Energy and Crystals

鉱石とエナジーワークと神智学と、生きること。

不可視の相互作用とヒトをめぐる外部の力

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ウリエルとピュアレイのブレスたち。以前 ショップの Instagram に載せた画像ですが、なぜかウリエルの気分だったので、再び。

Face Book 7/27 に書いた文章、あまりに長いのでこちらの記事にすることにしました。前回と同じくですね(笑)、そのため文体がFaceBook仕様で「ですます」調に。場所が広くなると気持ちが大きくなって、編集・追記により文章さらに大分長くなっています。Face Bookで一読いただいた方も、ぜひお読み下さい。

・・・・・・

(Face Book に書いた「とある珍しい光景」に遭遇した後の、続きをこちらに書きます)

帰路の途中から、左半身の気配がおかしくて、帰路のなか色々ワークしましたが外れないうちに帰宅。何となく切り替えて過ごして普通に就寝したら、夜にうなされてしまいました。カルナのシンボルや、魔除けの究呪を唱えているうちにうつらうつら。すると、透明で黄色がかった人型のエーテルのようなものが、左側から私の体に入って来ようとするのを感じて、瞬間でセイキムのマントラを唱えると同時に、意識でそれを吹っ飛ばした・・

こういう体験、全く無い訳ではなかったのですが久しぶりだったので焦りました。少し違うけれど似た様な事は、まだヒーリング初心者だった頃にオーラソーマのボトルを初めて「体に塗って」みた夜、ゼリー様の弾力のあるエネルギーが入って来ようとするのを感じて(大天使ボトルだったのですが)怖くなり、それ以後、ボトルは観賞するのみで、体に塗らなくなりました。また、10年くらい前にモルダバイトの原石を2つ手にしたまま寝てみたら、同じような体感があって、やはり「怖い」と感じてしまった。

けれど、いずれもエネルギーの響きのようなものがオーラ層に作用して、さらに肉体に最も近いエーテル体に降りて来た時、人より少し敏感な私はそれを感知して飛び起きてしまったのだろうと、解釈しています。入って来ようとしたのはバイブレーション、振動のようなものだったので、今思えば。けれど今回のようなケースは、明らかにヒトの形をしていて、仰天しました。故に、ヒト、(のエネルギー)だったのだろうと思います。

アストラル体のフォースが強い人は、感情を強く出力した時に、敏感な相手だとズシっとその粒子の到来を感じ取りますし、感情エネルギーは肉体で影響される事が多い。重さを感じる、体調を崩す(来ている感情に攻撃性がある場合)、という形で。チャクラの体の裏側の力(回転)が弱いと人の感情を自分に入れてしまって、自分の感情と錯覚してしまったり。

この、アストラルにパワーが強めに入っている人は、本人が深く眠っている時にアストラル体が旅に出てしまい、執着している相手や、強い感情を持っていたり気にかかったりしている相手のところへ行ってしまう。そう、源氏の六条御息所です。私のような仕事人だと、相手の響きも感じるので包み込まれて不快さで目を覚ますと、「自分がまるごと相手の姿になっていた(起きた瞬間そのように見えた)」(!)という事もありました。恐る恐る、翌日ご本人にその時間帯に何してたかと聞いたところ、「気を失ったように寝ていた」という返事。やはり六条御息所です。

本当に旅をしてしまう人って居て、おそらく自分でも異変に気付いたりもすることと思います。人を念で動かしてしまう、というタイプの人は要注意。どうしたらいいのでしょう?赤い力が強い、という表現をアルガンザではします。青い力で中和、鎮める、メンタル体にエネルギーが移行していくように、瞑想などすると良いと思うのですが、こういうタイプの方々は瞑想が苦手で、波動が高まるとすぐに寝てしまうという特徴も共通してあります。この体質を努力して変えていった方が良いでしょう。アストラルがお散歩する可能性が高い体質です。

逆に、青い力、システム上方のパワーが強い人だと上のチャクラ、サードアイから思考波のようなものが相手のフィールドに電波的に性能良く飛んで行くので、相手が無意識に受信して人それぞれで何らかの反応をする(相手の体質、状態、組み合わせによって起きることは変わる)。浄化のされ具合と言ったらいいか、人間同士のアストラル(動物的)やメンタル(電気・電波的)物質のやりとりというのは、どれだけアストラル体やメンタル体(もちろんそれよりも下位にある肉体、エーテル体含めて)が浄化され、軽やかになっているかどうかで、起きることは変わってくる。

ただ、いずれにせよ、言葉や対面では現れないエネルギーとしての「やりとり」は常に、繰り広げられている訳なのです。

こういう仕事(エナジーワーカー)をしてくると、その時々で何が起きているかを分析しつつ直観しますが、間違いがあってはいけないので、最初は控えめに取り扱い、繰り返し、繰り返し、似たような事が起きると、腰を据えて分析して何らかの結論を出さなくては、という段階にギアチェンジします。

今回のことも、相当な複数回の体験を繰り返して来た後の、今の見解なのです・・・(と、何となく前置き、説明を加えた上で、当日の話に戻ります)

コレクションの中でも大きめのトパーズと一緒に寝ていたのも、良かったようです。侵入は防げたものの、翌日は終日、左半身の異変がつづき、また思考パターンのようなものが明らかにおかしい。これまでの経験で色々とわかっているので、エナジーワークで対処して1日で影響は外れましたが・・このように、エネルギーの不穏な事象が起きると、必ず、思考をハッキングされるような自覚がいつもあります。こういったこと、気付かずに影響されている人々が、きっと多いのではないかとも、思っています。

実際に起きたこととの関連性はわかりませんが、何かある時というのは、同時多発でネットワークを通じて、同じような響きを持つ人や事象を動かして来たりもします。全く自覚のない普通の人が、そのネットワークの一端になることもあります。

以前、電車で隣に来た人を「なんかイヤだな」と思ったら、その人が遠慮する様子もなく激しい咳を怪しい程していて、滅多に風邪など引かない私がひどい風邪をひいたことがありました。その頃サロンで起きていた事や不穏な事象が、呼吸器系に故障を起こす傾向のあるエネルギーであることが、今では分かる。例えばそんな具合に。

ネガティビティの系統はいくつかあり、日によって、同じ系統のものばかり見かけたり出くわしたり感じたりもします。

今回の、「人型をした透明な黄色いエネルギー体」は等身大のサイズだったので、アルガンザでいう「黄色系の宇宙エネルギー」の、大きなものと繋がって動かされてしまっているヒト・・の、アストラル体がやって来た、という解釈をしました。「大きなもの」とは、去年ようやく明確に知ったもので、本当にビルごと包まれるくらいに感じられる巨大なエネルギーです。ジェネシスヒーリングの概念に導入していますが、今は割愛します。。上記の人型エーテルが来るよりも少し前、その巨大なエネルギーも、やや久しぶりに降りて来た日がありました。明らかに違うものであることはもう既に、繰り返しの体験から分かっています。

稀ですが、神社に行くとその大きいエネルギーが祀られていることもあり、日本は縁が強いよう。ある意味で「愛」のように感じるのですが、(言いなりにならず)先方の目的から外れると、一転してネガティビティに変わる(ダークな力になる)ので、やはり繋がってしまっては、危険だなと思います。同じところをずっと、のどかに回っているようなあり方をしている間は、その力は母のように包み込んで、色々よくしてくれるのです。ただ本当に、ずっと同じところを回ります・・・サロンをやりながら見て来た多くの事例から、時間をかけて知った事でした。

「母」のフトコロで成長せずに「子供」のままで目覚めずに居ることを望む原型エネルギーで、人類の中にもそれは遺伝子として既に入っていて、人によって濃淡があり、濃い目の人はチャネルになってしまう傾向もある。包まれたままヒーリングその他の仕事をしている人々もいることでしょう。そこでは、「成長せずにグルグル回る」状況が続きます。

やはり「降臨」した後は、思考やエネルギーがおかしくなります。起きていることに気付いてエナジーワークで対処しようとしても、影響が完全に抜けるまで数日かかったりしますので、一般の人々が体調を崩したり、人間関係がこじれたり、わけもなくUpdownしたり、思考が自分らしく無い時期があったり、の背景には、様々なネガティブな力が働いている可能性があります。

また別の種類の、情報操作、思考操作を起こして人と人を争わせる系統もあります。驚いてしまいますが、瞑想でのヴィジョンや体感、インスピレーション、などの中にもその操作が入り込んで来て、情報、感情、思考を書き換えてしまうようです。それはかなり高度な場合ですし、私が関わって来たジャンルでは起こりやすい特殊な例と言えますが(集まっている人々がもともと直感的、ヴィジョンをよく見る、メッセージを受け取る、などの能力が拓けているから)。・・けれどやはり一般レベルで、大なり小なり、影響を受けていると思われます。

 

人間は、電波のようなものを常に持っていて、無意識に発していて、別次元の存在から見ると周波数の高低や種類などが、魂レベルでも人間レベルでも、その時だけの機嫌の良し悪しも含めて一目瞭然なのですよね。ゆえに、その時に「使えるものを使う」

逆に言えば、自分が良からぬ力に使われないためにも、常に良い響きを発していれば、ネガティブなチャネルにされることはない。悪意のない「ごく普通の喜怒哀楽」のつもりでも、怒りや妬みや執着などがよぎっていく時、貴方はネガティブな力のネットワークの一員になってしまうかもしれない。

サロンを長年やってくると、様々なエネルギーの動きを事象の中から感じ取ります。見えない次元が介在して、そういう事をぐるぐると繰り広げているのが、人が生きる世界。人間の遺伝子の中にもネガな周波数と響きあうタネが、誰にでも入っているので、それを浄化していくことなしには、世界は変わらないのです。

「人間らしくて良い」??

ネガティブな感情、思考、怠惰。 それは実は、人間自身のものではないものも、大いに混じっているかもしれない。

 「今日だけは許して」「たまには良いじゃない」??

耳元で囁いたり、エーテル体やチャクラに侵入したり、ハッキングしてきた電波によって、他者を傷つけたり、人の何かを損なうことことの一端になっていたとしたら?

それでも、カルマとしてデータが残り、それを償却しなくてはいけないというマイナスの課題が自分に増えてしまうのです。

自由意志、自由だ、というつもりでも、実はそうではない。ただネガな見えない力、ネットワークに動かされているだけかもしれない。・・・という部分に、もっと人間社会が敏感になる時代が来ると良いなと思っています。そうしないと、利己的な社会で人間同士が幸せの邪魔をし合う連鎖が終わらない。

 

ある哲学者が言っていました。人間は生まれながらに自由である、と。それを意図的に(アメリカ的な)自由を行使してきた結果が、今の物質主義の極みであると。多分、ヒトは、自由すぎてはいけないのです。

道徳や善意の重要性を最近の世界をリードする思想家や歴史家・哲学者などが強調しているのは、とても重要なこと。見えないエネルギー次元にも大きく関わってくるから。

心が自由でありすぎると、そんなつもりなくてもエネルギー次元で人を攻撃していたり、人をコントロールしたり、人の足を引っ張ったりしているものなので。・・・・・自分を高めて涅槃に入っているような人の「心の自由」はまた別の話ですよ(笑)

それと、現実問題として自分を縛り付ける親や社会、というテーマがまだ自分の中に残っている人、インナーチャイルドがある人は、この「自由」という言葉には過剰の反応をします。自分を抑圧するネガティブな力と、重ねてしまうので、話が交わることがありません。「〜でなくては」「〜することも必要」などの大人としての話を全て、強要されるように感じて反発してしまうものですが、それでは上に書いたような話は耳に入らず、平行線となります。

自分が自分を運営しているという「大人」たちの、次のテーマ、「人間社会や世界をよくして未来を維持していくには?」という次元の話をしている、という大前提を、最後に付記しておきます。エナジーヒーラーとして来春で15年。人と魂と感情とエネルギーと、背後にある高次元と、横から入り込む別次元。その難しさを見せられた年月でしたが、

クリシュナムルティの言うように、全ては自分の内側にしか存在しない。それも事実ですし、マルクス・ガブリエルの「世界は存在しない」もまた、真実であるように思います。ただ他者がいなければ経験することが出来ないので、他者という自分の断片をちりばめている。自作自演のような、魂の体験フィールド。その中で、全ての魂が目指していくものは一つに、決められていると思います。色々あって良い、という事ではないのだ、と。

その、ひとつの潮流、向かう先、流れの方向の話をしていて、ただそこに向かいましょうと言ったとしても、それぞれが立っている場所からは、色々な方向に道があるように見えてしまう。そのように人間を複雑にしているのは、辿ってきた歴史の中に理由がある。ちりばめたものを回収して、四方八方に見えている道がひとつひとつ、消えていった時に、ただひとつの潮の流れというものが、ようやく見えてくる。

そのためにヒトの魂は、どれくらい生まれ変わるのでしょう? 何百? 何千回・・かもしれない。

Love and Grace,

Amari

アルガンザ:http://www.arganza.jp

「持たざる者たち」のララバイ

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おはようございます。霧雨が新緑を潤す、静かな朝。2月に引っ越した家は「昭和レトロ」なのですが、私の部屋は「大正モダン」?です。サロンのお下がりのアンティーク家具たちゆえに。障子を少しだけ開いて仕事をしていますが、木々の緑が迫って来て、それだけでもハートが癒される感じがします。あえて緑を見ていただくために影になるよう撮ってみました。
 
最近思ったことの徒然メモとしてフェイスブックに書いていたのですが、余りに長くなってしまったので、こちらに載せることにします。その為、いつものこちらのブログの口調と違って「ですます」調ですが、直すのも何なのでそのままに。笑
 
批判目的ではないので、ジャンルは明かさずにおきますが、10年以上前に好きで買い物をしていたショップがありました。そのお店をキッカケにその道に目覚めた、という感じで。オーナーさんはメディアの取材も受けていたり、メルマガなどを綴っていたりして、買い物する立場としては何となくごく自然に、お名前やお顔も印象に入ってくるという感じ。
 
優しさや真面目な職人気質が伝わってくる、お人柄が見えてくるサイトやラインナップや文章、そして商品に、その世界全体に素直に引き寄せられていくような気持ちでした。・・が、1〜2年くらい経つと、似たようなお仕事を、さらに勢いをもって展開する同業のショップが私の目についてしまい、
 
一見すると華やかで、ヴァリエーションの広がりに魅了されるように、今度はそちらのお店を利用するようになっていました。それから数年が経ち、先にあげたお店を探したところ、活動をすべてクローズしていて・・勝手な、本当に勝手な推測なのですが、業界の中で成功された後の、裏の反面を体験されて、真面目で優しい気質の方の心が折れてしまった?体調を崩してしまった?のではと、頭をよぎった私でした。
 
あまりにも思い切った、幾つかの実店舗やウェブすべてのクローズ、だったので、ヒーラー思考でついついそんな風に考え、他の店に気を移した自分のようなファンも、多くいたのかもしれない・・ことに、胸を痛めました。
 
おそらく先駆者としてのその方の背中を見て、取れるところを取りつつも、その方の生真面目さ、人の良さから展開している丁寧な活動の中には広がりにくいような部分で消費者のニーズを捉え、そこを満たして、バババっと勢いよく事業展開した二つめのお店。気づけばメディアにもそちらのお店のほうが取り上げられるように、確かに途中からなっていたよう。
 
様々な個性が存在する中で、(私含め)消費者はそのように反応するので致し方ないこと・・・とは思っていましたが、気を移したほうのお店で買い物を数年してくる中で、「あれ?」と想うことがあり、それでも「まあいいか」と、利用を続けていました。それが、今年の4月にちょっとした体験をしたのです。
 
すべてをクローズしたお店のオーナーさんが、形を変えてご自身の活動を再開されていたことに偶然気づいたのは去年。まったくの直感で、気づけばかつてのお店の名前を検索してみたその日。数年の間に同じようにしてみても「閉店しました」という画面が出るだけだったのが、新たな情報発信のページが表示されて、本当に嬉しく思いました。
 
去年のその再開から、何度かお買い物させていただいて。うちの娘でも、「商品から伝わってくるまごころみたいなエネルギーが全然他とは違う」と言うくらいの、良いお仕事を相変わらず、なさっています。
 
一方で、数年間、そのジャンルはそこでしか買わないというくらいに利用していたもう一方のショップさんを4月に利用した際に、手違いがあり、顧客としては1万円弱損をしてしまう状況だったので、問合せをしました。何度か・・けれど、お返事が無かった。この時にふと、霧が醒めるような体験をしました。グラマーが晴れるというか。
 
確かに、同じような職人仕事をアピールしている。お持ちのバックの力をうまく活用し、スピーディに魅力的なものを生み出している。から、消費者の目には華やかに映る。けれど、そう言えば、「顔が見える」わけではなかった。ブログやメルマガはすべて、どなたが書いているかわからないし、10年くらい買い物をしているのにオーナーさんの名前が表に出ることもなく、ましてお人柄などは全くわからず。
 
ただ、メーカーとしてのこだわりや取り組みについてはかなり力を入れて発信されていた。ようやく気づいたのですが、ほとんどをネットで買い物をしてきた私が個人的に気に入るお店や会社では、家具屋さんでも、雑貨屋さんでも、洋服屋さんでも、ワイン屋さんでも・・代表の方が表に出て、商品に込めている思いを伝えている。いわゆる「顔が見える」ところばかりでした。
 
すでに大きく、組織化しているというだけなのかもしれないけれど、同じジャンルで、同じようなものを販売されていても、見えてくるのが「組織」「技術」しかなかった。その時、4月に買い物をしたアイテムも気には入っていましたが、試しに、前者のお店を覗いてみると、同じような素材・色のアイテムが出ていたので、儀式的な意味で、そちらも買うことにしました。
 
私はよくそういう「儀式」をするのです・・今書いてきたことが、まったくの勘違いで、前者のショップの閉店の理由も状況も違っていて、後者のお店がブラックかもしれない?!という疑惑(笑)が何かの行き違いだったかもしれないとしても、深いところでコンセプトなどに共鳴し応援していた顧客だったのが、見た目の華やかさ(仕事はしっかりしていた)で他に気移りしていたことは確か。それが消費者としては普通のことであったとしても、結果としてまっとうに自分の道を正しく行っていた人を追い落とすような流れに自分も加担していたかもしれない?という可能性に、お詫びも込めて。
 
損をしそうな件はもう諦めて、代わりに後者のお店とは、サヨナラすることに決めて。気づけば、もう十分足りているではないか・・ついなんと無く、その華やかな発信力に、コレクター気質の私は随分とコレクションしてしまったのだ、もう、終わりでいいということだ、とも。
 
そしてこんな個人的な現実体験を、ここで語るつもりは無かったのだけど、ずっと前に見ていた「チャングムの誓い」の中の一場面がどうしても、この一件について考えていると頭にちらつく最近なので、同じくショップオーナーとしての自分への教訓としても、ここに刻んでおこうと思いました。「チャングム」の一場面とともに・笑。
 
宮廷で王の食事をつくる料理担当女官になるべく、修行中のチャングムに、師匠の貧民出身の上級女官である「ハン尚宮(さんぐん)」様は、山に行って数種類の湧水をとって味を覚えろとか、100種類の薬草をとって来て研究しなさい、などの体を使った学びをさせて、素直に励むチャングムは味を体感しイマジンできる料理人として、才能を発揮していきます。
 
そのライバルの「クミョン」は、それに気づいていて、自分もそのようにして学びたいという気持ちを抱いていると、叔母である(一族代々、最高尚宮を務めてその座を狙っている)チェ尚宮により、諭される。「あんな修行をするのは、『持たざるもの』たちだからだ。我らには代々に伝わる知恵がある」と、数代にわたって料理女官のトップを務めてきた一族秘伝の書物に、頼ろうとします。
 
ドラマとしては政治的にはチェ一族が暗躍して一時的に勝ってしまうのですが(最後には滅びます)、職人としては無論、チャングムが・・というか師匠であったハン尚宮様の教えが勝利するわけです。色々な神話や物語でもすべてそうですが、所有しているものの上にあぐらをかいて、そのテクノロジー的な勝利でしか物事を見れなくなっていたら、その時点で真実の世界ではすでに負けてしまうということ。
 
様々な物語の主人公たちが、最初は「持たざるもの」であり、這い上がるように体験するトライ&エラーの中で培った実力こそが、本物であり、紛れもない愛を宿した何かがその仕事や人生に実るのだということ。
 
チャングムを見た時からこのチェ尚宮の「あんな修行をするのは、『持たざるもの』たちだからだ。」のセリフにはとても反応していました。ハン尚宮様のほっそりとした優し気なたたずまいと貧しかった料理上手な少女がそこまで登りつめた、けれどいつまでも、悲しいくらいに優しすぎる姿に共感していた一人として。放送時はチャングム人気とともに、ハン尚宮ママニームのファンクラブも出来るほどだったそうです。
 
話が逸れましたが・・同時にこれは人類全体の行く末にも関わるテーマだ、と。歴史学では、物質的に豊かで戦争がない平和な時代がつづくと、人間は精神の上で腐敗していき、その文明は滅びると言われている。
 
個人の人生においても、同じことです。むしろいつでも自分自身を「持たざるもの」と心得ておくのがよろし、と想う私です。
 
Love and Grace,
Amari
 

 

壁に書かれた祈り「それでも」

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pyrite heart


人々は、理性を失い、非論理的で自己中心的です。

それでも彼らを愛しなさい。

もし、いいことをすれば、人々は自分勝手だとか、何か隠された動機があるはずだ、と非難します。それでもいい行いをしなさい。

もしあなたが成功すれば、不実な友と、ほんとうの敵を得てしまうことでしょう。

それでも成功しなさい。

あなたがしたいい行いは、明日には忘れられます。

それでもいい行いをしなさい。

誠実さと親しみやすさはあなたを容易に傷つけます。

それでも、誠実で親しみやすくありなさい。

あなたが歳月を費やした建物が、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。

それでも建てなさい。

ほんとうに助けが必要な人々ですが、彼らを助けたら彼らに襲われてしまうかもしれません。それでも彼らを助けなさい。

持っている一番いいものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。

それでも、一番いいものを分け与えなさい。

出典:カルカッタ「孤児の家」の壁に書かれた言葉『マザーテレサ A simple path』(早川書房 ルシンダ・ヴァーディ編 猪熊弘子訳)

 

太陽とサクヤヒメ

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Introduction

二十歳のころ、ふらりと行った奈良旅で、三輪山と「再会」し、スイッチが入った日本古代史、日本神話、民俗学への探究。1993年のことなので、当時は今のようにスピ系の女性たちが神社や神話に興味を持っているような状況もなく、友人たちにも余り理解されず、現地では「なぜここなの?」「もっと行くところあるでしょう、若いんだから」と現地人の方々に言われる始末。

歴史好きは子供の頃から、だったと思うけど、自分自身もそれまでは世界史にしか興味がなく、高校時代はシルクロードやモンゴル、チベットなどの東アジア史や、古代ギリシャメソポタミアに興味を高めていたっけ。私は本当に水瓶座というか、第一光線というか、人からの影響では心も行動も動かされることなく、自らが体験したことしか、自分を変えたり進ませたりするキッカケにならないタイプ。

高校2年の修学旅行で何となく京都には無い気配、自分との相性を奈良に感じて、「大人になったら(?)ゆっくり奈良に来よう」と思っていた。短大時代は相変わらず興味は世界に向いていて、卒業後にようやく、会社員となって最初の休暇で奈良に出向いたのだった。その時、さっそく神秘的な体験も幾つかあって、「自分の体験でしか動かされない」私が、自分でも驚くまさかの「日本」探求者となった。その時、二十歳。

間は省略・・時流れて、三十三歳。エナジーヒーリングと、ヒーリンググッズショップを生業とするシングルマザーになっていた私は、娘、両親とともに奈良の三輪山の麓へ移住。

三輪の麓が散歩道となり、大神神社で御神水をいただくことも日常になっている中で、その森で、水辺で、サスラ姫、サクヤ姫、セオリツ姫と感じるエネルギーを体験する。それらは同根で、ヴァリエーションの違いであると悟ると同時に、奈良に移住するころに夢で見たり、レコンセクレーションTM(アルガンザのオリジナルワーク)を受け取ったプロセスでは、菊理姫と呼ばれる女神意識、エネルギーが関係していた。

同時に、地球のロゴスと言われるサナトクマラのシャクティ(女性性の側面)としての「白山姫」を体感するに至る。それらが整理されていくにはある程度時間が必要だったけれど、2008〜9年頃には、地球ロゴスのシャクティとしての白山姫、それが地上に近い形で降りて来たのが菊理姫、そして菊理姫から別れた形で火、水、風、を体現するのが、サクヤヒメ、セオリツヒメ、サスラヒメであると位置付けて、その概念は幾つかのワークにも反映されていた。

それからまた、長い、10年という月日が流れて、依然として同じエナジーヒーラーという仕事を続けている私が、今年向き合ったガイアワークの中で、この四相一体の女神と、そのオーヴァーソウルである白山姫(ロゴス)について、分かった事の一部を、とても重要と感じるので、刻んでおきたいと思う。

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神智学文献では、エレメンタルつまり四元素を神秘家が取り扱うのは危険で、お勧めできない、という記述もある。私たちのエネルギーシステムにおけるチャクラは、ルート、セイクラル、ソーラープレクサスの1〜3の低位チャクラが土、水、火の元素の世界と通じていて、ハートチャクラが空気・風。それらの元素の力を取り込むことで、栄養になる、という。アルガンザのカレッジでもそれを取り入れた四元素のワークを導入している。アーユルヴェーダも人間の肉体や外界(季節や時間)、臓器やその働きすべてを四元素をベースにした「ヴァータ・ピッタ・カパ」という力学に当てはめて、足りない元素を補い、強すぎる元素を抑える、という法則からの処方箋が体系化されている。

恐らく、一般的な、物質界レベルでの話ならばこれでいいのだろうと思うけれど、秘教を学ぶ者としては何か引っかかる感じがずっとあって・・上記の、四相一体の女神のコンセプトとエネルギーをワーク化した「四女神の柱をオーラに立てる」メソッドを、レコンセクレーションの伝授に導入していても、いまいちの感じがずっとあり、また、秘教的な学びの中でも「四元素は封印である」「呪縛である」というフレーズにも出会い、長いこと気に掛かっていた。

2011年頃だったか、それまで数年に渡り直輸入していた、アメリカのワーカーさんからの「四元素ドラゴンストーン」を、アルガンザの周波数の遷移の動きの中で、ちょうど先方も石の仕事を辞めるというタイミングだったので、取り扱いを終えるに至っていた。けれどその後、カレッジで紹介すると生徒さんたちの関心は高く、また、女性たち、それも巫女的・神秘家的な女性たちは四元素が妙に好きなのだ・・・けれど、本格的に「見えない世界」を命がけで探求している神智学では、「危険だからエレメンツとのワークは勧めない」という。

(もちろんアーユルや、チャクラに元素・・という自分の健康に扱うのは、全く問題ないし、むしろ人間の本質・真実なので有効な知恵である)

そのようなモヤモヤが数年越しでずっとあったところ、今年、2019年は「火」のエレメンツを中心にして、体験から、分かったこと、見えてきたことが多くあった。

縄文期の日本人の一部になったと考えられる南方からの流れを持つ人々は、インドのドラヴィダ人由来という説がある。その言語で「神聖なもの」を表す「フィー」が、日本に来て「日」「火」になったという説を、カレッジのテキストでも紹介して来た。韓国語でも「火」は「ファ」で、恐らく同じルーツだろう。日本は「ひのもと」という元来の国名が、漢字が入って来てから「日本(にほん)」となったらしく、縄文からの流れを受けたこの列島の本来の名称は「ひのもと」であったと個人的には信じている。

その「ヒのもと」の「ヒ」とは何であるか・・が、重要なキーだとずっと思って来た。

「霊」と書いて「ヒ」と読ませ、神にまつわる言葉を構成している日本語がある。ヒモロギ(神が宿る場所)、ヒルメ(神の巫女)、ヒルコ(神の子)など。以前から旧ブログにも書いて来たが、鹿島・香取の両神宮のある茨城県常陸(ひたち)なども、恐らく「霊」=「ヒ」=「神なるもの」と関係していると考えている。

では、日本の歴史の根幹となる「ヒ」とは、何なのか。今、私たちが知っている「火」と「日(陽)」とは、ひとつに括れるものなのか・・そのテーマを長いこと、それこそ奈良に通い始めた20歳の頃から、25年以上何となく考え続けて来た。

今、アルガンザの新しいワーク体系として「プログレッシヴワーク」というスタイルに改変するため、旧来のワークの幾つかを再編成しているところで、そのうちのひとつ、サスラ、サクヤ、セオリツ、キクリの四相一体の女神による禊(浄化)のワークである「さくらしおん・四女神の変容プログラム」を、新ヴァージョンでモニタリングしながら、スクール卒業生の方々に受けて頂いている。その中で、画期的な進展があり、長年の「ヒ」(火・日・フィー・霊)についての考察が深まり、突破口が開けた。

さくらしおんの今回の改変では、長年のモヤモヤを解決し、物質界の呪縛であるという四元素を超えて、すべてを第五元素、さらにより高い層へ統合し、ソウルシステムを拡大し強化するような宇宙的なワークにしたいと意図していた。故に、最初につながるのはシリウスで、そこから、シャンバラにあるシリウスの恒星のミニチュアに降りて来て、その、地球の中心とも言える白い太陽とともにワークをする、という試みで進めている。

4段階のワークのうち、2段回目にあたる「サクヤヒメ」の時。段取り通りにシリウスから地球の太陽、白山姫、と降ろして来て、サクヤ姫のエネルギーにチューニングする。白山姫の桜色と、シャンバラの白の2色はベーストーンとしてあり、そこにサスラなら紺色、セオリツは水色、サクヤは黄緑色が加わる。一段階目のサスラの濃紺色の意味は既に分かっていて、それは人間の中心軸のスシュムナーに関係している。サクヤの黄緑は何だろう・・と、先日、セッション前日に考えていた。

すると、自宅の窓から見える森の緑、自宅の室内の植物たちが陽を受けて輝く黄緑が目を惹きつけた。彼らは光合成で成長する。葉緑素が太陽光で育ち、緑色を呈する。でもなぜ緑色なのか・・・・・

そう考えてみた時、「太陽のエナジーが緑色だからだろう」と、当然のように自分の中から答えが返って来た。そういえば、カメラで撮る時に映る太陽光のプリズムも、明るい黄緑色。自称・太陽人とか長年言っている私・・でもそこは余り考えた事がなかった。コノハナサクヤ姫は、木の花、つまり桜の女神であるから「植物神である」ということと、富士山に祀られる浅間神社も含めて「火の女神」としても伝わっていて、神話では表向き、山の神であるオオヤマツミを父とするけれど、火の神である愛宕(あたご)神が、同神であるという。そして姉の磐長姫のエピソードも気になるところだった。

が、太陽のエナジーが黄緑色であり、それが地球の植物たちを緑色にしているならば、サクヤヒメが、白山姫のベーストーンに加えて、植物神という様相を担当して黄緑色のイメージで見えている訳が、良く分かった。つまり、サクヤヒメの「ヒ」とは、「火」ではなく「日(陽)」=太陽なのだ。

先日、フェイスブックに書いたこと。古代朝鮮の神話について調べていて、導かれた韓国時代ドラマのファンタジー太王四神記」(ヨン様こと、ペ・ヨンジュンさん主演)を見ていて更にヒントが来た。同ドラマは「四神」つまり朱雀・白虎・玄武・青龍の四元素の守神たちと、古代朝鮮の神がかった王権のカルマ、光と影の物語。その中で、朱雀は火の力であるが、その力を見つけた守護部族は、「地中から火を見つけた」とのこと。朱雀の主であるその部族の「火の巫女」は「大地の母」と呼ばれている。

火は、日が地上に降りてきた表現なのだろうと長年、思って来た。けれど、そうではないと感じ始め、ワーク改定での上記の気づきがあった所に、このドラマの世界観は大いに示唆を与えてくれる刺激となった。「日」は、地球のロゴスの上の階層、太陽ロゴスのエネルギーである。地球の魂である私たちにとって、「神」とは太陽ロゴスであるという表現も、神智学で目にしたことがあるが、まさに縄文やケルト、世界中の新石器時代人が、ストーンサークルなどを建てて、崇拝していた神としての太陽なのだ。

一方で、火は、一部の人間が地球の地下世界で発見した「力」だという。もっと遡れば、アトランティスに起因するだろう、地球内部の力学を地上に引き出してきたもの。地球、ガイアの中でも肉体である大地、地下のマグマの世界に属するものなのだ。古代世界において、火を神聖なものとする宗教が複数、生まれた。私の印象では、それらは生贄や、構造的な文明の構築、つまり都市や軍隊の編成などに向かっていく古代世界を襲った新たな潮流・・そして歴史を塗り替えて、各国、各地で太陽崇拝の部族社会を駆逐し、征服していった潮流に通じている。

「ヒ(フィー)」を神なるものとして、ひとつで考えていると、答えは出なかった。本来はまったく別のものを、低次元に引き下げながら、置き換えていった。「日の巫女(ヒミコ)」「ヒツギノミコ(日本の皇太子)」などの元になった「ヒ」」を、どう捉えるかによって、古代日本における、古代世界における宗教のあり方が全く違って見えてくる。この「引き下げ」からの分離を表しているのが、日本神話におけるサクヤヒメとイワナガヒメの物語であると、気づいた。

姉である磐長姫は、日本神話では「器量がわるい」と言って、嫁に出した天孫から親元に返された。上記の韓国時代ドラマでは、神代に天から降った神の息子の愛を得た「妹」に対して、「姉」である「火の巫女(大地の母)」が嫉妬し、「リリス化」してしまう。その因縁が持ち越され、2000年後に転生する主人公たち。同じく姉は愛を得られない悲壮からリリス化したところ、彼女の持っている火の力を破壊力として使おうとしているネガティブな宗教結社によって、操られるままダークサイドに堕ちていく。(ドラマの冒頭にある神代の二人の女性は姉妹ではないが、2千年後の転生で姉妹として生まれている)

このドラマがベースとしている朝鮮神話、檀君神話の中に、ドラマのような二人の火の巫女姉妹の話が実在しているのかどうか、調べてはいないのだけど(檀君神話には虎と熊が出て来て、熊が王のお嫁さんになるという話は出てくるが)、日本には在る。まさに「サクヤヒメ・イワナガヒメ」であり、弥生人の渡来が日本建国を開いたと思えば、同じ原型的な神話が日本に伝わった可能性も十分考えられる。

更には、より秘教・神智学・ジェネシス概念の中で考えて行くと、かつて「ヒ」という神なる力は太陽そのものであったが、人類が物質界に染まって利己に落ちていくプロセスの中で、地下世界から取り出した物質的な火に習合され、やがて火そのものを崇拝することで、アトランティスに起因する火の破壊力を活用した原型エネルギー、集合場と繋がっていき、人類はさらに戦闘的になっていった。牧歌的な石器時代の人々の思考体系とは、明らかに変わっている。世界中で同じように、戦闘的で残酷な神を崇拝する文明に塗り替えられていく古代の動きを、ずっと不思議に思っていた。

本来は同一であったものから、二極化が起きる。堕ちたサイドは原型的な闇の力の一員となり、破壊力を発揮する側になっていく。イワナガヒメを、大地の女神としてワークに加えようか?リュミエールのブレスレットにしてみようか?と着想してみたことがかつてあったけれど、いずれの場合も「何か違う」と流していた。最近は、このエネルギーをリリスの一種として体感、体験することが続き、ライトワーカーたちを阻む力として動いていると、仲間内でも話している。

ちなみに「イワナガ姫」の「ナガ」は日本語の中にも広く浸透している「蛇」としての「ナガ」の音を彷彿とさせるけれど、蛇の姿で見えるという話も出ている。蛇や龍が好きなスピ女子たちも多く、神社巡りをするうちに知らずに繋がってしまっている人々も居るし、セッション等でその種のものが出て来て伝えても、当人が愛着を持っていて、切り離せないこともある。神社の場所は元々、古い元素霊が封じられた場所に建っていることも多い。自分の周波数が高くないと、またシンパシーを潜在的にでも持っていたり、攻撃や破壊・虚栄心などネガティブなエネルギーが人間性の中に有ると、繋がってしまうこともあるだろう。

神社巡り、土地巡りが好きな女性たちの中には、エレメンタル、つまり自然界に封じられている元素霊たち(「龍神」など)を「解放」している人々の話も聞く。以前からそれを危惧していたけれど、意味があって封じられているものまで、次々と解放されているようで、危険な破壊力をもったスピリットが放たれることで、スピリチュアルなアンテナを伸ばした人々が更にそれをチャネリングとして受け止め、逆側のメッセージを発したり、攻撃的なエナジーをヒーリングとして流したりしている。

神智学の先人が、「エレメンタル(元素)とワークするのは危険。お勧めできない。」と言っている理由、今ではよく分かる。「堕ちたもの」「封じられたもの」にシンパシーを感じている人も多いが、それがもっとも危険な入り口である。古代の人々も馬鹿ではない。今の私たちよりも霊的なアンテナは鋭く、天と通じる人々も多かった。理由があって封じた、荒々しい破壊的な元素霊たちを、よく深く考えることもなく解放している人々はまた、人間の進化を阻む力の方に、動かされていることに気づいていない。

今年は火の破壊力が大いに動いていた。上記のようなワーカーたちにより解放されたものたちなのか、時代の変わり目ゆえの、歴史の層から自然と炙り出されたものたちなのか。それを水によって鎮めなくてはならない状況になっていたようで、台風19号はそれゆえに、猛威を奮ったのだろう。各人の中でも、「火の破壊力」にまつわるカルマが動いていただろうと思う。

これらの気づきから、ちょうど改定していた「さくらしおん四女神の変容プログラム」の第二段階「サクヤヒメ」では、太陽ロゴスの黄緑色のエナジーを、太陽神経叢とハートに注ぐという内容にした。思えば528ヘルツはハートチャクラの周波数、そして太陽の周波数とも言われ、それは明るい緑色だと知られている。サクヤヒメの「フィー」とは太陽の力であり、ゆえに桜の花の女神と伝わるサクヤヒメは、植物界をグリーンに育む植物神なのだ。

サスラ姫の第一段階は、中心軸の奥にある空の領域に向かってスシュムナーを洗浄する。サクヤで第3チャクラとソウルセンターを太陽の力で洗浄する。そしてセオリツの宇宙の水の力でアストラル体を洗浄し、最後にキクリ姫でくくり、第五元素から宇宙の源のゴールドへ、統合する。お陰様で、神智学ベース、ソウルシステム的なワークへとリニューアルすることが出来て、10年越しのモヤモヤが払拭され、安心したところ。

人間は物質界の存在だけれど、物質界のしがらみ、呪縛を「超えていく」ために存在していると考える。ゆえに「四元素は封印」であり「呪縛」なのだ。私たち人間を、物質界に封じているものが四元素であり、物質体としては食事やチャクラの栄養として親しみつつ、やがてはそれを超えていくものだという認識が、少なくともメタフィジカルを学ぶ人々には必要だと考える。浄化が進んでいき、アンタカラナが自然と開発されていけば、チャクラのひとつひとつも分離なく、すべてが白い光へと統合されるという。

四元素という縛りを超えていく。第五元素、さらにその先へ。

Love and Grace,

Amari

ほんもの思考・ほんもの志向

8月16日 インスタ記事より
 
1週間前ほど前、新しい何かが始まって、結果として辿りついた情報はとても嬉しいものだった。
 
2010年、当時奈良に住んでいた私が急に横浜で出張ワークショップをすることになり、それは言葉以上に大きい土台からの変化だったようで、その頃から、着るもの・持つものなどの主に外側で身につけるものを総入れ替え。今に続く自分のスタンダード、自分が求めるクオリティが確定するという、一見「横浜でレムリア瞑想会」とは全く関係のない変化を生み出した。
 
日本が世界に誇れる唯一のものは、「現場で良い仕事をする職人・技術者」ではないかと思う。あらゆる意味での「現場」で。その頃見つけて、暫く「ひとつ覚え」のようにリピートしていた職人的なお店があり、まったくジャンルは違えども、仕事へのクオリティにこだわる姿にレスペクトを抱いていた。違いがわかる人々、特に業界の人に非常に評価されていたのではないかと思う・・雑誌にも多く載り、地方都市から都内にも進出し華々しく。けれど、数年を経てはたと「閉店します」と。ザンネンに思っていた。
 
あれから4〜5年経つだろうか、少し形を変えて、同じオーナーさんが再出発をされていることをその朝、偶然知った。直感的ネットサーフィンの結果だった。それが私には非常に象徴的な、一つのサインに感じられた。きっと人よりは、あまり常識や固定観念に囚われないほうだと思うけれど、それでも、自分の思考で固まってしまった現実の中を人は生きる。その外側が、見えにくくなりがち。
 
まったく勝手な推測で外れているかもしれないけど、本来、職人的な「素材を見る目」、実際の仕事のクオリティ、素材と出会って作品作りが始まる・・などの意識の高いものづくりをされている方が、「売れすぎてしまって」、多忙さや、周囲から求められる勢いにペースを乱されたりと、追い詰められてしまったのかな?と、実店舗やオンライン含めすべてを閉じられた時、勝手ながらに思っていた。
 
それから数年。再び自分の大切なものを再構築し、もう一度、同じフィールドに戻ってこられるという姿に、凛とした生き様を感じて・・改めて、その方のものづくりのファンになった。
 
それがどんなジャンルであれ、精神性・生き様は、その人が生み出す空間や仕事すべてに現れる。見ている側も、その人の何に惹かれているのか・・が、変化が起きた時に問われるものである。華々しくヒットされている時に見ていた多くの人々のうち、もう、違うところを向いていて戻って来ない人たちも居るだろう。
 
けれど今回の自分のように、何かがキッカケでふと、再会できることもある。そこに起きていた変化と、自分に起きていた変化がフィットすれば、再び結びつくのだということを感じた。最初に惹かれていた理由と、今でもレスペクトを抱く理由は変わらず。その方の精神性が現れた仕事振り。つまり結局は、その方の生き様であり、精神が、自分の中にあるものと響くからだ。
 
時代の変わり目にあり、「ほんもの」で仕事をしている人々が苦境を味わっている時期だと感じてブログにも書いていたけど、そこに変化が起きつつあると言っていたのは今年の初めから春ころ。様々なジャンルで、同じことが起きていた事が、周囲から入ってくる話からしても、実感としても、よく分かる。私も先日ある方に、「人生で初めてスランプというものを体験しました」と話していたところ。
 
鬱になった時代は過去にあったけど、それとは別に・・仕事をする自分の創造性が何かうまく噛み合わないという体験を、一昨年〜去年、思えば初めて味わった。だからこそ、今見えている世界があり、勝手ながら、別ジャンルで同じように体験し、静かに、自分らしく、再スタートを切っている方々の姿は、何より力を頂ける。嬉しくて、それを記念して、久しぶりにそのショップでお買い物をした。
 
時代は少しずつ、動いている。
 
中途半端ではなく、本質を見て感じて、「それっぽい事をする」のではなく、自分から湧き出すもので仕事をしている「現場」の人々は、なんのジャンルであれ、堂々としていけばいい。売れるもの、うけるもの、など気にしなくていい。そもそもそれと、「本質からの仕事」は、噛み合うものではない。ただ、創造の仕組みからして、ほんものの仕事をしていれば、自分はそれで生きていけるものだ。
 
ちなみに英語で「本物志向」は authenticity oriented
authenticity:本格的なもの oriented: 志向
 
Love and Grace,
Amari
 
Instagram(office arganza アカウント)2019年8月16日投稿を削除のため文章をこちらに保存。

自然派ワインに寄せて・地球の中の「わたし」という意識

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趣味はなに?と訊かれたら「ワイン」それも「オーガニックで無添加のワインのみ」と答える私。石や神秘や歴史の探求などはすでに仕事の一部となり(まことにありがたいこと・・)純粋にシュミと言ったら、日々のささやかな喜びの一場面といったら、やはりワインであらうな。

とはいえ、ヒーリングを学び流れに乗って来たころ(神智学的にいえば熱誠時代)は、若いころ好きだったワインも、ビールふくめアルコール飲料は飲めなくなっていた。お肉もダメ、乳製品もイヤ、というビーガン状態で5年くらい、生きていただろうか。あの頃同居していた母の作った食事を頂いていたわけだけど、私のビーガンゆえに母はずいぶん苦労したようだ。
 
2009年にあった大規模な変化から(ソウルシステムに関わる)人間性を取り戻すという流れがきたという話は、たびたび色んなところで書いたり話したりして来たけれど・・その頃、ワインも復活。そして2013年だったか、仲間と旅に出かける前に何でも食べられるよう二ヶ月かけて「訓練」し、普通の食事ができる人間に戻った。それでもヒーラー、エナジーワーカーをしていられる新しいシステムもその後、定着し、今も発展中。
 
ただ、どうしても受け入れがたいのが、添加物の入った工業的な食品。ワインも同じく。復活してしばらく、スーパーでも買える「オーガニックワイン」を飲んで満足していたけれど、波動の低さは気になる。食品をほぼオーガニックにする流れの中で、ワインについても学ぶこととなった。結果、一般には知らされていない事実が、やはりたくさんあると知った。ここ五年ほどは、写真の本の著者・田村氏の経営するMaviにお世話になっている。maviとはフランス後で「我が人生」とのこと。ワイン好きにとって、ワインはまさに「我が人生」。そこが、単なる「アルコール飲料」ではないのだ。
 
ちなみに私は日本酒や他のお酒はまったく飲まない。ビールはベルギーの修道院ビールなどはエネルギー的にも質としても、まあ飲めるという感じ。なので「お酒は飲んでいるの?」と訊かれると「お酒」は飲んでいない、ワインは飲むけれど、と答える(笑)。本物のワインは、中に詰まっているエナジーやその世界観からしても、特別なのだ。「お酒好き」でワインも飲む人と、「ワインが趣味」は、まったく違う。(単に言い訳のように聞こえるかもだけど、まあ仕方ない。笑)
 
日本酒にも、奥深い文化としての存在感があり、職人技の世界なのだろうけれど、私は新潟出身ながら、むしろ日本酒は苦手で。神社のお神酒で口にするくらい(笑)。ビールや他のアルコールも含め、原料が穀物だと、やはり重たく感じる。ワインは葡萄である点が、ポイントなのだろう(体に合うというか)。ただ、新潟人はDNA的に酒に強いと言われているそうで、そこはお陰様かも。
 
アルコールが苦手な体質、いわゆる「げこ」は、モンゴロイドにしか遺伝子が無いらしい。ヨーロッパではお昼休みにアルコールを飲んで午後にまた仕事に戻るし、アルコール分解の能力が全く違うのだろう。けれど、日本の中でも新潟人がお酒に強いとすると、習慣から遺伝子の変化が起きているということだ。そのうちグローバル化によって、いつかアジアにも「げこ」がいなくなったりするのだろうか。
 
そうそう、確かヴァルドルフ系の雑貨をシュタイナーショップで買った際に、Maviさんのリーフレットが同梱されていたんだっけ。シュタイナー学校に娘が転入して、すぐの頃にライアを買い求め、見つけたシュタイナーグッズのショップだった。シュタイナーの世界は、オーガニック生活が基本。学校の保護者もそういう方が多い。が、そうでない人もいるから、そこでハードルの高さは感じないで欲しいけれど。。
 
「シュタイナーのお店が推奨しているならば、安心して飲めるワインなのだろうな」というのが第一印象。その後も色々と試してみたけれど、立派なお店で立派なお値段のワインを買っても、良質さに首を傾げてしまうようになり。オーガニックと無添加に拘りながらも直輸入ゆえか良心的なお値段だと納得するに至る。つまり同じお値段を出しても、オーガニック&無添加じゃないワインには、体が合わなくなっていき、そうなるとコストパフォーマンスからしても、「オーガニック&無添加のほうが良い」という結論に。
 
写真下の大判の本は、イザベル・レジュロンという方が書いた洋書の翻訳(株エクスナレッジが出版)。前書きには、ヨーロッパは今オーガニックブームで、食品に関しては「ちゃんとしたものを食べよう」という空気に変わって来ているものの、ワインについては添加物や香料の使用が横行していても、気づいていない人々が多い・・という現状から、啓蒙のために書かれたようだ。
 
・・と、日本で熱く語っても、あまり伝わらないかもしれないが、ヨーロッパにおいてワインは、歴史を人類とともに歩んできた非常に重要な文化なのだ。欧米の映画やドラマを見ていると、水を飲むようにワインを飲んでいる人々の姿がごく自然とある。ランチでも、ブランチでも、学者の方に聞いたところ学会中のランチ会のような席でもワインを飲む。水が日本のように豊富ではないヨーロッパは、自然と発酵して出来るビールやワインは水分補給だったと聞いたこともある。
 
歴史、文化としてヨーロッパの人々の生活の一部として存在するものなので、本来のワインのあり方にこだわる自然派の作り手たちは、工業化された商業的ワインの世界と戦いながら、自然に翻弄されながら、信念を捨てずに闘い続ける有志たち、という印象。単にオーガニックワインを作る、ではなく、自然主義者である生産者さんたちは、地球環境に害にならない農法、生活をしていて、畑を耕すのも馬や牛を使う。。など、徹底している。
 
思想の違いから、本物の自然のエナジーが詰まったワインが生まれる。今後、オーガニックがブームとなって、その方が売れるという姿勢でオーガニックワインを作ろうとする人も出てくるかもしれないが・・やっぱり、生き様や思想から生まれる作り手のエネルギーを、畑は、葡萄は、酵母たちは・・ちゃんと感じ取り、本物のワインが生まれ、その違いを、自然派ワイン好きな人々は感じ分けることが出来るだろう。
 
ワインの文化はそれだけ歴史が古く、奥が深く、作り手は企業オーナーであり、醸造家という専門家であり、農家でもある。土や自然の移ろいとも語り合いながら、よりよいものを作り上げようとする、職人以上の何かだ。実際に、フランスには「巨匠」と呼ばれるような作り手が居るそうで、本物に厳しいフランスならではなのは、「ちゃんとしたもの」が高い評価を得ていく、という点。
 
私は一度気に入ると、冒険せずにずっとリピートする性質で・・白ワイン、赤ワイン、スパークリング、ともに定番が決まっている。同じものをずっと飲み続けていて、どちらも自然派無添加で、ビオディナミ(バイオダイナミック農法・シュタイナー農法)を採用している生産者さんのもの。月の満ち欠けや天体の動きを考慮して行う農法で、娘も中等部の農業実習で2週間、九州に学びに行っていた。牛の角の中にハーブ等を仕込み、土に埋めるという・・何ともマジカルな感じるのする独特の調剤を使用する。
 
そういえば311の震災の折、その「マリアトゥーン調剤」を希望者に配布するという配慮も、学校にして頂いていた。放射性物質の浄化が可能ということで、チェルノブイリ事故後のヨーロッパで活用されていた事例があったとのことで。他にも効果があるというオイルの配布もあったけれど、うちは私がエナジーワーカーで、色々と対応できると感じてそれらを頂かずに対処していた。けれど、こうした自然界を知り、寄り添って生きるというシュタイナー思想で集った共同体の尊さを、この時感じたものだ。
 
話をワインに戻すと・・ 興味ある方はご紹介の本をぜひ読んでみていただきたい。普通のワイン、安いワインが飲めなくなるかもしれません。。。(笑)
 
そして、文化の一部として根付いているワインが、工業化の時代にそのように質が落ちることを経験した、その中で気づいて目覚めた生産者や本の著者などは、我々、東洋人が想像するよりはるかに、ショックを受けただろうと思う。そして、今すでにジワジワと、オーガニック&無添加が高い評価を得るということが、自然な成り行きで起きていることに、やはりヨーロッパは意識が高い、少なくとも進んでいるな、と感じる。
 
単なるオーガニックでも、葡萄はオーガニックのものを使い、工場で大量生産、そして香りづけや、フルボディを作りたいならそれなりにするためにタンニンなどを添加する、などは普通に行われているそうで、「オーガニック」では安心できず、「無添加」であること。ほぼ必ず入っている酸化防止剤の亜硫酸塩についても、自然派ワインは天然の硫黄を燃やした煙を充填する一方で、工業的ワインでは手軽に入れられる石油化学由来の亜硫酸塩を加えるのだとか。ワインを一杯飲んでも悪酔いする、という人は添加物に酔っている可能性が高い。無添加ワインならば1本飲まないと酔わない私でも、安いビールや安いワインを少しでも飲むとぐるぐるするし、エナジーワーカーとしては、エネルギーが一気に下がるのを感じる。
 
加えて自然派としては、製品がどうであれ作っている人々の姿勢にもやはり注目しなくては、と思う。たとえば、「オーガニックで無添加」ワインを工場で大量生産し、環境を汚すような企業であってはやはりダメだと思う。
 
自然派の基本は、自分が健康になる、自分が美味しく食べる・飲む という利己ではなく、地球を思う、世界を思う、自然を思う・・・ことから起因しているもの。だから、生産者を選ぶというのは、とても大事なこと。自然派の農業というのは、相当な手間と苦労があるわけなので、それを乗り越えても地球に優しく、飲む人に優しく、という精神が入って、本物の「自然派ワイン」と言える。
 
ワインに限らず、あらゆる製品がそうであるべきだし、何しろ消費者が根本的に意識を変えていかなくてはならない。多少、高くでも人体にも地球にも優しいものを買うという意識を持っていれば、世の中はさらに変わっていくだろう。
 
NHK で去年、放送された番組「プロフェッショナル・仕事の流儀シリーズ」で、日本から単身、二十三年前にフランスに渡ったワイン醸造家・仲田晃司さんを紹介している。感動してしまう仲田さんの職人振りと、フランスのワイン文化の奥深さがとても印象に残った。おすすめの番組。オンデマンドでも見れるので興味ある方はぜひ。
 
仲田氏も最初は、フランスワインの聖地ブルゴーニュで起業した直後、気を張っていたのか、まだ若かったゆえか、「流行りのワイン」を添加物を入れて作っていたそう。けれど、伝統にこだわるフランス、日本から来た若い製造者が平凡なものを作っても、まったく売れなかった。相談したワイン界の重鎮の方に、「自分が飲んで本当に美味しいと思うものを作ればいい」と言われたとか。
 
そこから、日本人の丁寧な職人的仕事、仲田氏の人間性がうまく展開していく(とはいえ、起業から二十三年の間には、語り尽くせない苦労があっただろう)。今では現地の人々にも受け入れられ、フランスワインの作り手としても高評価され、世界各国へも輸出されている。番組を見ていると本当に、お人柄が素晴らしい。日本でも自然農法などを志している農家の方は、綺麗な笑顔、眼差しをされているものだが、仲田さんもそのような印象。けれど、ひとたびワインの仕込みになると、醸造家という独特の、まるでアーティスト、芸術家のような厳しい表情になる。
 
雨が降るという予報を目前に、ブドウがダメになって損をしないようにという発想ではなく、ブドウにとって一番良い方法をとりたいと、夫婦喧嘩をしてまで(笑)決断をギリギリまで伸ばし、まだ種が完全に熟しきっていない事から、赤ワインの予定をロゼ(種まで絞らない・価格は赤より落ちてしまうが、そのブドウのポテンシャルを最大限に生かしてあげたいという意図から)に変えるなどのインスピレーションを実行している姿などは、もう半ば神がかっているようで、職人・醸造家としての器も異国の地でそこまで大きく育てたのだな。と、尊敬の眼差し。私と同じ46歳のよう。
 
よく日本の人々は、「日本人は素晴らしい」と言いますが・・本当に素晴らしい日本人は、本物であろうとする人は、日本を出ていってその資質を発揮できた人だったり、日本を出て初めて、海外で評価されたりというケースが多い。日本で、草の根的に素晴らしい志を実行している方々も、もちろんたくさん居るけれど・・社会のあり方、意識において、やはりヨーロッパなどは先を行っているなあと思う。人を作るのは「教育」だから、まずはそこだろう、と。
 
地球をひとつの有機体であると感じて、自分が発するものは、物理的にも非物理的にも地球に影響するのだということを、意識レベルで、生活レベルで、ごく自然と考え感じて、行動していけるような次世代を作っていくというのが、大人になったはずの人々の仕事だ。いわゆる持続可能な、という姿勢。けれど・・大人になっていないまま、年だけ取っている人が多い日本。ただある社会構造に、文句は言うけれど、結局はそこにはまって生きていく、処世術や世渡りを次世代に伝えるだけで、生きている人が多いのではないか。
 
仲田さん含め、勇気をもって苦労しながらも自分という存在以外の何かのために行動しているワイン生産者のエピソードに心動かされる。どんな分野でも同じだから。けれど同時に、それが高評価を得るというのはフランスだからだろうな・・とも思ってしまった自分の思考を、ここに刻んでおこう。そうかと言って自分の考え方や生き方を変えるつもりは無いわけで、周囲が反対する中、我が子をシュタイナー学校に入れたことと同じで、本当に大事なものを常に探し、仲田氏の「自分の損得ではなくブドウ(ワイン)にとって一番いいことを選択する」と同じ精神で、これからも行動していきたい。
 
Love and Grace
Amari

歩き出さなければ、次の道は見つからない

二日前の朝、目覚めとともに「まずは己を知ることから始まる」と心で呟いていたので、ブログにでも書くのかな?と思っていた。ブランチを食べながら見るために、オンデマンドで番組を探していたら、『永平寺』が目につき、メニューが和食だったからちょうどいいかなとチョイス。

道元が開いた福井県永平寺は禅の曹洞宗大本山。仏教史を学んだ中で道元の思想というのは私はちょっと合わないと感じていたけど、禅は海外のインテリにも人気、ジョブズ永平寺に行きたがっていたらしい。禅問答の世界は左脳も刺激しそうだし、他の宗派とは違い、東洋独特の(インド、中国、チベット、そして日本の)民族宗教の湿りっけが混ざっていないドライさも、西洋人には抵抗なく受け入れ易いのかも。
 
さほど食いついて見ていたわけではなかったところ、修行に入って年数が浅い禅僧(雲水:うんすい)たちがまず徹底して学ぶことは「自己を知ること」と出てきて、おおっ「夢で先に見ていたのかな」と、導かれている感じが高まり、集中して見始めた。
 
まずは己を知り尽くすこと・・そこに立ててようやく、禅の修行者として歩み始める。己を知り、不要なもの(煩悩)をそぎ落としつづける。やがて自己そのものを捨て去ることで、解脱・悟りへ向かう。・・と、他の仏教や神智学からしても、ヒーリングやニューエイジでも、当然のことなんだけど、改めてなぜかそのフレーズ「まずは己を知ることから・・」を、メッセージされた。
 
同時に、なぜ人間は「自分を知る」ことにそんなに長い行程や、迷いの日々が必要なのだろうかと、日頃思っていることでもあるので、改めて考えた。私自身は水瓶座か、第一光線か、単に過去生で(今世でも)修行をしてきている?からか、気が着いたら最初から「わかっていた」。自分の進む方向、やりたいこと、やらなくて良いこと、全てはっきりしていて、若い頃から迷わなかった。ただ、はっきりし過ぎていて、そうではない事柄との摩擦で苦しみはしたが・・・
 
雲水さんたちが厳しい修行の中で見つけていくのはもちろんそういう事ではなく、24時間の生活の全てに決められた厳しい作法があり、四季の移ろいで暑い・寒い、毎日の座禅が辛い事もあるだろうけど、その中で立ち上ってくる自我、感情や思考のゆらぎを通じて、「自分」つまり「自分の中にいかに迷いが隠れているか」を体験し、「己を知っていく」のだろう。
 
「自分探し」に何十年とかかっている人々も居る。同じパターンを繰り替えしているのに、そこから学んだ筈なのに、見ていて祝福と成長の道筋に乗れているのに、当人はあるものを「無い」と言い、盲目的にまたいつもと同じ行動をとって、乗れていた道筋を無駄にする。そんなことも少なくない。そんな人は、神智学に言う「グラマー」に染まっているから、言葉で止めることは出来ない。

 

人はなぜ、「自分」を知らないのか。

 
シュタイナー教育を見ているとなおさらそう思う。18歳で子供たちは、ある程度人として出来上がる。自分のことを知っているし、世界の中で自分をどう活かそうか、さて・・と、自然体で当然のように考えている。
 
ヒーラーをしてきて最大の疑問は、「変わればいいのになぜ人は変わらないのか」「なぜ道を示されているのに、歩みはじめて手応えを掴んでいるのに、また堕ちていくのか」ひいては、この世の仕組みの中で、人の心・意識はなんと弱いのだろうか、と。傲慢さ、頑固さ、愚かさ、甘さなどから、人は成長していく(現実を改善していく)道からわざと自分を逸らす。・・・けれど、それが自分で分からないから、長引く。
 
お寺の厳しい修行の中で、自分の傲慢さ、頑固さ、愚かさ、甘さなどに気づいていき、それを超えていくという仕組みなのだろう。つまり、甘い環境の中で生きていると、自分を見つけることさえ出来ないのかもしれず。歴史的にも、豊かになりすぎると人心は腐敗し国は滅びに向かう。ただ、甘い環境にいる(自分を甘やかしている)人が、「自分は厳しい状況にいる」と思い込んでいるケースも多く、それでは抜け出せないよなあ。。。という感じだ。
 
 永平寺は厳しい修行寺として知られている。世界中にファンが居て、サテライトのお寺も海外にあるらしい。道元は中国に留学した折、どんな深淵な教えと修行が待っているのだろうかと思っていたところ、生活そのものが全て禅である、修行である、という考え方を学び、体験し、二年ほどの留学期間に「心身脱落」(解脱・悟り)に至り、帰国。もとは京都の公家の生まれで比叡山に籍を置いていたが、あえて北陸、福井に大本山として永平寺を開き、曹洞宗の宗祖となった。
 
日本の仏教史、そしてインドでの発祥から全体の仏教史と、二度、学ぶ機会があった中から、少々、予備知識をご紹介。
 
インドには無かった禅宗は中国で生まれ、五家七宗に分かれ、そのうち臨済宗曹洞宗が日本に入っている。禅における思想的な軸は「ありのままを受け入れる」か「ありのままを超えていくか」の解釈であり、考え方の違いにより宗派が分かれていったそう。また「ありのまま」の本来性をどこに求めるか、の解釈にも相違が生まれ、人間としての「あるがまま」を自己とするか、別次元の(魂?)自己をそれをするか、により系統が分かれたりと。
 
そのような伝統を受けて、道元は自ら新しい哲学を打ち立てる気迫で、仏典、釈迦の伝承や言葉を自ら改めて解釈しなおし、既存の禅を否定しつつ独自の思想体系を構築していったようだ。大著書「正法眼蔵」の世界観は凡人には理解しがたく難解。言葉遊びをしているようで、落ちがあるのか無いのかも分からないようで、結局何か言いたいのか、特に何も言う気はないのか・・それが落ちなのか。という感じ。
 
以前、ちらっと読んだ時は「ああ、ダメだわ。合わないわ。」と、自分の好みではないと決めてしまっていた。けれど今回、「永平寺」をふむふむと見終わった私にNHKさんは「関連番組」として「100分で名著」の『正法眼蔵』を進めて来た。分かり易く解説してくれる同番組なら、何か新境地を感じれるだろうか?と、見てみることに。要点と、興味深かったことを以下にざざっと。解説者ゲスト、ひろさちやさんのお言葉を中心に。
 
自我を捨てるのが悟りだが、「悟りたい」と思うのは自我であるから邪心である。(から悟れない)
→ほんとにその通りだ。悟りとは、自然と至るものであらう。
 
本当は既に悟りの世界(全宇宙)に生きているのに、迷うのが人間。
とにかくは歩み始めることだ。そうすれば、自然と次の道が見つかる。
→その通り。いつもうちのクライアントさん、生徒さんたちに言いたい「始める前から心配しないで。とにかく始めないと。」
 
迷うことは道元は一切否定していない。しっかり深く迷いなさい。そうすればいつか抜けられるから。
→これも本当にその通り。そこに真剣さが必要で、深く生きるということだろう。迷いを打ち消すことは出来ない。とことん迷って、ナチュラルな責任意識とともにそこから抜ければいい。
 
「悪を行うなかれ」ではなく、日々の修行生活をしっかり生きていると、自然と「悪など行えなくなる」
→これもよく分かる。きちっとした身のこなし、清潔さを保つ、無駄をせず食す、などの厳しい規律の中で生きていると、波動が高まるのだろう。そうなると、波動の低いもの、低い思考や感情は抱けなくなる。これはヒーラーとしての生活からよく実感できる。
 
「あるがまま」を肯定する禅の一つであるし、何に対しても結論づけるのではなく、あらゆるものが、世界そのものが既に仏であるとし、悟りは向こうからいつかやってくる、と説いている道元はいわゆる「他力(たりき)」の教えであると誤解されることもあるそうだ。けれど解説のひろさちや氏いわく、ヒンドゥーの喩え話を使って、
 
サルの親子。子ザルは、母ザルのお腹に自分でエイっとしがみつき、自力でぶら下がっていなくてはならない。母ザルが運んでくれるとは言え、これは自力である。一方で、ネコは他力。子ネコは母に咥えられ、運んでもらう。子ネコ自身は何もしなくても安全な場所へ運んでもらえる。
 
道元の教えは前者、サルの「自力」であるという。運んでくれるのは仏。けれど、仏を信じるという努力が、自分サイドで必要である。
→これも全く強く同感で、いつも皆さんに言って来たことでもある。高次が運んでくれる流れがある。常にその流れを感じれるように。そうすれば乗っていくだけだから、と。
 
・・・でも、どうして流れに乗れない、というか流れさえ見つけられない人々が居るのだろう?というのが、私の疑問でもあった。冒頭に書いていたこととも重なるが・・エネルギーワークや、瞑想や、ヨガでも他の何かでもいい、学びは全て同じだが、何か新たな「良きもの」と出会えば、学ぶ意思があれば、自分が「変わらない筈はない」というのが、自分の自然な感覚だった。逆に「変われずに居られる筈がない」と。
 
まして、ヒーリングやエナジーワークでエネルギー層に働きかけるなら尚更のこと。セッションや伝授を受けて、「分からない」「変わっているのか?」と疑問を口にする人が、ごく稀だけれど居る。一方で、スイスイとひとつひとつを理解して、進んであっという間に成長する人たちも居る。怠慢さや、信じる気持ちの欠如からちゃんと活かそうと努力していないから、という単純な理由もあるかもしれないが、もっと掘り下げれば、シャドウセルフや周囲のエネルギーなどから、変わっていけない仕組みが隠れている、と、解釈することもできる。そこには、適切な処方も必要だろう。けれどやはり、当人の「変わりたい」という強い意思、信念がなければ何も根付いていかない。(ヒーリングも「他力」ではないのだ)
 
昨日もちょうど、生徒さんたちとセミナーでそのような会話をしていた。永平寺の特番を見ていたのは一昨日だが、昨日あらためて大きな疑問、問題意識を抱えて帰って来たところ、「100分で」を見て、その子ザルの比喩が本当に、ピッタリだと感じた。
 
「自分は最初から仏の世界に存在している、仏の子である」と信じなさいと道元は言っている。苦しむ時も、迷う時も、それはそれで良し。いつか仏が、悟りが、迎えに来ると信じてしっかり苦しみなさい、迷いなさい。けれど・・・「信じる」「信じ続けるという努力」は、自力で、自己責任で、われわれサイドに欠かせないもの、ということ。
 
ヒーリング、エネルギーワークも全く同じだ。
 
以前から何度も、同じようなことをブログに書いてきた。「信じる力があるかどうか」・・・もし私に、ヒーラーとして何か才能があるとしたら、それくらいだろう、と。あとは高次がうまく運んでくれる。それを信じて、アルファ波的なリラックス状態でクライアントの横に座っている。自分からガザガザと考えたり、セッションをうまく運ぼうとは考えず、無欲で。
 
それが中々、人々に通じなかった。みんな心配し、うまく出来るのか、これでやれるのかと呟く。5年、10年と学んできた人でも、強い恐れが発動し逃げるように去っていく姿も。「信じるという才能」が、ヒーラーには必要なのだ。
 
・・・と、自分には合わないと思っていた道元さん。急に親しみが、そしてもちろんレスペクトが湧いてきて、「100分で」を全部(4回で100分)見ることに(笑)した。
 
天才肌だったのでしょう、一般的な仏教における解釈とは違う論を、新たに展開したという特徴もあるよう。そうそう、当時は平安末期からの末法思想の蔓延で、人々は若干パニック。天災や戦乱などにおびえる民衆はいよいよ末法の到来だと、大いに恐れていた。そんな大衆の処方箋として、現世ではなく死後の阿弥陀浄土へ行けるように阿弥陀様を信仰しようという浄土宗、浄土真宗が大衆レベルでウケた。
 
同時に、都と幕府の対立の中で権力者たちは加持祈祷を行う密教系の僧侶を重用した。どちらも、仏の真の教えからかけ離れているとして、道元は危機感を感じていた。ブッダの教えを改めて提示し、本来の仏法を教え、残さなくては・・そこに、使命感を感じたよう。禅宗や、曹洞宗であるというアイデンティティにこだわるよりも。
 
そうそう、仏教の勉強を趣味でして来た者として、番組を見ている途中で、これは原始仏教、つまりシャカ自身の哲学に近いのでは?と思っていた。法華経華厳経含め、いわゆる大乗仏教はシャカの死後数百年を経て生まれた新しい潮流で、それぞれなんらかの土壌を持ち、なんらかのニーズに応えるものとして生まれていた。シャカの本来の仏教ではない、とさえ言われることがある。
 
一人の人間として自分を徹底的に見つめ、自己を乗り越えて自らの中に悟りを引き寄せ解脱する。密教のようなマジカルなパフォーマンス、華厳のような絢爛豪華な世界観は無い。
 
なぜ、道元が京都を離れて福井県の山深い地に永平寺を開いたのか。については、諸説あるそうだが、ひろさちや氏の解釈では、
 
「プロフェッショナルな仏教者」「本物の修行者」としての弟子たちを育てるために、隔離された場所で、少数精鋭を純粋培養しようとしたのだろう、と。
 
本物の、プロフェッショナルな者たちを育てようとした。
 
世間で横行している、権力(ビジネス)に媚びた仏教ではなく、大衆受けするための教義ではなく(けれど浄土宗や日蓮宗などは、当時の不安を抱えた力のない一般の人々の助けになったことと個人的には思っている)、
 
ブッダの真の教えを再現し、それを純粋なまま実践篇で体現していく修行者を育てていくための、指南書「正法眼蔵」、そして修行場の永平寺
 
急に道元さんが、他人とは思えなくなって来た(笑・分かる人にだけ分かるところ)。
 
そして800年もの間受け継がれ、今では世界から注目される存在となっている。
 
いつの世も、思想やスピリチュアリティにおいて、起きることは同じだと今回もまた改めて深く感じ入った。同時に、二日前の目覚めの瞬間に響いたフレーズからのこの流れは、メッセージでもあり、シンクロニシティでもあり、ガイダンスでもあったのだと感じた。
 
感謝。
 
Love and Gratitude,
Amari
P.S. 生徒さん向け、アップデートブログも本日、更新しています。