りに触れ、または効果のあるヒーリングと出会い、歩み始めた人々がそんな混乱の中で道に迷い、中にはガッカリしてしまうケースも多々あるだろう。

2002年、このジャンル(ニューエイジ、癒し)に本腰を入れて付き合うことになった私のキッカケは1本のフラワーエッセンス(花のエネルギーを転写した波動水)。なぜか最初から体感もあり、起きるものごととエネルギーの仕組みもすんなりと、理解できるという今思えば不思議な「初心者」だった。エッセンスを一回飲んだだけで起こる自分と周囲と体の変化や浄化の強さに驚いて、2本目を試すと、エッセンスの中に入っている植物の意識のようなものをヴィジョンで見るという体験をした。

20代の10年間、仏教徒として真冬の水行や、白装束での未明の登山などの修行をしていたという下地?があったからかもしれない・・過去生でも繰り返し「秘教」に触れていたからかもしれない・・・ともあれ、あっという間に強い信念を気づけば抱くようにになり、半年後にはヒーリング雑貨や石を扱うウェブショップをオープンした。計画したわけではなく、娘を保育園に入れるために「仕事を作らねば」という状況にお尻を叩かれた故だったが(幼稚園ママは自分には無理だと悟っていたので・・)。

当時のスピの主流である、女性的なハートの勢いで、エナジーヒーラーとして一気に駆け抜けた。来年春、15周年での引退となるが・・実際には、密度としては、それ以上だったと思う。これもまた計画していたわけではなく、シングルマザーゆえに娘を育てるという大業を前に、休む間もなく構えているところへ、うちのサロンの見えないマネージャーたちは次々と仕事を運んで来た。ヒーリングをする立場でも、そのエネルギーに常に自分が癒され、いつでも元気、やる気満々で駆け抜けていた。最初の・・前半の8年くらいは。

9年目に入った頃、あるキッカケから「パチン」とエネルギーの膜が弾けて、「スピ」というグラマー的集合エネルギーから、数秒間の時空変動のような体感とともに、醒めてしまった。ヒーリングスクールである「カレッジ」3期の真ん中、中級と上級の間の夏休み、8月のことだった。

カレッジ3期は、急に起こった自分自身の変化を反映させた章がテキストに幾つか追加され、また、1期を行いながら構築していったフルで1時間の「虹と大地の瞑想」を、知人の作曲家に頼んでオリジナルで音源化し、CDの形で仕上げた。つまりカレッジとしてはここで完成を見ていた。今振り返ると、カレッジだけではなく「新たに作る」「広げる」というエネルギーはその夏までの、前半の8年に凝縮されていたのだと思う。今整理してリニューアルしているオリジナルワークも、その頃までに原型が出来ていたり、情報を既に受け取り終えていたものばかり。その後のマスタークラス、ジェネシス、プラクティショナー育成も然り。

山のピークを登り切り、ゆっくりと降りながらその山を去るために整理をしている。2015年の夏からはそんな歩みの中にあった(当時は自覚なく、自分もやや混乱していた)。このブログを作った頃は、最初に記事に書いたようにまだ名前もなく、この先の表現活動を何と呼ぶべきか分からなかった。が、最近ふと「メタスピ」(「スピリチュアル」を超えたもの)で良いんではないかと思いつく。

そして昨夜、自宅でのこと。

デスク脇の小さなアンティーク風の棚の石は、手にとるというよりは置いてあるだけで高周波を発する「装置」のような位置づけが多い。シュンガイトやヌーマイト、メテオライト、サルファーなど。そのコーナーから珍しくグリーンアパタイトに引きつけられ、何となく手にして階下での夕食に向かった。部屋に戻り、元の位置に戻した時に側にあるシチリア島のサルファーを落としてしまった。が、何とも思わずそのまま明かりをつけずに、薄暗い部屋で瞑想し、就寝。

今朝起きて、朝日を浴びているデスク上に、レモンイエローのキラキラしたものが散らばっているのに気づいて、状況を察した。そうだった、サルファーは脆い。忘れた訳ではないけれど、近距離でちょっとした高低差だったのに・・あたりどころが悪かったか。同時に悟ったのは、昨夜はアポフィライトに呼ばれていた訳ではなく、それを戻す時にサルファーを落として欠けさせるというセレモニーが、必要だったのである。昨日、一昨日と、シチリア島サルファーが2014〜15年に関わって起きた「ジェネシス世界観」にまつわる一部の情報について、プラクティショナーさんへのメールで触れていたところだった。

その関連は、こちらよりも右脳的なブログ「アルガンザ・アップデート」で後日、記事にしようかと思う。それは秘教的・神秘的な水面下の流れであるとして。以前同じサルファーが粉々になったという記事を書いたっけ、と自分の古い記事アーカイブ「パサージュ」を覗いた。こちらの記事:

これを読んで当時と今を同時に比べた時に、上に書いたように2015年8月に起こったキッカケから、既に山の頂上を去る歩みが始まっていたことに気づく。この記事は同年9月13日に書いたもの。丸々一つ、約3センチ四方のサルファーが割れてしまっていた。

今までも、ただならぬ変化は2017年から、も少し視点を変えると2016年から・・と書いて来たけど、確かにグラマーが醒めるという経験をしていたのが2015年8月であり、カレッジ体系の完成も同じくその頃だった。この、興味ない人々にはどうでも良さそうな話---私の仕事の背後にあった設計図が(笑)、私自身に思い出させられたことによって・・実はこちらのブログにとっても、小さからぬテーマであった「今後の新たな表現方法を何と呼んでいくべきか」の答えを見つけることに繋がった。

古い記事の粉々のサルファーの画像を眺めていたら、「新しいエソテリシズム(神智学)」=「水瓶座時代の New エソテリ」と、頭の中で響いた。「エソテリ」と外来語を途中で止めるといういい加減さ、ユルさが、新しい日本語っぽくて良いではないか?

皆で流行らせましょう。。。笑

天才たちが集った100年前のムーブメント「神智学」が、現代と調和しながら、「秘教」ではなく「常識」になっていく日を夢見て。それは世界平和、地球環境、人類の進化、全てにとって持続可能な流れに乗せていくための「必然」のように私には思われる。いやいや地球など、人類など壊して終わらせたいのだよ・・という意見の持ち主以外の、すべての人々にそれが伝わるように。怪しいものではない、秘められたものでもない、日本的に混乱した「すぴ」でもなく、怖いものでもない・・・ヒトという形をとって、魂がこの地上で生きていくための常識的な知恵であり、全ての人が健康と幸福のためにそれを知るべきであるし、その時代が来ているという事が、伝わるように。

「新エソテリ」「メタスピ」、どちらも使って行こうかな。

まずは、このブログのカテゴリーとして作ってみた今日。その記念を刻むべく記事を書いてみました。

Love and Grace,  Amari

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「好き」「嫌い」と魂の道

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いつもより早起き出来たので目が合った石たちとゆっくりワーク。珍しくマスタークリスタルでもトパーズでもなく、小さめの結晶たち。フェナカイト、スキャポライト、タンザナイトに、パープルサファイア。それにしても、昔から人に私のイメージ、と言われることも多いけれど、青紫、タンザナイトの色はほんとに落ち着く。セントジャーメイン、インディゴチルドレン、と言ったところか。

さて、皆さんは食べ物の好き嫌いはどれくらい、あるでしょう 

ヒーラーとして、人間としての経験上、やはり食べ物の好き嫌いが多い人は、チャクラのバランスが悪いと考えるに至っている。アレルギーや、体質的に受付ない・・という事は除外しての話で。大概は、子供の頃に苦手だった食べ物(野菜、薬味、香りや味の強いもの、食感が独特のもの、強めの調味料など)を、そのまま食わず嫌いしているケースが殆どと思う。

子供はまだ、味覚の器官、味蕾が完成していないので、苦味・辛みなど味の強いものは食べられない。ここで、親が成長に応じて、チャレンジさせて「あ、美味しい!」と知る機会を作らないと、ずっと嫌いなまま大人になってしまう。

うちは若大将にもたびたび、昔の思い出として言われる独自の教育(=「ママ部」とあだ名されていた・笑)の中で、小学六年生くらいから、「好き嫌いは克服せよ」と言って、幼い頃から「嫌い」と言っていたものを食べるように促したり、例えば、なぜ、寿司にはワサビが必要か、昔の人がなぜこの組み合わせを考えたかについての講釈をたれ「寿司にはワサビが必要なのである」と理解させ「文化として慣らす」など、試みたものだ(笑)。結果、娘は小さい頃は食べれなかったものの多くを、食べれる大人になった(&ママのお陰、と感謝もされている)。

私の母は厳しくない母だったけれど(-- 私も親として厳しいという訳ではない-- )、私はなぜか成長段階で自分自身でこれをやっていて、体が受け付ない青魚や生臭いお肉系以外は、何でも大丈夫という大人に気づいたらなっていた。。故に、娘にもその手法を受け継いだというわけ・・ 幼少期から無意識に「修行好き」だったよう。自分が変化していくこと、苦手を克服していく事に、喜びを感じたのだろうと自己分析。

食事に行くと、嫌いなものを避けるのが大変、という人も割と居るものだけど、そういう人は人間、他者についても苦手が多くて、結果、人付き合いがストレスになっていたりもする。

メタフィジカルが目指すところは「バランス」であり、あらゆる囚われから自分を解放していくこと。嫌いなものを避けて心地よいほうへ向かうのではなく、外側の変化で自分を満たすのではなく、自分自身の心の力で常に、幸福を生み出せるように変化していくことが問われる。

ライトボディの作りとして、内側(ひいては肉体)がエネルギーで満たされないと外のオーラの活性が始まらないという仕組みがある。それゆえに、体、食べ物や行動から始まって、感情、意志・・と、順番にコツコツと自分と付き合いながら、「良いものを入れて」「良からぬものを排出する、以後は取らないようにする」という道を、歩き続けるものなのだ。何のために・・って、「幸せ」のために。見せかけや、一時的な幸せではなく、本当の幸せのために。

肉体で感じた幸福感(食べ物などもココ)は、外側のオーラにも少しの影響は与える。同じように、感情体・メンタル体で感じた感情や思考レベルの情報もまた、魂の領域である外側のライトボディにも響いていく。けれど一時的なもので、それら下位のサトルボディ(オーラ)での働きは常に、反作用の可能性を宿している。「好き」があれば「嫌い」があり、「満足」があればまた「不満」がやってくる、という具合に。

内側の体を安定させ、(感情や食べ物ばかりでなく)エネルギーで満たしながらも、扱うテーマ、意識を向ける焦点を徐々に外側のライトボディ、魂領域、精妙な宇宙領域へと向けていくように移行していくのが本当の幸せを目指す本物のメタフィジカル(スピリチュアル)である。徐々にブッディ、アートマ、そしてモナド体へとフォースがまわっていくようになると、そこにはもう「好き」「嫌い」の感覚も消えていき、自分個人の執着よりも、世界全体の秩序、宇宙や自然界の法則の中に生きるということに意識が向くようになる。=これが宇宙に言う「愛」である。宇宙という秩序の中に融けることを「知っている」状態。

ライトボディはどの層も綺麗に光を湛え、影や隙間や偏りや滞り、エネルギーの流れを悪くするものがない状態を目指していく。ここでようやく、魂は「幸福感」で完全に満たされる。肉体からモナドまで。フィジカル体から、七つ目のモナド体まで。 関係ないようでいて、関係があるのが肉体レベルや感情・思考レベルの「好き」「嫌い」。この偏りがあるうちは外側のライトボディへの活性に進めず、真の幸福にはメカニズム的に至れない。

けれど個々によって性質・体質は違い、自分なりの「バランス」を掴んでいくことが重要。その「自分なり」を知り発見するにあたって、欲望や感情などのエゴを入れないことも不可欠であり、そうなると、常に浄化と純化を続けるのがメタフィジカルだと気づく。そのための手法を、自ら持っていなくてはいけない。レイキやヨーガや瞑想、危険ではない、他者に利用されない何らかの信念、知識、魂まで扱える、かつ現実・肉体を疎かにしないヒーリングメソッド。

好き嫌い、食わず嫌い がたくさんあるという人は、まずはそこを見つめてみよう。変化・成長・進化できない理由がそこに隠されているかもしれない。

Love and Grace,

Amari