Energy and Crystals

鉱石とエナジーワークと神智学と、生きること。

歩き出さなければ、次の道は見つからない

二日前の朝、目覚めとともに「まずは己を知ることから始まる」と心で呟いていたので、ブログにでも書くのかな?と思っていた。ブランチを食べながら見るために、オンデマンドで番組を探していたら、『永平寺』が目につき、メニューが和食だったからちょうどいいかなとチョイス。

道元が開いた福井県永平寺は禅の曹洞宗大本山。仏教史を学んだ中で道元の思想というのは私はちょっと合わないと感じていたけど、禅は海外のインテリにも人気、ジョブズ永平寺に行きたがっていたらしい。禅問答の世界は左脳も刺激しそうだし、他の宗派とは違い、東洋独特の(インド、中国、チベット、そして日本の)民族宗教の湿りっけが混ざっていないドライさも、西洋人には抵抗なく受け入れ易いのかも。
 
さほど食いついて見ていたわけではなかったところ、修行に入って年数が浅い禅僧(雲水:うんすい)たちがまず徹底して学ぶことは「自己を知ること」と出てきて、おおっ「夢で先に見ていたのかな」と、導かれている感じが高まり、集中して見始めた。
 
まずは己を知り尽くすこと・・そこに立ててようやく、禅の修行者として歩み始める。己を知り、不要なもの(煩悩)をそぎ落としつづける。やがて自己そのものを捨て去ることで、解脱・悟りへ向かう。・・と、他の仏教や神智学からしても、ヒーリングやニューエイジでも、当然のことなんだけど、改めてなぜかそのフレーズ「まずは己を知ることから・・」を、メッセージされた。
 
同時に、なぜ人間は「自分を知る」ことにそんなに長い行程や、迷いの日々が必要なのだろうかと、日頃思っていることでもあるので、改めて考えた。私自身は水瓶座か、第一光線か、単に過去生で(今世でも)修行をしてきている?からか、気が着いたら最初から「わかっていた」。自分の進む方向、やりたいこと、やらなくて良いこと、全てはっきりしていて、若い頃から迷わなかった。ただ、はっきりし過ぎていて、そうではない事柄との摩擦で苦しみはしたが・・・
 
雲水さんたちが厳しい修行の中で見つけていくのはもちろんそういう事ではなく、24時間の生活の全てに決められた厳しい作法があり、四季の移ろいで暑い・寒い、毎日の座禅が辛い事もあるだろうけど、その中で立ち上ってくる自我、感情や思考のゆらぎを通じて、「自分」つまり「自分の中にいかに迷いが隠れているか」を体験し、「己を知っていく」のだろう。
 
「自分探し」に何十年とかかっている人々も居る。同じパターンを繰り替えしているのに、そこから学んだ筈なのに、見ていて祝福と成長の道筋に乗れているのに、当人はあるものを「無い」と言い、盲目的にまたいつもと同じ行動をとって、乗れていた道筋を無駄にする。そんなことも少なくない。そんな人は、神智学に言う「グラマー」に染まっているから、言葉で止めることは出来ない。

 

人はなぜ、「自分」を知らないのか。

 
シュタイナー教育を見ているとなおさらそう思う。18歳で子供たちは、ある程度人として出来上がる。自分のことを知っているし、世界の中で自分をどう活かそうか、さて・・と、自然体で当然のように考えている。
 
ヒーラーをしてきて最大の疑問は、「変わればいいのになぜ人は変わらないのか」「なぜ道を示されているのに、歩みはじめて手応えを掴んでいるのに、また堕ちていくのか」ひいては、この世の仕組みの中で、人の心・意識はなんと弱いのだろうか、と。傲慢さ、頑固さ、愚かさ、甘さなどから、人は成長していく(現実を改善していく)道からわざと自分を逸らす。・・・けれど、それが自分で分からないから、長引く。
 
お寺の厳しい修行の中で、自分の傲慢さ、頑固さ、愚かさ、甘さなどに気づいていき、それを超えていくという仕組みなのだろう。つまり、甘い環境の中で生きていると、自分を見つけることさえ出来ないのかもしれず。歴史的にも、豊かになりすぎると人心は腐敗し国は滅びに向かう。ただ、甘い環境にいる(自分を甘やかしている)人が、「自分は厳しい状況にいる」と思い込んでいるケースも多く、それでは抜け出せないよなあ。。。という感じだ。
 
 永平寺は厳しい修行寺として知られている。世界中にファンが居て、サテライトのお寺も海外にあるらしい。道元は中国に留学した折、どんな深淵な教えと修行が待っているのだろうかと思っていたところ、生活そのものが全て禅である、修行である、という考え方を学び、体験し、二年ほどの留学期間に「心身脱落」(解脱・悟り)に至り、帰国。もとは京都の公家の生まれで比叡山に籍を置いていたが、あえて北陸、福井に大本山として永平寺を開き、曹洞宗の宗祖となった。
 
日本の仏教史、そしてインドでの発祥から全体の仏教史と、二度、学ぶ機会があった中から、少々、予備知識をご紹介。
 
インドには無かった禅宗は中国で生まれ、五家七宗に分かれ、そのうち臨済宗曹洞宗が日本に入っている。禅における思想的な軸は「ありのままを受け入れる」か「ありのままを超えていくか」の解釈であり、考え方の違いにより宗派が分かれていったそう。また「ありのまま」の本来性をどこに求めるか、の解釈にも相違が生まれ、人間としての「あるがまま」を自己とするか、別次元の(魂?)自己をそれをするか、により系統が分かれたりと。
 
そのような伝統を受けて、道元は自ら新しい哲学を打ち立てる気迫で、仏典、釈迦の伝承や言葉を自ら改めて解釈しなおし、既存の禅を否定しつつ独自の思想体系を構築していったようだ。大著書「正法眼蔵」の世界観は凡人には理解しがたく難解。言葉遊びをしているようで、落ちがあるのか無いのかも分からないようで、結局何か言いたいのか、特に何も言う気はないのか・・それが落ちなのか。という感じ。
 
以前、ちらっと読んだ時は「ああ、ダメだわ。合わないわ。」と、自分の好みではないと決めてしまっていた。けれど今回、「永平寺」をふむふむと見終わった私にNHKさんは「関連番組」として「100分で名著」の『正法眼蔵』を進めて来た。分かり易く解説してくれる同番組なら、何か新境地を感じれるだろうか?と、見てみることに。要点と、興味深かったことを以下にざざっと。解説者ゲスト、ひろさちやさんのお言葉を中心に。
 
自我を捨てるのが悟りだが、「悟りたい」と思うのは自我であるから邪心である。(から悟れない)
→ほんとにその通りだ。悟りとは、自然と至るものであらう。
 
本当は既に悟りの世界(全宇宙)に生きているのに、迷うのが人間。
とにかくは歩み始めることだ。そうすれば、自然と次の道が見つかる。
→その通り。いつもうちのクライアントさん、生徒さんたちに言いたい「始める前から心配しないで。とにかく始めないと。」
 
迷うことは道元は一切否定していない。しっかり深く迷いなさい。そうすればいつか抜けられるから。
→これも本当にその通り。そこに真剣さが必要で、深く生きるということだろう。迷いを打ち消すことは出来ない。とことん迷って、ナチュラルな責任意識とともにそこから抜ければいい。
 
「悪を行うなかれ」ではなく、日々の修行生活をしっかり生きていると、自然と「悪など行えなくなる」
→これもよく分かる。きちっとした身のこなし、清潔さを保つ、無駄をせず食す、などの厳しい規律の中で生きていると、波動が高まるのだろう。そうなると、波動の低いもの、低い思考や感情は抱けなくなる。これはヒーラーとしての生活からよく実感できる。
 
「あるがまま」を肯定する禅の一つであるし、何に対しても結論づけるのではなく、あらゆるものが、世界そのものが既に仏であるとし、悟りは向こうからいつかやってくる、と説いている道元はいわゆる「他力(たりき)」の教えであると誤解されることもあるそうだ。けれど解説のひろさちや氏いわく、ヒンドゥーの喩え話を使って、
 
サルの親子。子ザルは、母ザルのお腹に自分でエイっとしがみつき、自力でぶら下がっていなくてはならない。母ザルが運んでくれるとは言え、これは自力である。一方で、ネコは他力。子ネコは母に咥えられ、運んでもらう。子ネコ自身は何もしなくても安全な場所へ運んでもらえる。
 
道元の教えは前者、サルの「自力」であるという。運んでくれるのは仏。けれど、仏を信じるという努力が、自分サイドで必要である。
→これも全く強く同感で、いつも皆さんに言って来たことでもある。高次が運んでくれる流れがある。常にその流れを感じれるように。そうすれば乗っていくだけだから、と。
 
・・・でも、どうして流れに乗れない、というか流れさえ見つけられない人々が居るのだろう?というのが、私の疑問でもあった。冒頭に書いていたこととも重なるが・・エネルギーワークや、瞑想や、ヨガでも他の何かでもいい、学びは全て同じだが、何か新たな「良きもの」と出会えば、学ぶ意思があれば、自分が「変わらない筈はない」というのが、自分の自然な感覚だった。逆に「変われずに居られる筈がない」と。
 
まして、ヒーリングやエナジーワークでエネルギー層に働きかけるなら尚更のこと。セッションや伝授を受けて、「分からない」「変わっているのか?」と疑問を口にする人が、ごく稀だけれど居る。一方で、スイスイとひとつひとつを理解して、進んであっという間に成長する人たちも居る。怠慢さや、信じる気持ちの欠如からちゃんと活かそうと努力していないから、という単純な理由もあるかもしれないが、もっと掘り下げれば、シャドウセルフや周囲のエネルギーなどから、変わっていけない仕組みが隠れている、と、解釈することもできる。そこには、適切な処方も必要だろう。けれどやはり、当人の「変わりたい」という強い意思、信念がなければ何も根付いていかない。(ヒーリングも「他力」ではないのだ)
 
昨日もちょうど、生徒さんたちとセミナーでそのような会話をしていた。永平寺の特番を見ていたのは一昨日だが、昨日あらためて大きな疑問、問題意識を抱えて帰って来たところ、「100分で」を見て、その子ザルの比喩が本当に、ピッタリだと感じた。
 
「自分は最初から仏の世界に存在している、仏の子である」と信じなさいと道元は言っている。苦しむ時も、迷う時も、それはそれで良し。いつか仏が、悟りが、迎えに来ると信じてしっかり苦しみなさい、迷いなさい。けれど・・・「信じる」「信じ続けるという努力」は、自力で、自己責任で、われわれサイドに欠かせないもの、ということ。
 
ヒーリング、エネルギーワークも全く同じだ。
 
以前から何度も、同じようなことをブログに書いてきた。「信じる力があるかどうか」・・・もし私に、ヒーラーとして何か才能があるとしたら、それくらいだろう、と。あとは高次がうまく運んでくれる。それを信じて、アルファ波的なリラックス状態でクライアントの横に座っている。自分からガザガザと考えたり、セッションをうまく運ぼうとは考えず、無欲で。
 
それが中々、人々に通じなかった。みんな心配し、うまく出来るのか、これでやれるのかと呟く。5年、10年と学んできた人でも、強い恐れが発動し逃げるように去っていく姿も。「信じるという才能」が、ヒーラーには必要なのだ。
 
・・・と、自分には合わないと思っていた道元さん。急に親しみが、そしてもちろんレスペクトが湧いてきて、「100分で」を全部(4回で100分)見ることに(笑)した。
 
天才肌だったのでしょう、一般的な仏教における解釈とは違う論を、新たに展開したという特徴もあるよう。そうそう、当時は平安末期からの末法思想の蔓延で、人々は若干パニック。天災や戦乱などにおびえる民衆はいよいよ末法の到来だと、大いに恐れていた。そんな大衆の処方箋として、現世ではなく死後の阿弥陀浄土へ行けるように阿弥陀様を信仰しようという浄土宗、浄土真宗が大衆レベルでウケた。
 
同時に、都と幕府の対立の中で権力者たちは加持祈祷を行う密教系の僧侶を重用した。どちらも、仏の真の教えからかけ離れているとして、道元は危機感を感じていた。ブッダの教えを改めて提示し、本来の仏法を教え、残さなくては・・そこに、使命感を感じたよう。禅宗や、曹洞宗であるというアイデンティティにこだわるよりも。
 
そうそう、仏教の勉強を趣味でして来た者として、番組を見ている途中で、これは原始仏教、つまりシャカ自身の哲学に近いのでは?と思っていた。法華経華厳経含め、いわゆる大乗仏教はシャカの死後数百年を経て生まれた新しい潮流で、それぞれなんらかの土壌を持ち、なんらかのニーズに応えるものとして生まれていた。シャカの本来の仏教ではない、とさえ言われることがある。
 
一人の人間として自分を徹底的に見つめ、自己を乗り越えて自らの中に悟りを引き寄せ解脱する。密教のようなマジカルなパフォーマンス、華厳のような絢爛豪華な世界観は無い。
 
なぜ、道元が京都を離れて福井県の山深い地に永平寺を開いたのか。については、諸説あるそうだが、ひろさちや氏の解釈では、
 
「プロフェッショナルな仏教者」「本物の修行者」としての弟子たちを育てるために、隔離された場所で、少数精鋭を純粋培養しようとしたのだろう、と。
 
本物の、プロフェッショナルな者たちを育てようとした。
 
世間で横行している、権力(ビジネス)に媚びた仏教ではなく、大衆受けするための教義ではなく(けれど浄土宗や日蓮宗などは、当時の不安を抱えた力のない一般の人々の助けになったことと個人的には思っている)、
 
ブッダの真の教えを再現し、それを純粋なまま実践篇で体現していく修行者を育てていくための、指南書「正法眼蔵」、そして修行場の永平寺
 
急に道元さんが、他人とは思えなくなって来た(笑・分かる人にだけ分かるところ)。
 
そして800年もの間受け継がれ、今では世界から注目される存在となっている。
 
いつの世も、思想やスピリチュアリティにおいて、起きることは同じだと今回もまた改めて深く感じ入った。同時に、二日前の目覚めの瞬間に響いたフレーズからのこの流れは、メッセージでもあり、シンクロニシティでもあり、ガイダンスでもあったのだと感じた。
 
感謝。
 
Love and Gratitude,
Amari
P.S. 生徒さん向け、アップデートブログも本日、更新しています。