Energy and Crystals

鉱石とエナジーワークと神智学と、生きること。

太陽とサクヤヒメ

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Introduction

二十歳のころ、ふらりと行った奈良旅で、三輪山と「再会」し、スイッチが入った日本古代史、日本神話、民俗学への探究。1993年のことなので、当時は今のようにスピ系の女性たちが神社や神話に興味を持っているような状況もなく、友人たちにも余り理解されず、現地では「なぜここなの?」「もっと行くところあるでしょう、若いんだから」と現地人の方々に言われる始末。

歴史好きは子供の頃から、だったと思うけど、自分自身もそれまでは世界史にしか興味がなく、高校時代はシルクロードやモンゴル、チベットなどの東アジア史や、古代ギリシャメソポタミアに興味を高めていたっけ。私は本当に水瓶座というか、第一光線というか、人からの影響では心も行動も動かされることなく、自らが体験したことしか、自分を変えたり進ませたりするキッカケにならないタイプ。

高校2年の修学旅行で何となく京都には無い気配、自分との相性を奈良に感じて、「大人になったら(?)ゆっくり奈良に来よう」と思っていた。短大時代は相変わらず興味は世界に向いていて、卒業後にようやく、会社員となって最初の休暇で奈良に出向いたのだった。その時、さっそく神秘的な体験も幾つかあって、「自分の体験でしか動かされない」私が、自分でも驚くまさかの「日本」探求者となった。その時、二十歳。

間は省略・・時流れて、三十三歳。エナジーヒーリングと、ヒーリンググッズショップを生業とするシングルマザーになっていた私は、娘、両親とともに奈良の三輪山の麓へ移住。

三輪の麓が散歩道となり、大神神社で御神水をいただくことも日常になっている中で、その森で、水辺で、サスラ姫、サクヤ姫、セオリツ姫と感じるエネルギーを体験する。それらは同根で、ヴァリエーションの違いであると悟ると同時に、奈良に移住するころに夢で見たり、レコンセクレーションTM(アルガンザのオリジナルワーク)を受け取ったプロセスでは、菊理姫と呼ばれる女神意識、エネルギーが関係していた。

同時に、地球のロゴスと言われるサナトクマラのシャクティ(女性性の側面)としての「白山姫」を体感するに至る。それらが整理されていくにはある程度時間が必要だったけれど、2008〜9年頃には、地球ロゴスのシャクティとしての白山姫、それが地上に近い形で降りて来たのが菊理姫、そして菊理姫から別れた形で火、水、風、を体現するのが、サクヤヒメ、セオリツヒメ、サスラヒメであると位置付けて、その概念は幾つかのワークにも反映されていた。

それからまた、長い、10年という月日が流れて、依然として同じエナジーヒーラーという仕事を続けている私が、今年向き合ったガイアワークの中で、この四相一体の女神と、そのオーヴァーソウルである白山姫(ロゴス)について、分かった事の一部を、とても重要と感じるので、刻んでおきたいと思う。

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神智学文献では、エレメンタルつまり四元素を神秘家が取り扱うのは危険で、お勧めできない、という記述もある。私たちのエネルギーシステムにおけるチャクラは、ルート、セイクラル、ソーラープレクサスの1〜3の低位チャクラが土、水、火の元素の世界と通じていて、ハートチャクラが空気・風。それらの元素の力を取り込むことで、栄養になる、という。アルガンザのカレッジでもそれを取り入れた四元素のワークを導入している。アーユルヴェーダも人間の肉体や外界(季節や時間)、臓器やその働きすべてを四元素をベースにした「ヴァータ・ピッタ・カパ」という力学に当てはめて、足りない元素を補い、強すぎる元素を抑える、という法則からの処方箋が体系化されている。

恐らく、一般的な、物質界レベルでの話ならばこれでいいのだろうと思うけれど、秘教を学ぶ者としては何か引っかかる感じがずっとあって・・上記の、四相一体の女神のコンセプトとエネルギーをワーク化した「四女神の柱をオーラに立てる」メソッドを、レコンセクレーションの伝授に導入していても、いまいちの感じがずっとあり、また、秘教的な学びの中でも「四元素は封印である」「呪縛である」というフレーズにも出会い、長いこと気に掛かっていた。

2011年頃だったか、それまで数年に渡り直輸入していた、アメリカのワーカーさんからの「四元素ドラゴンストーン」を、アルガンザの周波数の遷移の動きの中で、ちょうど先方も石の仕事を辞めるというタイミングだったので、取り扱いを終えるに至っていた。けれどその後、カレッジで紹介すると生徒さんたちの関心は高く、また、女性たち、それも巫女的・神秘家的な女性たちは四元素が妙に好きなのだ・・・けれど、本格的に「見えない世界」を命がけで探求している神智学では、「危険だからエレメンツとのワークは勧めない」という。

(もちろんアーユルや、チャクラに元素・・という自分の健康に扱うのは、全く問題ないし、むしろ人間の本質・真実なので有効な知恵である)

そのようなモヤモヤが数年越しでずっとあったところ、今年、2019年は「火」のエレメンツを中心にして、体験から、分かったこと、見えてきたことが多くあった。

縄文期の日本人の一部になったと考えられる南方からの流れを持つ人々は、インドのドラヴィダ人由来という説がある。その言語で「神聖なもの」を表す「フィー」が、日本に来て「日」「火」になったという説を、カレッジのテキストでも紹介して来た。韓国語でも「火」は「ファ」で、恐らく同じルーツだろう。日本は「ひのもと」という元来の国名が、漢字が入って来てから「日本(にほん)」となったらしく、縄文からの流れを受けたこの列島の本来の名称は「ひのもと」であったと個人的には信じている。

その「ヒのもと」の「ヒ」とは何であるか・・が、重要なキーだとずっと思って来た。

「霊」と書いて「ヒ」と読ませ、神にまつわる言葉を構成している日本語がある。ヒモロギ(神が宿る場所)、ヒルメ(神の巫女)、ヒルコ(神の子)など。以前から旧ブログにも書いて来たが、鹿島・香取の両神宮のある茨城県常陸(ひたち)なども、恐らく「霊」=「ヒ」=「神なるもの」と関係していると考えている。

では、日本の歴史の根幹となる「ヒ」とは、何なのか。今、私たちが知っている「火」と「日(陽)」とは、ひとつに括れるものなのか・・そのテーマを長いこと、それこそ奈良に通い始めた20歳の頃から、25年以上何となく考え続けて来た。

今、アルガンザの新しいワーク体系として「プログレッシヴワーク」というスタイルに改変するため、旧来のワークの幾つかを再編成しているところで、そのうちのひとつ、サスラ、サクヤ、セオリツ、キクリの四相一体の女神による禊(浄化)のワークである「さくらしおん・四女神の変容プログラム」を、新ヴァージョンでモニタリングしながら、スクール卒業生の方々に受けて頂いている。その中で、画期的な進展があり、長年の「ヒ」(火・日・フィー・霊)についての考察が深まり、突破口が開けた。

さくらしおんの今回の改変では、長年のモヤモヤを解決し、物質界の呪縛であるという四元素を超えて、すべてを第五元素、さらにより高い層へ統合し、ソウルシステムを拡大し強化するような宇宙的なワークにしたいと意図していた。故に、最初につながるのはシリウスで、そこから、シャンバラにあるシリウスの恒星のミニチュアに降りて来て、その、地球の中心とも言える白い太陽とともにワークをする、という試みで進めている。

4段階のワークのうち、2段回目にあたる「サクヤヒメ」の時。段取り通りにシリウスから地球の太陽、白山姫、と降ろして来て、サクヤ姫のエネルギーにチューニングする。白山姫の桜色と、シャンバラの白の2色はベーストーンとしてあり、そこにサスラなら紺色、セオリツは水色、サクヤは黄緑色が加わる。一段階目のサスラの濃紺色の意味は既に分かっていて、それは人間の中心軸のスシュムナーに関係している。サクヤの黄緑は何だろう・・と、先日、セッション前日に考えていた。

すると、自宅の窓から見える森の緑、自宅の室内の植物たちが陽を受けて輝く黄緑が目を惹きつけた。彼らは光合成で成長する。葉緑素が太陽光で育ち、緑色を呈する。でもなぜ緑色なのか・・・・・

そう考えてみた時、「太陽のエナジーが緑色だからだろう」と、当然のように自分の中から答えが返って来た。そういえば、カメラで撮る時に映る太陽光のプリズムも、明るい黄緑色。自称・太陽人とか長年言っている私・・でもそこは余り考えた事がなかった。コノハナサクヤ姫は、木の花、つまり桜の女神であるから「植物神である」ということと、富士山に祀られる浅間神社も含めて「火の女神」としても伝わっていて、神話では表向き、山の神であるオオヤマツミを父とするけれど、火の神である愛宕(あたご)神が、同神であるという。そして姉の磐長姫のエピソードも気になるところだった。

が、太陽のエナジーが黄緑色であり、それが地球の植物たちを緑色にしているならば、サクヤヒメが、白山姫のベーストーンに加えて、植物神という様相を担当して黄緑色のイメージで見えている訳が、良く分かった。つまり、サクヤヒメの「ヒ」とは、「火」ではなく「日(陽)」=太陽なのだ。

先日、フェイスブックに書いたこと。古代朝鮮の神話について調べていて、導かれた韓国時代ドラマのファンタジー太王四神記」(ヨン様こと、ペ・ヨンジュンさん主演)を見ていて更にヒントが来た。同ドラマは「四神」つまり朱雀・白虎・玄武・青龍の四元素の守神たちと、古代朝鮮の神がかった王権のカルマ、光と影の物語。その中で、朱雀は火の力であるが、その力を見つけた守護部族は、「地中から火を見つけた」とのこと。朱雀の主であるその部族の「火の巫女」は「大地の母」と呼ばれている。

火は、日が地上に降りてきた表現なのだろうと長年、思って来た。けれど、そうではないと感じ始め、ワーク改定での上記の気づきがあった所に、このドラマの世界観は大いに示唆を与えてくれる刺激となった。「日」は、地球のロゴスの上の階層、太陽ロゴスのエネルギーである。地球の魂である私たちにとって、「神」とは太陽ロゴスであるという表現も、神智学で目にしたことがあるが、まさに縄文やケルト、世界中の新石器時代人が、ストーンサークルなどを建てて、崇拝していた神としての太陽なのだ。

一方で、火は、一部の人間が地球の地下世界で発見した「力」だという。もっと遡れば、アトランティスに起因するだろう、地球内部の力学を地上に引き出してきたもの。地球、ガイアの中でも肉体である大地、地下のマグマの世界に属するものなのだ。古代世界において、火を神聖なものとする宗教が複数、生まれた。私の印象では、それらは生贄や、構造的な文明の構築、つまり都市や軍隊の編成などに向かっていく古代世界を襲った新たな潮流・・そして歴史を塗り替えて、各国、各地で太陽崇拝の部族社会を駆逐し、征服していった潮流に通じている。

「ヒ(フィー)」を神なるものとして、ひとつで考えていると、答えは出なかった。本来はまったく別のものを、低次元に引き下げながら、置き換えていった。「日の巫女(ヒミコ)」「ヒツギノミコ(日本の皇太子)」などの元になった「ヒ」」を、どう捉えるかによって、古代日本における、古代世界における宗教のあり方が全く違って見えてくる。この「引き下げ」からの分離を表しているのが、日本神話におけるサクヤヒメとイワナガヒメの物語であると、気づいた。

姉である磐長姫は、日本神話では「器量がわるい」と言って、嫁に出した天孫から親元に返された。上記の韓国時代ドラマでは、神代に天から降った神の息子の愛を得た「妹」に対して、「姉」である「火の巫女(大地の母)」が嫉妬し、「リリス化」してしまう。その因縁が持ち越され、2000年後に転生する主人公たち。同じく姉は愛を得られない悲壮からリリス化したところ、彼女の持っている火の力を破壊力として使おうとしているネガティブな宗教結社によって、操られるままダークサイドに堕ちていく。(ドラマの冒頭にある神代の二人の女性は姉妹ではないが、2千年後の転生で姉妹として生まれている)

このドラマがベースとしている朝鮮神話、檀君神話の中に、ドラマのような二人の火の巫女姉妹の話が実在しているのかどうか、調べてはいないのだけど(檀君神話には虎と熊が出て来て、熊が王のお嫁さんになるという話は出てくるが)、日本には在る。まさに「サクヤヒメ・イワナガヒメ」であり、弥生人の渡来が日本建国を開いたと思えば、同じ原型的な神話が日本に伝わった可能性も十分考えられる。

更には、より秘教・神智学・ジェネシス概念の中で考えて行くと、かつて「ヒ」という神なる力は太陽そのものであったが、人類が物質界に染まって利己に落ちていくプロセスの中で、地下世界から取り出した物質的な火に習合され、やがて火そのものを崇拝することで、アトランティスに起因する火の破壊力を活用した原型エネルギー、集合場と繋がっていき、人類はさらに戦闘的になっていった。牧歌的な石器時代の人々の思考体系とは、明らかに変わっている。世界中で同じように、戦闘的で残酷な神を崇拝する文明に塗り替えられていく古代の動きを、ずっと不思議に思っていた。

本来は同一であったものから、二極化が起きる。堕ちたサイドは原型的な闇の力の一員となり、破壊力を発揮する側になっていく。イワナガヒメを、大地の女神としてワークに加えようか?リュミエールのブレスレットにしてみようか?と着想してみたことがかつてあったけれど、いずれの場合も「何か違う」と流していた。最近は、このエネルギーをリリスの一種として体感、体験することが続き、ライトワーカーたちを阻む力として動いていると、仲間内でも話している。

ちなみに「イワナガ姫」の「ナガ」は日本語の中にも広く浸透している「蛇」としての「ナガ」の音を彷彿とさせるけれど、蛇の姿で見えるという話も出ている。蛇や龍が好きなスピ女子たちも多く、神社巡りをするうちに知らずに繋がってしまっている人々も居るし、セッション等でその種のものが出て来て伝えても、当人が愛着を持っていて、切り離せないこともある。神社の場所は元々、古い元素霊が封じられた場所に建っていることも多い。自分の周波数が高くないと、またシンパシーを潜在的にでも持っていたり、攻撃や破壊・虚栄心などネガティブなエネルギーが人間性の中に有ると、繋がってしまうこともあるだろう。

神社巡り、土地巡りが好きな女性たちの中には、エレメンタル、つまり自然界に封じられている元素霊たち(「龍神」など)を「解放」している人々の話も聞く。以前からそれを危惧していたけれど、意味があって封じられているものまで、次々と解放されているようで、危険な破壊力をもったスピリットが放たれることで、スピリチュアルなアンテナを伸ばした人々が更にそれをチャネリングとして受け止め、逆側のメッセージを発したり、攻撃的なエナジーをヒーリングとして流したりしている。

神智学の先人が、「エレメンタル(元素)とワークするのは危険。お勧めできない。」と言っている理由、今ではよく分かる。「堕ちたもの」「封じられたもの」にシンパシーを感じている人も多いが、それがもっとも危険な入り口である。古代の人々も馬鹿ではない。今の私たちよりも霊的なアンテナは鋭く、天と通じる人々も多かった。理由があって封じた、荒々しい破壊的な元素霊たちを、よく深く考えることもなく解放している人々はまた、人間の進化を阻む力の方に、動かされていることに気づいていない。

今年は火の破壊力が大いに動いていた。上記のようなワーカーたちにより解放されたものたちなのか、時代の変わり目ゆえの、歴史の層から自然と炙り出されたものたちなのか。それを水によって鎮めなくてはならない状況になっていたようで、台風19号はそれゆえに、猛威を奮ったのだろう。各人の中でも、「火の破壊力」にまつわるカルマが動いていただろうと思う。

これらの気づきから、ちょうど改定していた「さくらしおん四女神の変容プログラム」の第二段階「サクヤヒメ」では、太陽ロゴスの黄緑色のエナジーを、太陽神経叢とハートに注ぐという内容にした。思えば528ヘルツはハートチャクラの周波数、そして太陽の周波数とも言われ、それは明るい緑色だと知られている。サクヤヒメの「フィー」とは太陽の力であり、ゆえに桜の花の女神と伝わるサクヤヒメは、植物界をグリーンに育む植物神なのだ。

サスラ姫の第一段階は、中心軸の奥にある空の領域に向かってスシュムナーを洗浄する。サクヤで第3チャクラとソウルセンターを太陽の力で洗浄する。そしてセオリツの宇宙の水の力でアストラル体を洗浄し、最後にキクリ姫でくくり、第五元素から宇宙の源のゴールドへ、統合する。お陰様で、神智学ベース、ソウルシステム的なワークへとリニューアルすることが出来て、10年越しのモヤモヤが払拭され、安心したところ。

人間は物質界の存在だけれど、物質界のしがらみ、呪縛を「超えていく」ために存在していると考える。ゆえに「四元素は封印」であり「呪縛」なのだ。私たち人間を、物質界に封じているものが四元素であり、物質体としては食事やチャクラの栄養として親しみつつ、やがてはそれを超えていくものだという認識が、少なくともメタフィジカルを学ぶ人々には必要だと考える。浄化が進んでいき、アンタカラナが自然と開発されていけば、チャクラのひとつひとつも分離なく、すべてが白い光へと統合されるという。

四元素という縛りを超えていく。第五元素、さらにその先へ。

Love and Grace,

Amari

ほんもの思考・ほんもの志向

8月16日 インスタ記事より
 
1週間前ほど前、新しい何かが始まって、結果として辿りついた情報はとても嬉しいものだった。
 
2010年、当時奈良に住んでいた私が急に横浜で出張ワークショップをすることになり、それは言葉以上に大きい土台からの変化だったようで、その頃から、着るもの・持つものなどの主に外側で身につけるものを総入れ替え。今に続く自分のスタンダード、自分が求めるクオリティが確定するという、一見「横浜でレムリア瞑想会」とは全く関係のない変化を生み出した。
 
日本が世界に誇れる唯一のものは、「現場で良い仕事をする職人・技術者」ではないかと思う。あらゆる意味での「現場」で。その頃見つけて、暫く「ひとつ覚え」のようにリピートしていた職人的なお店があり、まったくジャンルは違えども、仕事へのクオリティにこだわる姿にレスペクトを抱いていた。違いがわかる人々、特に業界の人に非常に評価されていたのではないかと思う・・雑誌にも多く載り、地方都市から都内にも進出し華々しく。けれど、数年を経てはたと「閉店します」と。ザンネンに思っていた。
 
あれから4〜5年経つだろうか、少し形を変えて、同じオーナーさんが再出発をされていることをその朝、偶然知った。直感的ネットサーフィンの結果だった。それが私には非常に象徴的な、一つのサインに感じられた。きっと人よりは、あまり常識や固定観念に囚われないほうだと思うけれど、それでも、自分の思考で固まってしまった現実の中を人は生きる。その外側が、見えにくくなりがち。
 
まったく勝手な推測で外れているかもしれないけど、本来、職人的な「素材を見る目」、実際の仕事のクオリティ、素材と出会って作品作りが始まる・・などの意識の高いものづくりをされている方が、「売れすぎてしまって」、多忙さや、周囲から求められる勢いにペースを乱されたりと、追い詰められてしまったのかな?と、実店舗やオンライン含めすべてを閉じられた時、勝手ながらに思っていた。
 
それから数年。再び自分の大切なものを再構築し、もう一度、同じフィールドに戻ってこられるという姿に、凛とした生き様を感じて・・改めて、その方のものづくりのファンになった。
 
それがどんなジャンルであれ、精神性・生き様は、その人が生み出す空間や仕事すべてに現れる。見ている側も、その人の何に惹かれているのか・・が、変化が起きた時に問われるものである。華々しくヒットされている時に見ていた多くの人々のうち、もう、違うところを向いていて戻って来ない人たちも居るだろう。
 
けれど今回の自分のように、何かがキッカケでふと、再会できることもある。そこに起きていた変化と、自分に起きていた変化がフィットすれば、再び結びつくのだということを感じた。最初に惹かれていた理由と、今でもレスペクトを抱く理由は変わらず。その方の精神性が現れた仕事振り。つまり結局は、その方の生き様であり、精神が、自分の中にあるものと響くからだ。
 
時代の変わり目にあり、「ほんもの」で仕事をしている人々が苦境を味わっている時期だと感じてブログにも書いていたけど、そこに変化が起きつつあると言っていたのは今年の初めから春ころ。様々なジャンルで、同じことが起きていた事が、周囲から入ってくる話からしても、実感としても、よく分かる。私も先日ある方に、「人生で初めてスランプというものを体験しました」と話していたところ。
 
鬱になった時代は過去にあったけど、それとは別に・・仕事をする自分の創造性が何かうまく噛み合わないという体験を、一昨年〜去年、思えば初めて味わった。だからこそ、今見えている世界があり、勝手ながら、別ジャンルで同じように体験し、静かに、自分らしく、再スタートを切っている方々の姿は、何より力を頂ける。嬉しくて、それを記念して、久しぶりにそのショップでお買い物をした。
 
時代は少しずつ、動いている。
 
中途半端ではなく、本質を見て感じて、「それっぽい事をする」のではなく、自分から湧き出すもので仕事をしている「現場」の人々は、なんのジャンルであれ、堂々としていけばいい。売れるもの、うけるもの、など気にしなくていい。そもそもそれと、「本質からの仕事」は、噛み合うものではない。ただ、創造の仕組みからして、ほんものの仕事をしていれば、自分はそれで生きていけるものだ。
 
ちなみに英語で「本物志向」は authenticity oriented
authenticity:本格的なもの oriented: 志向
 
Love and Grace,
Amari
 
Instagram(office arganza アカウント)2019年8月16日投稿を削除のため文章をこちらに保存。

自然派ワインに寄せて・地球の中の「わたし」という意識

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趣味はなに?と訊かれたら「ワイン」それも「オーガニックで無添加のワインのみ」と答える私。石や神秘や歴史の探求などはすでに仕事の一部となり(まことにありがたいこと・・)純粋にシュミと言ったら、日々のささやかな喜びの一場面といったら、やはりワインであらうな。

とはいえ、ヒーリングを学び流れに乗って来たころ(神智学的にいえば熱誠時代)は、若いころ好きだったワインも、ビールふくめアルコール飲料は飲めなくなっていた。お肉もダメ、乳製品もイヤ、というビーガン状態で5年くらい、生きていただろうか。あの頃同居していた母の作った食事を頂いていたわけだけど、私のビーガンゆえに母はずいぶん苦労したようだ。
 
2009年にあった大規模な変化から(ソウルシステムに関わる)人間性を取り戻すという流れがきたという話は、たびたび色んなところで書いたり話したりして来たけれど・・その頃、ワインも復活。そして2013年だったか、仲間と旅に出かける前に何でも食べられるよう二ヶ月かけて「訓練」し、普通の食事ができる人間に戻った。それでもヒーラー、エナジーワーカーをしていられる新しいシステムもその後、定着し、今も発展中。
 
ただ、どうしても受け入れがたいのが、添加物の入った工業的な食品。ワインも同じく。復活してしばらく、スーパーでも買える「オーガニックワイン」を飲んで満足していたけれど、波動の低さは気になる。食品をほぼオーガニックにする流れの中で、ワインについても学ぶこととなった。結果、一般には知らされていない事実が、やはりたくさんあると知った。ここ五年ほどは、写真の本の著者・田村氏の経営するMaviにお世話になっている。maviとはフランス後で「我が人生」とのこと。ワイン好きにとって、ワインはまさに「我が人生」。そこが、単なる「アルコール飲料」ではないのだ。
 
ちなみに私は日本酒や他のお酒はまったく飲まない。ビールはベルギーの修道院ビールなどはエネルギー的にも質としても、まあ飲めるという感じ。なので「お酒は飲んでいるの?」と訊かれると「お酒」は飲んでいない、ワインは飲むけれど、と答える(笑)。本物のワインは、中に詰まっているエナジーやその世界観からしても、特別なのだ。「お酒好き」でワインも飲む人と、「ワインが趣味」は、まったく違う。(単に言い訳のように聞こえるかもだけど、まあ仕方ない。笑)
 
日本酒にも、奥深い文化としての存在感があり、職人技の世界なのだろうけれど、私は新潟出身ながら、むしろ日本酒は苦手で。神社のお神酒で口にするくらい(笑)。ビールや他のアルコールも含め、原料が穀物だと、やはり重たく感じる。ワインは葡萄である点が、ポイントなのだろう(体に合うというか)。ただ、新潟人はDNA的に酒に強いと言われているそうで、そこはお陰様かも。
 
アルコールが苦手な体質、いわゆる「げこ」は、モンゴロイドにしか遺伝子が無いらしい。ヨーロッパではお昼休みにアルコールを飲んで午後にまた仕事に戻るし、アルコール分解の能力が全く違うのだろう。けれど、日本の中でも新潟人がお酒に強いとすると、習慣から遺伝子の変化が起きているということだ。そのうちグローバル化によって、いつかアジアにも「げこ」がいなくなったりするのだろうか。
 
そうそう、確かヴァルドルフ系の雑貨をシュタイナーショップで買った際に、Maviさんのリーフレットが同梱されていたんだっけ。シュタイナー学校に娘が転入して、すぐの頃にライアを買い求め、見つけたシュタイナーグッズのショップだった。シュタイナーの世界は、オーガニック生活が基本。学校の保護者もそういう方が多い。が、そうでない人もいるから、そこでハードルの高さは感じないで欲しいけれど。。
 
「シュタイナーのお店が推奨しているならば、安心して飲めるワインなのだろうな」というのが第一印象。その後も色々と試してみたけれど、立派なお店で立派なお値段のワインを買っても、良質さに首を傾げてしまうようになり。オーガニックと無添加に拘りながらも直輸入ゆえか良心的なお値段だと納得するに至る。つまり同じお値段を出しても、オーガニック&無添加じゃないワインには、体が合わなくなっていき、そうなるとコストパフォーマンスからしても、「オーガニック&無添加のほうが良い」という結論に。
 
写真下の大判の本は、イザベル・レジュロンという方が書いた洋書の翻訳(株エクスナレッジが出版)。前書きには、ヨーロッパは今オーガニックブームで、食品に関しては「ちゃんとしたものを食べよう」という空気に変わって来ているものの、ワインについては添加物や香料の使用が横行していても、気づいていない人々が多い・・という現状から、啓蒙のために書かれたようだ。
 
・・と、日本で熱く語っても、あまり伝わらないかもしれないが、ヨーロッパにおいてワインは、歴史を人類とともに歩んできた非常に重要な文化なのだ。欧米の映画やドラマを見ていると、水を飲むようにワインを飲んでいる人々の姿がごく自然とある。ランチでも、ブランチでも、学者の方に聞いたところ学会中のランチ会のような席でもワインを飲む。水が日本のように豊富ではないヨーロッパは、自然と発酵して出来るビールやワインは水分補給だったと聞いたこともある。
 
歴史、文化としてヨーロッパの人々の生活の一部として存在するものなので、本来のワインのあり方にこだわる自然派の作り手たちは、工業化された商業的ワインの世界と戦いながら、自然に翻弄されながら、信念を捨てずに闘い続ける有志たち、という印象。単にオーガニックワインを作る、ではなく、自然主義者である生産者さんたちは、地球環境に害にならない農法、生活をしていて、畑を耕すのも馬や牛を使う。。など、徹底している。
 
思想の違いから、本物の自然のエナジーが詰まったワインが生まれる。今後、オーガニックがブームとなって、その方が売れるという姿勢でオーガニックワインを作ろうとする人も出てくるかもしれないが・・やっぱり、生き様や思想から生まれる作り手のエネルギーを、畑は、葡萄は、酵母たちは・・ちゃんと感じ取り、本物のワインが生まれ、その違いを、自然派ワイン好きな人々は感じ分けることが出来るだろう。
 
ワインの文化はそれだけ歴史が古く、奥が深く、作り手は企業オーナーであり、醸造家という専門家であり、農家でもある。土や自然の移ろいとも語り合いながら、よりよいものを作り上げようとする、職人以上の何かだ。実際に、フランスには「巨匠」と呼ばれるような作り手が居るそうで、本物に厳しいフランスならではなのは、「ちゃんとしたもの」が高い評価を得ていく、という点。
 
私は一度気に入ると、冒険せずにずっとリピートする性質で・・白ワイン、赤ワイン、スパークリング、ともに定番が決まっている。同じものをずっと飲み続けていて、どちらも自然派無添加で、ビオディナミ(バイオダイナミック農法・シュタイナー農法)を採用している生産者さんのもの。月の満ち欠けや天体の動きを考慮して行う農法で、娘も中等部の農業実習で2週間、九州に学びに行っていた。牛の角の中にハーブ等を仕込み、土に埋めるという・・何ともマジカルな感じるのする独特の調剤を使用する。
 
そういえば311の震災の折、その「マリアトゥーン調剤」を希望者に配布するという配慮も、学校にして頂いていた。放射性物質の浄化が可能ということで、チェルノブイリ事故後のヨーロッパで活用されていた事例があったとのことで。他にも効果があるというオイルの配布もあったけれど、うちは私がエナジーワーカーで、色々と対応できると感じてそれらを頂かずに対処していた。けれど、こうした自然界を知り、寄り添って生きるというシュタイナー思想で集った共同体の尊さを、この時感じたものだ。
 
話をワインに戻すと・・ 興味ある方はご紹介の本をぜひ読んでみていただきたい。普通のワイン、安いワインが飲めなくなるかもしれません。。。(笑)
 
そして、文化の一部として根付いているワインが、工業化の時代にそのように質が落ちることを経験した、その中で気づいて目覚めた生産者や本の著者などは、我々、東洋人が想像するよりはるかに、ショックを受けただろうと思う。そして、今すでにジワジワと、オーガニック&無添加が高い評価を得るということが、自然な成り行きで起きていることに、やはりヨーロッパは意識が高い、少なくとも進んでいるな、と感じる。
 
単なるオーガニックでも、ワインはオーガニックのものを使い、工場で大量生産、そして香りづけや、フルボディを作りたいならそれなりにするためにタンニンなどを添加する、などは普通に行われているそうで、「オーガニック」では安心できず、「無添加」であること。ほぼ必ず入っている酸化防止剤の亜硫酸塩についても、自然派ワインは天然の硫黄を燃やした煙を充填する一方で、工業的ワインでは手軽に入れられる石油化学由来の亜硫酸塩を加えるのだとか。ワインを一杯飲んでも悪酔いする、という人は添加物に酔っている可能性が高い。無添加ワインならば1本飲まないと酔わない私でも、安いビールや安いワインを少しでも飲むとぐるぐるするし、エナジーワーカーとしては、エネルギーが一気に下がるのを感じる。
 
加えて自然派としては、製品がどうであれ作っている人々の姿勢にもやはり注目しなくては、と思う。たとえば、「オーガニックで無添加」ワインを工場で大量生産し、環境を汚すような企業であってはやはりダメだと思う。
 
自然派の基本は、自分が健康になる、自分が美味しく食べる・飲む という利己ではなく、地球を思う、世界を思う、自然を思う・・・ことから起因しているもの。だから、生産者を選ぶというのは、とても大事なこと。自然派の農業というのは、相当な手間と苦労があるわけなので、それを乗り越えても地球に優しく、飲む人に優しく、という精神が入って、本物の「自然派ワイン」と言える。
 
ワインに限らず、あらゆる製品がそうであるべきだし、何しろ消費者が根本的に意識を変えていかなくてはならない。多少、高くでも人体にも地球にも優しいものを買うという意識を持っていれば、世の中はさらに変わっていくだろう。
 
NHK で去年、放送された番組「プロフェッショナル・仕事の流儀シリーズ」で、日本から単身、二十三年前にフランスに渡ったワイン醸造家・仲田晃司さんを紹介している。感動してしまう仲田さんの職人振りと、フランスのワイン文化の奥深さがとても印象に残った。おすすめの番組。オンデマンドでも見れるので興味ある方はぜひ。
 
仲田氏も最初は、フランスワインの聖地ブルゴーニュで起業した直後、気を張っていたのか、まだ若かったゆえか、「流行りのワイン」を添加物を入れて作っていたそう。けれど、伝統にこだわるフランス、日本から来た若い製造者が平凡なものを作っても、まったく売れなかった。相談したワイン界の重鎮の方に、「自分が飲んで本当に美味しいと思うものを作ればいい」と言われたとか。
 
そこから、日本人の丁寧な職人的仕事、仲田氏の人間性がうまく展開していく(とはいえ、起業から二十三年の間には、語り尽くせない苦労があっただろう)。今では現地の人々にも受け入れられ、フランスワインの作り手としても高評価され、世界各国へも輸出されている。番組を見ていると本当に、お人柄が素晴らしい。日本でも自然農法などを志している農家の方は、綺麗な笑顔、眼差しをされているものだが、仲田さんもそのような印象。けれど、ひとたびワインの仕込みになると、醸造家という独特の、まるでアーティスト、芸術家のような厳しい表情になる。
 
雨が降るという予報を目前に、ブドウがダメになって損をしないようにという発想ではなく、ブドウにとって一番良い方法をとりたいと、夫婦喧嘩をしてまで(笑)決断をギリギリまで伸ばし、まだ種が完全に熟しきっていない事から、赤ワインの予定をロゼ(種まで絞らない・価格は赤より落ちてしまうが、そのブドウのポテンシャルを最大限に生かしてあげたいという意図から)に変えるなどのインスピレーションを実行している姿などは、もう半ば神がかっているようで、職人・醸造家としての器も異国の地でそこまで大きく育てたのだな。と、尊敬の眼差し。私と同じ46歳のよう。
 
よく日本の人々は、「日本人は素晴らしい」と言いますが・・本当に素晴らしい日本人は、本物であろうとする人は、日本を出ていってその資質を発揮できた人だったり、日本を出て初めて、海外で評価されたりというケースが多い。日本で、草の根的に素晴らしい志を実行している方々も、もちろんたくさん居るけれど・・社会のあり方、意識において、やはりヨーロッパなどは先を行っているなあと思う。人を作るのは「教育」だから、まずはそこだろう、と。
 
地球をひとつの有機体であると感じて、自分が発するものは、物理的にも非物理的にも地球に影響するのだということを、意識レベルで、生活レベルで、ごく自然と考え感じて、行動していけるような次世代を作っていくというのが、大人になったはずの人々の仕事だ。いわゆる持続可能な、という姿勢。けれど・・大人になっていないまま、年だけ取っている人が多い日本。ただある社会構造に、文句は言うけれど、結局はそこにはまって生きていく、処世術や世渡りを次世代に伝えるだけで、生きている人が多いのではないか。
 
仲田さん含め、勇気をもって苦労しながらも自分という存在以外の何かのために行動しているワイン生産者のエピソードに心動かされる。どんな分野でも同じだから。けれど同時に、それが高評価を得るというのはフランスだからだろうな・・とも思ってしまった自分の思考を、ここに刻んでおこう。そうかと言って自分の考え方や生き方を変えるつもりは無いわけで、周囲が反対する中、我が子をシュタイナー学校に入れたことと同じで、本当に大事なものを常に探し、仲田氏の「自分の損得ではなくブドウ(ワイン)にとって一番いいことを選択する」と同じ精神で、これからも行動していきたい。
 
Love and Grace
Amari

歩き出さなければ、次の道は見つからない

二日前の朝、目覚めとともに「まずは己を知ることから始まる」と心で呟いていたので、ブログにでも書くのかな?と思っていた。ブランチを食べながら見るために、オンデマンドで番組を探していたら、『永平寺』が目につき、メニューが和食だったからちょうどいいかなとチョイス。

道元が開いた福井県永平寺は禅の曹洞宗大本山。仏教史を学んだ中で道元の思想というのは私はちょっと合わないと感じていたけど、禅は海外のインテリにも人気、ジョブズ永平寺に行きたがっていたらしい。禅問答の世界は左脳も刺激しそうだし、他の宗派とは違い、東洋独特の(インド、中国、チベット、そして日本の)民族宗教の湿りっけが混ざっていないドライさも、西洋人には抵抗なく受け入れ易いのかも。
 
さほど食いついて見ていたわけではなかったところ、修行に入って年数が浅い禅僧(雲水:うんすい)たちがまず徹底して学ぶことは「自己を知ること」と出てきて、おおっ「夢で先に見ていたのかな」と、導かれている感じが高まり、集中して見始めた。
 
まずは己を知り尽くすこと・・そこに立ててようやく、禅の修行者として歩み始める。己を知り、不要なもの(煩悩)をそぎ落としつづける。やがて自己そのものを捨て去ることで、解脱・悟りへ向かう。・・と、他の仏教や神智学からしても、ヒーリングやニューエイジでも、当然のことなんだけど、改めてなぜかそのフレーズ「まずは己を知ることから・・」を、メッセージされた。
 
同時に、なぜ人間は「自分を知る」ことにそんなに長い行程や、迷いの日々が必要なのだろうかと、日頃思っていることでもあるので、改めて考えた。私自身は水瓶座か、第一光線か、単に過去生で(今世でも)修行をしてきている?からか、気が着いたら最初から「わかっていた」。自分の進む方向、やりたいこと、やらなくて良いこと、全てはっきりしていて、若い頃から迷わなかった。ただ、はっきりし過ぎていて、そうではない事柄との摩擦で苦しみはしたが・・・
 
雲水さんたちが厳しい修行の中で見つけていくのはもちろんそういう事ではなく、24時間の生活の全てに決められた厳しい作法があり、四季の移ろいで暑い・寒い、毎日の座禅が辛い事もあるだろうけど、その中で立ち上ってくる自我、感情や思考のゆらぎを通じて、「自分」つまり「自分の中にいかに迷いが隠れているか」を体験し、「己を知っていく」のだろう。
 
「自分探し」に何十年とかかっている人々も居る。同じパターンを繰り替えしているのに、そこから学んだ筈なのに、見ていて祝福と成長の道筋に乗れているのに、当人はあるものを「無い」と言い、盲目的にまたいつもと同じ行動をとって、乗れていた道筋を無駄にする。そんなことも少なくない。そんな人は、神智学に言う「グラマー」に染まっているから、言葉で止めることは出来ない。

 

人はなぜ、「自分」を知らないのか。

 
シュタイナー教育を見ているとなおさらそう思う。18歳で子供たちは、ある程度人として出来上がる。自分のことを知っているし、世界の中で自分をどう活かそうか、さて・・と、自然体で当然のように考えている。
 
ヒーラーをしてきて最大の疑問は、「変わればいいのになぜ人は変わらないのか」「なぜ道を示されているのに、歩みはじめて手応えを掴んでいるのに、また堕ちていくのか」ひいては、この世の仕組みの中で、人の心・意識はなんと弱いのだろうか、と。傲慢さ、頑固さ、愚かさ、甘さなどから、人は成長していく(現実を改善していく)道からわざと自分を逸らす。・・・けれど、それが自分で分からないから、長引く。
 
お寺の厳しい修行の中で、自分の傲慢さ、頑固さ、愚かさ、甘さなどに気づいていき、それを超えていくという仕組みなのだろう。つまり、甘い環境の中で生きていると、自分を見つけることさえ出来ないのかもしれず。歴史的にも、豊かになりすぎると人心は腐敗し国は滅びに向かう。ただ、甘い環境にいる(自分を甘やかしている)人が、「自分は厳しい状況にいる」と思い込んでいるケースも多く、それでは抜け出せないよなあ。。。という感じだ。
 
 永平寺は厳しい修行寺として知られている。世界中にファンが居て、サテライトのお寺も海外にあるらしい。道元は中国に留学した折、どんな深淵な教えと修行が待っているのだろうかと思っていたところ、生活そのものが全て禅である、修行である、という考え方を学び、体験し、二年ほどの留学期間に「心身脱落」(解脱・悟り)に至り、帰国。もとは京都の公家の生まれで比叡山に籍を置いていたが、あえて北陸、福井に大本山として永平寺を開き、曹洞宗の宗祖となった。
 
日本の仏教史、そしてインドでの発祥から全体の仏教史と、二度、学ぶ機会があった中から、少々、予備知識をご紹介。
 
インドには無かった禅宗は中国で生まれ、五家七宗に分かれ、そのうち臨済宗曹洞宗が日本に入っている。禅における思想的な軸は「ありのままを受け入れる」か「ありのままを超えていくか」の解釈であり、考え方の違いにより宗派が分かれていったそう。また「ありのまま」の本来性をどこに求めるか、の解釈にも相違が生まれ、人間としての「あるがまま」を自己とするか、別次元の(魂?)自己をそれをするか、により系統が分かれたりと。
 
そのような伝統を受けて、道元は自ら新しい哲学を打ち立てる気迫で、仏典、釈迦の伝承や言葉を自ら改めて解釈しなおし、既存の禅を否定しつつ独自の思想体系を構築していったようだ。大著書「正法眼蔵」の世界観は凡人には理解しがたく難解。言葉遊びをしているようで、落ちがあるのか無いのかも分からないようで、結局何か言いたいのか、特に何も言う気はないのか・・それが落ちなのか。という感じ。
 
以前、ちらっと読んだ時は「ああ、ダメだわ。合わないわ。」と、自分の好みではないと決めてしまっていた。けれど今回、「永平寺」をふむふむと見終わった私にNHKさんは「関連番組」として「100分で名著」の『正法眼蔵』を進めて来た。分かり易く解説してくれる同番組なら、何か新境地を感じれるだろうか?と、見てみることに。要点と、興味深かったことを以下にざざっと。解説者ゲスト、ひろさちやさんのお言葉を中心に。
 
自我を捨てるのが悟りだが、「悟りたい」と思うのは自我であるから邪心である。(から悟れない)
→ほんとにその通りだ。悟りとは、自然と至るものであらう。
 
本当は既に悟りの世界(全宇宙)に生きているのに、迷うのが人間。
とにかくは歩み始めることだ。そうすれば、自然と次の道が見つかる。
→その通り。いつもうちのクライアントさん、生徒さんたちに言いたい「始める前から心配しないで。とにかく始めないと。」
 
迷うことは道元は一切否定していない。しっかり深く迷いなさい。そうすればいつか抜けられるから。
→これも本当にその通り。そこに真剣さが必要で、深く生きるということだろう。迷いを打ち消すことは出来ない。とことん迷って、ナチュラルな責任意識とともにそこから抜ければいい。
 
「悪を行うなかれ」ではなく、日々の修行生活をしっかり生きていると、自然と「悪など行えなくなる」
→これもよく分かる。きちっとした身のこなし、清潔さを保つ、無駄をせず食す、などの厳しい規律の中で生きていると、波動が高まるのだろう。そうなると、波動の低いもの、低い思考や感情は抱けなくなる。これはヒーラーとしての生活からよく実感できる。
 
「あるがまま」を肯定する禅の一つであるし、何に対しても結論づけるのではなく、あらゆるものが、世界そのものが既に仏であるとし、悟りは向こうからいつかやってくる、と説いている道元はいわゆる「他力(たりき)」の教えであると誤解されることもあるそうだ。けれど解説のひろさちや氏いわく、ヒンドゥーの喩え話を使って、
 
サルの親子。子ザルは、母ザルのお腹に自分でエイっとしがみつき、自力でぶら下がっていなくてはならない。母ザルが運んでくれるとは言え、これは自力である。一方で、ネコは他力。子ネコは母に咥えられ、運んでもらう。子ネコ自身は何もしなくても安全な場所へ運んでもらえる。
 
道元の教えは前者、サルの「自力」であるという。運んでくれるのは仏。けれど、仏を信じるという努力が、自分サイドで必要である。
→これも全く強く同感で、いつも皆さんに言って来たことでもある。高次が運んでくれる流れがある。常にその流れを感じれるように。そうすれば乗っていくだけだから、と。
 
・・・でも、どうして流れに乗れない、というか流れさえ見つけられない人々が居るのだろう?というのが、私の疑問でもあった。冒頭に書いていたこととも重なるが・・エネルギーワークや、瞑想や、ヨガでも他の何かでもいい、学びは全て同じだが、何か新たな「良きもの」と出会えば、学ぶ意思があれば、自分が「変わらない筈はない」というのが、自分の自然な感覚だった。逆に「変われずに居られる筈がない」と。
 
まして、ヒーリングやエナジーワークでエネルギー層に働きかけるなら尚更のこと。セッションや伝授を受けて、「分からない」「変わっているのか?」と疑問を口にする人が、ごく稀だけれど居る。一方で、スイスイとひとつひとつを理解して、進んであっという間に成長する人たちも居る。怠慢さや、信じる気持ちの欠如からちゃんと活かそうと努力していないから、という単純な理由もあるかもしれないが、もっと掘り下げれば、シャドウセルフや周囲のエネルギーなどから、変わっていけない仕組みが隠れている、と、解釈することもできる。そこには、適切な処方も必要だろう。けれどやはり、当人の「変わりたい」という強い意思、信念がなければ何も根付いていかない。(ヒーリングも「他力」ではないのだ)
 
昨日もちょうど、生徒さんたちとセミナーでそのような会話をしていた。永平寺の特番を見ていたのは一昨日だが、昨日あらためて大きな疑問、問題意識を抱えて帰って来たところ、「100分で」を見て、その子ザルの比喩が本当に、ピッタリだと感じた。
 
「自分は最初から仏の世界に存在している、仏の子である」と信じなさいと道元は言っている。苦しむ時も、迷う時も、それはそれで良し。いつか仏が、悟りが、迎えに来ると信じてしっかり苦しみなさい、迷いなさい。けれど・・・「信じる」「信じ続けるという努力」は、自力で、自己責任で、われわれサイドに欠かせないもの、ということ。
 
ヒーリング、エネルギーワークも全く同じだ。
 
以前から何度も、同じようなことをブログに書いてきた。「信じる力があるかどうか」・・・もし私に、ヒーラーとして何か才能があるとしたら、それくらいだろう、と。あとは高次がうまく運んでくれる。それを信じて、アルファ波的なリラックス状態でクライアントの横に座っている。自分からガザガザと考えたり、セッションをうまく運ぼうとは考えず、無欲で。
 
それが中々、人々に通じなかった。みんな心配し、うまく出来るのか、これでやれるのかと呟く。5年、10年と学んできた人でも、強い恐れが発動し逃げるように去っていく姿も。「信じるという才能」が、ヒーラーには必要なのだ。
 
・・・と、自分には合わないと思っていた道元さん。急に親しみが、そしてもちろんレスペクトが湧いてきて、「100分で」を全部(4回で100分)見ることに(笑)した。
 
天才肌だったのでしょう、一般的な仏教における解釈とは違う論を、新たに展開したという特徴もあるよう。そうそう、当時は平安末期からの末法思想の蔓延で、人々は若干パニック。天災や戦乱などにおびえる民衆はいよいよ末法の到来だと、大いに恐れていた。そんな大衆の処方箋として、現世ではなく死後の阿弥陀浄土へ行けるように阿弥陀様を信仰しようという浄土宗、浄土真宗が大衆レベルでウケた。
 
同時に、都と幕府の対立の中で権力者たちは加持祈祷を行う密教系の僧侶を重用した。どちらも、仏の真の教えからかけ離れているとして、道元は危機感を感じていた。ブッダの教えを改めて提示し、本来の仏法を教え、残さなくては・・そこに、使命感を感じたよう。禅宗や、曹洞宗であるというアイデンティティにこだわるよりも。
 
そうそう、仏教の勉強を趣味でして来た者として、番組を見ている途中で、これは原始仏教、つまりシャカ自身の哲学に近いのでは?と思っていた。法華経華厳経含め、いわゆる大乗仏教はシャカの死後数百年を経て生まれた新しい潮流で、それぞれなんらかの土壌を持ち、なんらかのニーズに応えるものとして生まれていた。シャカの本来の仏教ではない、とさえ言われることがある。
 
一人の人間として自分を徹底的に見つめ、自己を乗り越えて自らの中に悟りを引き寄せ解脱する。密教のようなマジカルなパフォーマンス、華厳のような絢爛豪華な世界観は無い。
 
なぜ、道元が京都を離れて福井県の山深い地に永平寺を開いたのか。については、諸説あるそうだが、ひろさちや氏の解釈では、
 
「プロフェッショナルな仏教者」「本物の修行者」としての弟子たちを育てるために、隔離された場所で、少数精鋭を純粋培養しようとしたのだろう、と。
 
本物の、プロフェッショナルな者たちを育てようとした。
 
世間で横行している、権力(ビジネス)に媚びた仏教ではなく、大衆受けするための教義ではなく(けれど浄土宗や日蓮宗などは、当時の不安を抱えた力のない一般の人々の助けになったことと個人的には思っている)、
 
ブッダの真の教えを再現し、それを純粋なまま実践篇で体現していく修行者を育てていくための、指南書「正法眼蔵」、そして修行場の永平寺
 
急に道元さんが、他人とは思えなくなって来た(笑・分かる人にだけ分かるところ)。
 
そして800年もの間受け継がれ、今では世界から注目される存在となっている。
 
いつの世も、思想やスピリチュアリティにおいて、起きることは同じだと今回もまた改めて深く感じ入った。同時に、二日前の目覚めの瞬間に響いたフレーズからのこの流れは、メッセージでもあり、シンクロニシティでもあり、ガイダンスでもあったのだと感じた。
 
感謝。
 
Love and Gratitude,
Amari
P.S. 生徒さん向け、アップデートブログも本日、更新しています。

『Arrival』『Big Eyes』から考える「孤独」と「共依存」

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以前から憧れていた「男気のある」「東洋好きなイギリス人の」??書斎風の仕事部屋を目指している(笑)、移転後のアルガンザの八王子オフィス。理想に近づくにはまだまだ重厚感が足りないけれど、この冬は本棚を増やして、さらに書斎らしさを出したいところ。以前のオフィス「ブルーム」からのイギリス製のブックケース(写真)は、神智学系の書籍と、これまでのアルガンザの記録、歴代カレッジのテキストなどを収めて。

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7月に、リリースされたDVDで映画『ARRIVAL』(邦題は『メッセージ』)を見て、すぐにここで記事を書こうかなと思ったまま、なんと5ヶ月。7年弱営んだ横浜のサロンを閉めるにあたってのキッカケの波が、ちょうど7月には来始めていて、淡々と、ではあったけれどそういえば、思想的に何かを噛みしめるゆとりの無い、この5ヶ月だったのかもしれない。現実世界とエネルギー次元とで、日々を創造したり、波乗りしたり、切り抜けたり、考えて行動して、終えて、また次・・という具合に。ただ、思えば「時間」をテーマにしているこの映画を鑑賞して後味が強く残った7月からの日々は、自分自身の「時間」のテーマに向かっていたのかもしれず、なにか連動するものも感じられる。

さて、この作品は「時間」と「意識」を主題にしている。アカデミー賞の作品賞・監督賞などを取っているそうなので、見た人も多いと思うが・・自分なりに紹介したいと思う。フランス系カナダ人のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品。巨大な卵型の岩の塊のような宇宙船が世界各地に飛来。その主である知的生命体を研究チームは「ヘプタポッド」(7本指)と名付けた。ヒトデのような巨大な触手に7本の指、壁のように立ちはだかる数メートルサイズ、つるんと頭だけがあるような姿をしたエイリアン。足や、首や、顔のパーツなどはなさそうで、ヒューマノイドと言えるのかどうか。。

世界12箇所のうち、アメリカは長閑なモンタナ州にUFOが来ていた。軍事基地さながらの現地のキャンプには、CIAや軍の男性たちが行き交う。そんな「現場」に呼び出されたのが、女性言語学者のルイーズ。エイミー・アダムズが演じている女性博士ルイーズは、学者らしく理性的でクールな大学教師という風情で登場する。ニュースを聞いて大学のキャンパスが若干パニックになっていても、ひとりでかなり落ち着いている。翌日も、普通に大学に出勤しているというマイペースな様子に、凡人とは違う突き抜けた知識人としての人間性を、映画の冒頭で示される。

結論に先に飛ぶと・・・宇宙人たちは地球人に対して、「武器を与えにやってきた」。その武器とは、「人類を助けるため」の武器であり、「未来を開く」もの。何かというと、このヘプタポッドたちの「言語」がその武器であり、与えられたものは彼らと同じように時間を直線的なものではないように考え、感じるという「高い意識」を得られるという。それが、宇宙人たちからの「メッセージ」であり、地球に到来した理由だった。

さらに奥にある背景として、彼らの言語を解読しコミュニケーションがとれるようになったルイーズにエイリアンの一人は「3000年後に人類の助けが必要」だから・・(人類を助けておくのだ)と、伝えて来た。ということは、彼らが与える「武器」=多次元的にものを見れる意識 がなければ、人類は分裂して争い、3000年後に存在していないという未来を、彼らの非直線的な時間感覚が捉えているから、という事なのだろう。

言語コミュニケーションがとれない宇宙人を相手に、ルイーズは言語学者として、彼らに自分たちの言葉を教えることから始める、という手法を取った。それが功を奏した訳だが、彼らから戻って来るのは巨大なヒトデのような触手の中心から吐き出されるスミ?が空間に繰り出す、筆で描いたような表意文字(ロゴグラム)で、言葉を話すことでのコミュニケーションは成立しない。

けれど、例えば日本人と中国人が漢字の筆談でコミュニケート出来るのと似ているが、彼らの表意文字がパーツごとに何を意味しているかを解析・解読し、各国が連携しながら研究を進めるうちに「会話」が成り立つようになっていく。

この、中国風?の書で描いたマルをモチーフにしたような独特のロゴグラムこそが、彼らの言語が直線的、つまり時系列に左から右へ、上から下へ読むのではないという、多次元意識の表れと言えるだろう。映画の中でも触れられていたが「サピア=ウオーフ仮説」という学説(「言語相対性仮説」)があり、人間の思考(脳)は話す言語によって形成される、という。・・これは体感として理解できる。英語圏に行って英語で話すことに慣れて来ると、明らかに日本に居る自分とは人格が変わるものだ。エイリアンの多次元的な言語を授けられれば、人類の意識が多次元性を搭載するようになる、ということ。

ルイーズは最前線で、彼らと交流していることから、文字だけではなく時にテレパシーや、エネルギーの波長のようなものも受け取っている。ゆえに映画が進行していくにつれて、過去のフラッシュバックを見るように、切れ切れに未来を見るようになっていく。その現場で同じく解読にあたっている数学者のイアンと結婚し娘をもうけ、しかし恐らく二人とも宇宙船内部で防護服を脱いで宇宙人に向かっていたせいだろう、生まれた娘は十代で(恐らく被曝による)癌で夭折しているという未来。そのプロセスで夫は娘の病気が原因で去っていくという未来も。

混乱しながらも、なんとか彼らと人類の間を取り継ごうとするが、「武器を与える」という地球に来た目的を誤解した地球人たちは、地球人同士を分裂させて争わせ、地球を征服しようとしていると判断。各国でUFOへの武力行使を宣言する動きへ。

具体的な方法は割愛するけれど、ルイーズが、自らに起こり始めていたその「未来を覗く」という方法で、他国の武力行使を止め、世界をひとつにすることに成功する。

一年半後の近い未来に、『ユニバーサル(宇宙的)言語』という研究書を出版し、解読したヘプタポッドのロゴグラムについての研究を発表するらしい。本の冒頭には、その時すでに生まれているのか、更に未来に生まれる事がわかっているからか、「ハンナ(娘の名前)に捧ぐ」と書かれている。人類の意識を拓くために、言語を与えに来たエイリアンたちは、世界12箇所は何か理由があってチョイスしたに違いないが、人類の中で一人でも、彼らの意図を誤解せずに受け止め、更にそれを読み解き、人類に伝える者を探していたのだろうと思う。

映画の途中では、軍人たちやマスコミ、世間が騒ぎ出し、恐れをなした若い軍人が単独でUFOに攻撃したり、中国の首席は彼らを征服者とみなしいち早く軍事行動に出ようとする。男性研究者でも現場での仕事に耐えきれず倒れたり、世界中の人間たちが「恐れ」からの思い込み・誤解で高次からの彼らのメッセージを無駄にしようとする中で、なぜ、ルイーズは彼らに対応できたのか。なぜ、ルイーズなら大丈夫だったのだろう・・という点を、考えながら見ていた。

女性だったから・・とも言えるかもしれない。ただ、普通の女性ではもちろんダメだ。並の男性たちよりも精神が強く落ち着いていて、理性的で、知性が深く・・・それでいて、女性的な感性と母性を使い、未知の宇宙人であっても、言語学者として未開の民族に対峙してきた時と同じように、相手に近づこうとハートで動いた。宇宙船の中で防護服を脱ぐという行為も、駆られるようにやっていて、後のこと、自らの身の安全のことなど考えていない。徹底した研究者・専門家意識と、男性性の美点、女性性の美点を兼ね備えた人であると言える。

この映画の最後の10分は、理由も分からず嗚咽するほど泣き通して見ていた私だったが、その理由についてもしばらく考えさせられた。

ルイーズの手腕で、中国軍のUFOへの攻撃をなんとか止める事が出来たが、UFOも地球から一斉に離陸し始め、地上でも、現場の基地を撤収するため全員が引き揚げるという流れの中で、ルイーズはますます鮮明に、これから生まれる愛くるしい娘の姿、成長していく中でのたくさんの思い出、そして別れ・・・の場面を見ている。

そこに、娘の父親となるイアンが横から言葉をかける。

「(学者として)ずっと宇宙に憧れて来たけど、ここでの一番の出会いは彼らじゃない。君だよ。」「子供を作ろうか。」

つまりプロポーズする訳だけど、そこでまたルイーズの頭の中では、娘ハンナの生い立ちが早まわしで流れる。たくさんの、喜びに溢れた親子・家族の場面だった。そこでルイーズは答える。「Yes」

映画の冒頭も、最後も、ルイーズの、娘ハンナにあてた言葉で始まり、終わる。この映画自体が、時間軸を超えたような作りにもなっている。最後まで見るとやっと、冒頭でのナレーションの意味が理解できる。

なぜ、初めてこの映画を見た時に、あれほど泣けたのだろう?

自己分析して思ったのは、ルイーズはやはり並みの人ではなく、それゆえに体験した彼らとのコミュニケーションを通じて、さらに一人、神のような視点を持つという孤独に立った。知性と母性で、娘に語りかける言葉は人を超えた領域からの呟きのようにも聞こえる。夫イアンは、恐らく未来のどこかで、娘が病気になるという話をルイーズから聞かされて、耐えきれずに離婚をする。・・ルイーズは、「基地」ですでに全てを見ていながら、イアンと結婚し娘をもうけ、成長を見つめ、そして見送るという覚悟を決めて、プロポーズを受けている。

そんな、ルイーズの非凡な心の強さが、私は哀しかったのだろうと、気づいた。

どこまで行っても孤独。

そして時に、非難される。夫イアンはきっと、彼女の強さに反発を覚えたのだろう。こんな悲しい事、自分は耐えられない。そう思って、ルイーズと娘との家庭から逃げたのだろうし、ルイーズを「こうと分かっていながら子供を作るなんて」と責めたのだろうと想像される。その辺りは映画では描かれないが、きっとそうなのだろう。

揺らぐこの世界では、常に感情の誘惑がやってくる。最初にUFOが来たとニュースで聞いてパニックになる人、学者として基地に向かいながらも仕事できずに倒れていく人、宇宙人を前にして怯んでしまう軍人、心配する妻のために基地から逃げ出したい人、そして征服されるのを恐れて攻撃しようと決める国家元首。・・そんな人々の「恐れる姿」が横行する中、ルイーズは淡々と仕事を続ける。この任務においてはルイーズのよき相棒、理解者であったイアンも、彼女が成し遂げた更なる女性としての強さ(死すべき命だと知りながら子供を産んだこと)には、同調できずに脱落していった。

そして「残る」のは、いつも、どこまでも強いルイーズ一人だった。夭折する娘を一人、病院で見送る彼女。知っていたとは言え、哀しくない訳ではない。それを一人で受け止めていく。感情が無いわけではない。ただ、そこに落ちないでい続けることが出来る人の強さは、時に、多くの感情に揺らぐ人々の目には、冷たい人や理解できない人として映るものだ。しかし真実はそうではない。誰よりも愛、本物の愛が深いからこそ、感情に動かされない善なる選択をしていく。流されずに壁を乗り越えたというのに、むしろ非難され誤解される。・・・そんな事も承知、そこで傷つくこともない高い知性と理性、母性。

そんな彼女の姿に、淡々とした映画の語りに、泣けたのだと分かった。非凡な心の強さ、善の強さを持つ人々の人生に、よく現れるモチーフであるし、英雄的な人々の意識であり、時にそれは人間社会において犠牲となり得る。それでもこういう人々は、何度生まれ変わっても同じようにするのだということも感じる。それは菩薩道であり、完全に感情的な幻想世界を超えている精神だと言える。

もうひとつ・・映画の後味として考えたことは、

そんなルイーズだったからこそ、彼らの「言語」を受け取り、変容が起こるもそれを自らの中に統合できたのであって、もし、そんな風に未来が切れ切れに見えるという変化が、他の人々に起きたとしても、ただ混乱してむしろ、壊れていくのではないだろうか。彼女が出版した本が、それゆえに最後に少し気になった。。特定の周波数を持つ人じゃないと、変化変容が起きない、という仕組みがあの言語にコード化されているほうが、安全だろうな、と。 

映像も非常に美しいので、予告編も宜しければぜひ見てみて・・但し、やはりよくあるように、予告編の作り方がちょっと・・本来の作品の持つ味やテーマから外れている気はする。邦題の「メッセージ」も同じく残念な感じがする。

今回もエイミー・アダムスの演技力に深く引き込まれた訳だけれど、我が家には彼女の主演作・助演作がいくつかある。

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左から、彼女の出世作と言えるディズニーの半実写半アニメ作品『魔法にかけられて』、実話の映画化・メリル・ストリープと見事に演じ合った『ジュリー&ジュリア』、同じくメリル・ストリープ他演技派4名の密室劇の一役を担った『ダウト』。

このうち、『魔法にかけられて』と『ジュリー&ジュリア』は過去にもブログで取り上げたことがある。『ダウト』はアルガンザのマスタークラス「星巫女プロ専科」の映画分析で題材にしたことも。他にも話題作に続々と出演しているエイミー。最初に彼女を見た『魔法にかけられて』のプリンセス役は本当に素敵だった・・まさにディズニー・プリンセス、の風情を楽しく可愛く演じていて。。ディズニーの中では最高レベルの映画ではないかと個人的には評価。二次元と三次元を足して五次元、みたいな奥深さも感じる。意識の持ちようでどんな世界でもファンタジー・・という、ディズニーの精神が教科書のように分かりやすい。

エイミーの演じる女性は心の清らかさ、純粋さが際立つものが多い。そこに『Arrival』では徹底した知性・理性が加わっている感じ。制作側にとってルイーズ役の第一候補はダメ元でエイミーだったとか。本人は育児に専念しようと思っていたところにオファーが来て、脚本を読んで了解したと語っている。これまで見た彼女の主演作品の中で一番、英雄的なキャラクターと思う。『ジュリー&ジュリア』はメリル・ストリープのいつもながらの存在感、演技力も素晴らしく、おすすめの作品だ。

これを機に・・と、さらにもうひとつ彼女の主演映画を見てみた先日。

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『ビッグアイズ』。60年代アメリカでブームになったという「ビッグアイズ」と呼ばれた絵画。その作者であるウオルター・キーンは人気を博す、が、実はその絵を描いていたのは妻だったという実話に基づく映画。営業力と口のうまさで絵を売り込み出世していく夫は享楽的な生活をし、妻は我が子にすら秘密で部屋に閉じこもり絵を描き続ける。そんないびつな生活が10年続くうちに、すっかり「もうかって」豪邸に住むほどになっていた。

内気で夫の言いなりに、日陰の存在として描きつづける妻マーガレット。連れ子だった娘とともにハワイへ逃亡し、そこで(きっと実話なのでしょう)「エホバの証人」の信仰者たちに出会い、夫に奪われていた自分の力と尊厳を取り戻していく。カルト教団に洗脳された人々が、キリスト教の聖職者の方のサポートを受けてリハビリしていくという話がよくあるが、それと似ているなと思った。実際、夫による人権侵害を許していたのだから、洗脳と同じような仕組みが起きていたのだろう。

ネットで見たレビューの中に、「監督はマーガレットよりも、人としてどうしようもないダメな夫であるウオルターに愛の眼差しを持っているのでは」と言っている人もいたが、私はそうは感じなかった。が、ティム・バートン監督なので、真意は読みにくいが。。。

きっとこういう話って、女性の権利が弱かった時代にはたくさんあっただろう。これからは男女関係なくなるかもしれないが。おかしいな、と相手のやり方に本能的に不信感を抱くことがあっても、特に夫婦であると、生理学的にも女性にとっては、男性のアストラルエネルギーには負かされてしまうことも多い。出力の強さから言って、アストラル体の力はやはり、女性よりは男性、そして感情的な人ほど強いものだ。社会的に女性が弱い立場であればなおさらに。

とは言え、「Arrival」のルイーズのように、アストラルよりもメンタルフォースで生きているような女性ならば、搾取されるようなことにはならない訳だけれど、この大きな瞳のこどもたちは、マーガレット自身のインナーチャイルドなのだろうなと思われるから、恐らく、「強い力によって抑圧される自分」という型を持っていたための、共依存的な夫婦関係だったのだろうと思う。

最後、連れ子である娘が年頃になり、大人の女性二人として手をとりあい、夫から逃げてハワイへ。そして法廷で勝利するという流れに、マーガレットに感情移入する人々はホっとするし、爽やかに見終えることが出来るだろう。他者から見れば、なぜ10年も夫のいいなりになっていたのか?と思ってしまうけれど、人間同士の関係はほとんど全てが共依存であり、自分の中の弱さの投影に、強者としてそれを支配する人を必要としたりする。自分なんて価値がないと思い込んでしまうと、何か少しでも自分をとりたててくれる人の存在を、(実は搾取されているにも拘らず)ありがたく思ってしまったり・・・人間模様は様々だ。

誰もがルイーズのように自己完結していない。

が、自己完結するということは、共依存の投影が要らないのだから、神のような永遠の孤独の中に座することになる。

しかし、孤独 aloneness と寂しさ lonlyness は違う。aloneness は独尊に通じる。他者によって自分を満たす必要が無いという状態からしか、ワンネスや覚醒やニルヴァーナは生まれない。そこに近道はなく、創造主のような孤独の疑似体験に身を浸すからこそ、多次元意識が拓けていく。そうなると、世界の主としてたった一人で現実界を創造している自分の中に、すでに全ての生命や現象があり、その中の全てに同じ意識が宿ることが、体験として理解される。「孤独」の意味もなくなる。

最後に、

『Arrival』に関してもうひとつだけ。

未来を見る・・と言っても、固定された未来は無いと個人的には考える。ゆえに、未来の様々な可能性が見える、という解釈で映画を見ていればいいのかな。様々な可能性の未来が生まれては消えていくのは、今この場で、何を選択するかで未来が変わり続けるからだ。そうなると、やはり、未来から現在を見るのではなく、現在から未来を作る、という感覚のほうが自分の中では自然だ。もしかするとそこは、監督ないし原作者と、思想的に違っているのかもしれないと感じた。

決まっている未来は無い。

だからこそ、常に、出会いたい未来に向けて「今」の生き様、「今」のエネルギーを作っていよう・・というほうが、自分としてはより重要な「メッセージ」だと考える。

Love and Grace,

良いお年を。

窓のないモナド・インドラの網

 

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(私物)ドラゴングラスと私は呼んでいたもの。今では違う名前で他の方が扱っているけれど、2009年だったか、ある石が欲しくて探し回り、英語サイトを探して探して・・とやっているうちに見つけたアメリカ人女性のショップ。日本人初の小売店として彼女から卸してもらっていた石たちは、独特の活気があって素敵だった。

私のほうでは周波数帯のような部分で時期が終わったかなと感じて、取り扱いを辞めたけど・・ちょうど時を同じくして、私のサイトで見たのをキッカケに日本の方が彼女を探し当てたとのことで、日本には引き続き入る道が出来た。

この「グラス」ではないが、カレッジでも教材として毎年使っていたので、うちの生徒さんたちが毎年、そちらのショップにその時期になると買いに行くという現象が続いた(笑)。そんな風に、当人たちは無意識でも、常に必要なことは移り変わり引き継がれ、この世界に途切れることなく、別次元からの波長が届くようになっている。

そのアメリカの方が、ドラゴンシリーズの販売をスタートし始めたまさにその時を見ていたので、なにしろ初期の初期。こちらのグラスもリュミエールやブログから販売しつつ、「社長特権」で自分用に取り置いたのは、なかなか大きくて、美人たちなのである。今、身辺整理のモードに入っていて、リュミエールではビーズのストックからのブレス群につづき、私物や、最後の石巫女での登場を終えたサロンの石たちを、Amari's コレクション、略して「Aコレ」として、出し始めたところだけど・・・・・

このグラスたちは、今のところは・・・・売りませんっっ(笑) 最小限、記念になるものは残しておかねば。。

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華厳経(けごんきょう)はモナドロジー、ライプニッツだ」と教わって、こわごわとライプニッツ、「モナドロジー」を覗いてみた。法華経とは違い、確かに華厳経は何か冴えたビビっと刺さるようなものがある。法華経が女性的なブッディ・モードだとすると、華厳思想は男性的なアートマだろうか。量子物理学と華厳哲学の一致に、知的な人々も注目しているらしい。

法華経は「この法華経って本っ当にすごいんだから。ねえ、試してみて。ぜったい凄いから。。」と言い続けているような内容。一方で華厳は、世界観をぐぐっと全宇宙に広げて、盧舎那仏アートマンブラフマンつまり宇宙の源という説もある)という究極の如来(仏)を世界の中心に据えつつ、最小の微粒子の中にもその仏国土が無数に入っているのだ・・とか、大と小という対象も、全と一という対象も、有と無、有限と無限など、あらゆる相反するものが、本来はすべて矛盾しないと説く。「あらゆる矛盾律の超越」という一大テーマを掲げる。

時間の過去も未来も無い、とさえ言う。すべてのものが、関わりあい、干渉し合いながら存在している。が、主体と客体など無く、互いは溶け合い、含みあっている、という。まさに、量子物理学で分かって来ている宇宙や万物の仕組みを語っているかのよう。それはインド哲学という、そもそもの秀でた哲学的伝統を受けているから、でもあるけれど。華厳思想という形で新たに整理されたことにより、宇宙のフラクタル構造がヴィジュアル化され、密教曼荼羅宇宙はここから派生していった。

民衆化・一般化されることでバラエティに富む楽しい世界になっていったような密教の印象に比べて、華厳宗はハイソな貴族的僧侶であった哲学者たちの領域として、守られたイメージがある。日本での総本山はなにしろ奈良の東大寺である。民衆化することなく、学問寺であった。今でも、檀家や信者などが存在しないため、拝観料で維持されているという独特の存在感。(東大寺は昔から好きで仕方ない。。また別の機会に書こうと思う)

そうそう、モナドロジー。神智学で採用された「モナド」は、ニューエイジでも継承され、私たちの魂のもっとも原初的な、創造主から分岐した「個」を表す言葉になっている。もともとは哲学用語で「単子」、ギリシャ語の「モナス」「モノス」に由来する。このモナドは、二つとして同じものはない。そして全てが内的に作用し、外部からの影響を受けることはない、という。ライプニッツは「窓のないモナド」と表現していて、つまり(右脳な私が物凄く飛躍的に解釈するに)他者によって何かされてこうなる、というような因果律ではなく、すべて、モナド自身が外部の世界を生み出している、という意味。。?

その理論(モナドロジー)が、華厳経で繰り返し出てくる「すべてが繋がりあっている」「心(意識)が世界を生み出している」に通じるという。窓がないから、モナドのレベルだと互いに外的に影響を与えるということはない。しかし、全てのモナドは響き合い、互いの情報を内包しあっているという。まさに量子物理学。

そんな、モナドロジーな華厳思想はしばしば、「インドラの網」に喩えられる。インドの神様インドラは、日本で言う帝釈天のこと。そのインドラ神をまつった寺院(神殿)に飾られる装飾の網のようなものであると言う。画像を検索して見てみると、同じパーツが無数に、網のような装飾でつながっている、天井から吊り下げるような、金属の暖簾(のれん)のようなもの。

ヴィジュアル派としては、モナドロジー=華厳思想を、このインドラ網をじっと見ることで理解しようと試みた。

すべての単一存在が、繋がりあっている。これはワンネス思想でおなじみ。もちろんアニミズム(自然崇拝)においても。

けれど、外的な影響を与え合うことはない。全てが内部で起きる。そして、合わせ鏡のようなインドラ網のようなフラクタル構造が、その、全てで起きたことを互いに記録し、含有し、ともに微細な変化を常に受け取っていく。

外的な影響を互いに与え合うと思い込んでいるのは、この物質界、三次元だ。けれどそうではないという、インドラ網のネットワークですべての情報も過去も未来も共有し含み合い、一斉に変化を伝播させていくというのは、魂の世界。あるいは量子物理学で見えてきた宇宙のエネルギー領域。

外部からの影響や相互作用など、本来は存在しない。幻想である。個々の意識、モナドが個性を帯びた情報から、外部に映し出している世界。その投影された現象・幻影同士が、影響を(エネルギー次元まで)刻むことで結果が現れるのではない。個の中で起きた変化が、映し出される世界の映像を、変えていく。。。そして個に起きた変化は、ほかのモナドすべてにも情報として内包されていくのだ。

ニューエイジスピリチュアリティでも、よく言われることでもある。

そして、華厳哲学の真髄は、毛穴の中に宇宙がいくつも展開される、というような矛盾律の超越であり、それを理解できないと、他者を悟りに導くことは出来ないという。そもそもが、幻影である世界の想念に取り込まれていると、魂の回帰への道は前に進まない。堂々巡り。私たち人間の意識・心がそもそも幻影的に動くメカニズムなのだから、宇宙のエネルギー法則が矛盾しているように「見えてしまう」。

三次元の幻影的な思考メカニズムで、「矛盾してるじゃない」と決めつけてジャッジしてしまう。エネルギー視点で三次元を生きていこうとすると、幻影の枠の中で思考する世界の内では、しばしば路頭に迷う。天才の中の天才と言われたライプニッツも、晩年は寂しく苦しい人生であったという。それでも、天才たちはまた、降りて来てくれる。これを仏教的には、「菩薩道」というのだろう。

一切衆生(すべての人間、すべてのソウル)がこの次元の幻想世界から抜け出せるまで、人間界に生まれたり、インスピレーションを与えたり、なんらかの「任務」についたりして、菩薩「ボーディサットヴァ」たちは諦めることなく働いているという。華厳経でも、他の大乗仏教と同じく菩薩行に重点が置かれ、菩薩たち(つまりライトワーカーだ)のやるべきこと、なされるべき修行や境地について、提示している。そこが(具体的なメソッドが提示されない)法華経とは違う点で。女性や就学の機会の無い民衆向けの法華経、知識人や学者向けの華厳経、という感じで発生したのかもしれない。。

宮澤賢治が「インドラの網」という物語を書いているそうだ。ちなみに彼は法華経信者だったが。。

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人間の脳のつくりは、様々な分類を好む。そうでないと、この複雑で行きにくい物質界ではやっていけなかった故の、進化というか、退化というか。

矛盾律の超越・・・は、実は個人的にはいちばん、人間としてやってきて(?)他者との、つまり三次元的思考メカニズムとの共存の難しさを感じる点だった。つまり自分は超越OKというか、最初からそのフィルターが無いというか、過去生で大乗仏教インド哲学を修行していたのかもしれない。

エネルギー次元をベースにして魂システムと連動して感覚する、行動する、発言する、そこからズレたくない、を貫くと・・(他者の・世間の)三次元思考と感情の波に揉まれてしまうことになる。けれど、そうそう。これが菩薩道なのだと。。分かっているからまたやってしまう。ずっとそれでやっていく。

アルガンザのヒーラーズカレッジのテキスト冒頭で、フリーエネルギー研究家の飯島秀行先生の言葉を紹介している。

「自分は人間なのだ、と思っている人から、知恵は出ない」

知識とは物質だけれど、知恵は宇宙エネルギーである。アリス・ベイリー著でも、チベットマスターのジュワル・クールが同じことを言っている。

ヒーラーとして、「ライトワーカー」と自認・受容し活動してきて、同じフィールドにいる、あるいは目指している筈の人々でも、ほとんどが、自分が「人間である」と思っていることに、いつも不思議な驚きや時に失望を味わってきた。そのようなフィールドを学ぶ人、そこで仕事をする人は、飯島先生の言う「人間である」と思っていては、宇宙エネルギーの扱い手として機能しない、と思う。本当に。「魂である」=宇宙存在である、と自認するからこそ、宇宙エネルギーとともに仕事をしていけるし、真に人に変化を齎すことのできる波動が動くのだ。ちなみに誤解のないように、ここでいう「人間である」とは「肉体存在である(に過ぎない)」という意味。非人間的であれという意味ではない。念のため。

一応は、地上で生きているわけなので、100%が魂であれという訳にはいかない。けれど、ソウルセルフがエゴセルフを凌ぐだけのフォースを、繰り出せるようにしておかなくては。魂が、地上を体験しているという今の我々、人間の生存自体が、矛盾している。そこから拮抗、葛藤が生まれている。ゆえに世界が常に不安定で、人体には病気も発生する。

ライトワーカー、ヒーラーをしている人たちの中でも、「高次の言いなりになりたくない」「自分の領域は守らねば」というような言葉を聞くことがある。そこに私は違和感をずっと感じて来た。「高次」「高次」と表現していても、それは私たち自身である。自分の魂が、この三次元に降りて来てこれをやろうと、決めていることを進めていくわけだから、自分自身が魂主導で生きていれば、エゴセルフとソウルセルフはうまく融合し、「領域を守る」もなにもない。

立派なお仕事をされているライトワーカーの方の言葉でも、「乗っ取られないように高次にはちゃんと意思表示をした方がいい」というニュアンスを聞いたこともあるけれど・・それこそがある意味、二元的な考え方だと思う。「モナドロジー」的に言えば、外部からの力ではなく、内部から魂は活動している筈、というのが私の感覚。ただ、自分のソウルと、パーソナリティを融合させ、エゴセルフの抵抗を抑え、ソウルセルフと折り合いをつけて、時にエゴセルフの言い分も聞きつつ、本流はソウルという本来の自分に融けて回帰していく。それだけのことなのだ。(もちろん自分のハイヤーではない怪しいモノに乗っ取られてはいけませんが。。基本的なライトワーカーの仕事とは、自らのハイヤーシステムと連動するということだから)

色々なものを分類し、切り分けて考えて、変に自己防衛をしたり、他者批判をしたり、分離を起こしたりしていく。そもそもの意識に、差別(仏教用語としてはシャベツ)をたくさん張り巡らすために、自分の生きる現象世界が難しくなっていくのだ。上にあげた飯島先生は言う。「神一元。宇宙の仕組みはたったひとつ」

そのたったひとつで、受信し、咀嚼し、発信し、発言し続けていくことで、少なくとも自己矛盾は消えていく。葛藤せず、苦しみが生まれないモナドとして、存在できるようになる。が、その肯定では、「神一元」では動いていない雑多なエネルギーに揉まれてしまう。それでもめげずに進み続ける道が・・・菩薩道、菩薩行、といったところか。

今日はこのくらいで

Love and Grace,

Amari

日本列島の誕生・秘教的考察

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インド、ヒマラヤ、チベットのマスタークリスタルたち。(私物)

日本列島は、かつてはユーラシア大陸の一部であった・・古代史や考古学をやっていると自然と出会う情報ですが、頭に入れたのが20年前だったせいか、単に氷河期が終わって氷が溶けて、日本海が出来た・・とかつてはなんとなく思っていました。Amari's 小説の『ハピの巫女姫』(2003年執筆)においては、1万1千年前の天変地変・大洪水にて、日本が大陸から切り離されたということにしていて・・

近年の研究から次々と色々なことが分かって来て、そういう面からも時代の変わり目を感じています。不思議なほど、各ジャンルで画期的な新発見と発表が相次いでいるこの数年。

2016年春、1期目の石巫女アースワーク専科でも取り上げていたのですが、日本列島というのは非常に特殊な、面白い経緯で出来上がっているのです・・今年もまた石巫女クラスが進行中・・ということで、再び新旧の文献やメディアの資料などを覗いていました。一度、整理のために書いておこうと思います。

今年は地震、天変地変という側面でも注意が必要な時だと思うので、少しでも意識を向ける人が増えればいい。去年放送されたNHKの『ジオジャパン・奇跡の島はこうして生まれた』がヴィジュアル的にもお薦めなので、ご紹介します。気になる方はぜひ、オンデマンド等で見てみて下さい。

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『ジオ・ジャパン』での表現や学者の方のインタビューなどをお借りして、書いてみることに。。。日本列島の誕生は、遡ること3000万年前に始まる。神戸大学の乙藤教授の研究で、火成岩に含まれる鉄が示す磁気の測定から、西日本と東日本に、それぞれ逆向きの回転する力が加わって、大陸から引き離されたことが推測された。さらに、岐阜県ハバロフスクでそっくり、ほぼ同じ地層が発見されたこともあり、ユーラシア大陸と一連の部分であった日本が、大陸から、なんらかの理由で逆回転、いわば観音開きのように西日本と東日本が引きちぎられた事が分かった。

そんなことは世界でも稀で、他に例を見ないらしい。全世界には十数枚のプレート地殻がある中で、太平洋プレートはもっとも広大、それゆえに流動する成分が溜まって境界付近では100kmもの厚さになるという。その巨大で重たい海洋プレートが大陸プレート(ユーラシアプレート)の下に沈み込みを続けているうち、力の負荷から逆向きのマントル対流が生まれ、ユーラリア大陸のヘリがどんどん地下の力で引き伸ばされて、薄くなっていく。そして、ついに大陸本体から剥がれてしまった。。

3000万年前に生まれたその剥離の動きから、2500万年前には観音開きで西日本が時計回り、東日本が反時計回りに大陸からちぎれた。双方の間は離れていて、別々の島を呈していた。1500万年前に、ほぼ今の位置に落ち着いたらしい。たまたま地球最大の太平洋プレートに接していたため、ユーラシア大陸のヘリが裂けた。・・地球史上でも稀な、類を見ないことが起きた。

太平洋プレートの南には別の海洋プレート、フィリピン海プレートがあり、それが上方での3000〜1500万年前に起きていた動きにも影響を受けていた。1500万年前に、大陸から引きちぎられた「日本列島の元」が今の位置に定まると、それまで西方向に沈み込みを続けていたフィリピン海プレートの向きも変わり、北へと方向を変え始めた。そこには、一列に並んでいる海底火山の列があり、方向転換したプレートに運ばれる形でその火山群は次々と、東西に分かれていた日本列島の間を偶然、埋めるようにして、連続衝突していった。

一列に並んだ火山島が次々と衝突し、島と島の間の海峡を埋めて地続きにするという、地球史上他にないことが起きた。1500〜500万年前の出来事。

それにより、中部の山々(櫛形山地、御坂山地、丹沢山地)と伊豆半島ができ、それらの衝突運動でたまったマグマが噴出する形で、後に富士山もできた。

時を同じくして・・1500〜1400万年前の西日本では、同じく海洋プレートの沈み込みにより地下にたまったマグマが原因で、世界でも最大規模の超巨大カルデラ噴火が起きていた。それにより世界の気温が10度も下がるという影響力を持つほどの地変である。冷えて固まったマグマは紀伊半島の地下で、神奈川県サイズの巨大花崗岩となって今でも存在しているのだとか。。その一部が地殻変動で地上に出ることもあり、熊野地方には巨石が多く(!)、火山もないのに温泉がカルデラの噴火口そのままの半円状に点在しているという。

紀伊半島だけではなく、同じ頃に西日本でカルデラ噴火が多発していた。マグマだまりに地表が陥没→火山灰・マグマが噴出→冷えて巨石・巨岩となる→ 海底の花崗岩が(マントルの中では軽い成分のため)浮力により上昇、地表を押し上げた結果、山地ができる・・これによって、もとは平原だった西日本に山々が形成されたのだとか。

なぜ、このような地殻変動、マグマの運動が起きたのか? それは、上記の大陸から観音開きで引き裂かれて今の位置に落ち着いた西日本が、たまたま、高温のマグマを抱えたフィリピン海プレートの上に乗り上げてしまったから。

このあたりは地質学者の三浦大助氏の研究チームの研究によるもの。

そうして、山々がそびえる西日本が先に出来上がった。まだ半分が海の中に沈んでいた東日本は、300万年前に突然の隆起が起きる。房総半島の側で沈み込みを続けるフィリピン海プレートが、太平洋プレートとぶつかった為に方向を北西に変えた。それにより大陸プレート(北米プレート)を圧縮する形になり、結果、東日本の山脈が生まれたという。この東西圧縮の動きの最後の最後、房総半島が海から顔を出し、今の日本が完成。50万年前のこと。

ちなみに、今でも圧縮による隆起は続いているという。プレートが他のプレートにぶつかって方向を変えるというのは、地球史上、滅多に起こらないと、番組の解説をされていた火山学者、神戸大学の巽好幸教授。

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こうして文章に書き起こそうとすると、文系頭では思わずスピードがいつもよりも落ちてしまうのだけれど・・CGというヴィジュアルで解説して頂ける今の時代は便利。

駿河湾相模湾、そして熊野とその周辺の海底。房総、茨城沖など、ここ数年気になってきた場所には、プレートレベル、海底レベルで何かあるのだろうと思って来たけれど、熊野に実際に旅した時に感じた超古代・・を通り越した原古の地球の記憶のようなものをも、想起しながら番組を何度か繰り返し見ていた。

個人的には関東の地震よりも南海トラフがとても気になっている。

そして東北、北日本はかつて地震などの災禍を「引き受ける」ことがあると感じていたけれど、ジェネシス概念や、地球史に照らすと、北日本は高次自然界のエネルギーを強く残している、上空にもその繋がりが残っていると感じて来たことと無関係ではないのかも。純粋な自然界の王国の名残が、その世界の自己犠牲的な性質が、大地にも投影されているのかもしれない。

紀伊半島はこれから少し、キーになるかも(シャレではないけど)。地下にあるという神奈川県サイズの花崗岩も気になる存在。そう、3年前に出向いた熊野ではイザナミ墓所といわれる海岸近くの花の窟(いわや)神社に行っていた。火の神カグツチを産んだことで亡くなったと言われるエピソードと、この1400万年前のカルデラ大噴火は関係があるかも? ならば夫婦神での国生みは恐らく1500万年前ということになるだろうか。

そう。1500万年前、というのが秘教的観点からすると見過ごせないものがある。諸説ありつつ、アルガンザ・ジェネシスでは現在の地球の管制ロゴスたちの地球への到来を、1500万年前としている。そして、以前からガイアワークを考える際にいつも頭に置いているのが「地球雛形説」だ。今回、日本列島の成り立ちの全容を改めてNHKさんの『ジオジャパン』で眺めていると、ナレーションや解説の中の「たまたま」「偶然」の連呼が気になる。そして「1500万年前」がひとつのポイントになっているという点も。

現在のシリウス系の管制グループは、進化プロジェクトのある局面を担うために招かれた(あるいは配属された)エキスパートだと考えるが、その到来と日本列島の外枠の完成=1500万年前 が一致するのは興味ふかい。雛形の中に地球全体の様々な勢力やエネルギーやテーマをミニチュア状態で盛り込み、レイラインや高次世界との次元トンネルや、宇宙エネルギー同士のカルマなどを、日本列島やこのフィールドに「仕込み」地球プロジェクトを考えていく為の、進めていく為の小さな実験場。それを早急に作る必要があり、プレートの向きを変える、マグマ溜まりを動かす、などの手を加えたのかもしれない。。「神々」にとってそれは難しいことではないだろう。

花の窟神社で感じた、とろけるような女性的な空気は、アルガンザで扱っているリラ由来の創造の蜜色エネルギー「ディーザ(Devine Mother)」の空気感によく似ていた。伊勢神宮のような清々しい高周波はシリウス。明らかに違っていた。旧システムから新システムへの切り替えも、新勢力であるシリウス系マスターたちの到来後に起きている。母神イザナミの物語も、それを表現するものかもしれない。

それにしても、日本列島の成り立ちは本当にミラクルだ。番組のゲストの方が言っていた。「偶然といっても余りにも凄すぎて、最初から仕組まれていたのではと思っちゃいますよね」・・・

・・・『ふふふっ』と心で笑う私であった・・・(笑)

 

地球史・地質学方面だけではなく、人類史においても、この2〜3年で画期的な発見が相次いでいるようで、ちょっと目が離せない感じがしている。時代の変わり目には、生きる人々の意識や生活・概念や文化が変わるだけではなく、それらを固定していた人類全体のマインド、メンタルフィールドに変化が起きなくてはいけないということか。学者の人々がある意味、導かれ、インスピレーションで動いたり閃いたりして、これまでどうしたって見つからなかったものが急に見つかったり、新しい学説が生まれても、もみ消されずに育ったりして、メンタル界から変化が起きる。そうすると、

それを受け取り、生活レベルに落としていく民衆レベル、民衆のニーズに応えようと常にアンテナを立てている企業・産業レベルにも、否応無しに変化が起きていく。芸術文化面の人々も、連動する流れをキャッチして、作品を生み出していく。それがまた民衆の感性や行動に変化を起こしていく。

ああ、こうして本当に、世界が今、変わろうとしているのだ・・・と、噛み締めてしまった最近。石巫女でも二年前の時点で「もしや鉱物界というより、ワーク対象はプレートでしょうか?」と言っていた時もあったけれど、私たち、物質界の生命圏を載せているプレートは、何よりも我々の運命を握っていると言えるかもしれない。

地学方面からの列島史、人類の発祥や日本への流れについても色々と分かって来ると、それが神道や神話、古代史あたりまでと結びついて、我々のルーツがより明瞭になっていく。そのような思考的・思想的・実学的な形を通してでないと、実際の社会や人間の意識は変わっていかないのだ。私たち個々の癒しと成長においても、ただヒーリングのエネルギーが入ったり、ハイヤー層から降りて来たとしても、それだけでは定着していかず、本当の変化は起こらない。全レベルにおいて、同じトーンが響くからこそ、実際に変容が起きていく。それと同じだと感じた。

今日はこのくらいで。

Love and Grace

Amari