Energy and Crystals

鉱石とエナジーワークと神智学と、生きること。

奈良旅 2020年冬 シルフィードと大地の都、エソテリ旅。Vol. 1

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テレビを見ない私でも、さすがにニュースがちらちらと目に入り、世相的には旅をするタイミングではないと感じつつ、冬の奈良へ。どうしても避けられない事務的な要件があり、最初は「代理人では?」とか「オンラインでは?」と尋ねてみたくらいだったけど、そうは行かないということで、ならば一年半振り、ご縁のある場所や以前から思い入れのある場所へ寄って来ようということに。

出発2日前に予約したホテルは平日ということもありガラガラで。去年利用した時とはまったく違う鎮まり感。さすがに観光地・奈良なので人が居ないという訳ではないけれど、いつもの外国人観光客のにぎわいが引いて、25年以上、奈良に通っている私の目には初めてというくらいに人出が無かった。無理もないけれど。私も本当は「自粛派」。

去年はやはり用事もあって二度、奈良に行っていて。確かSNS等では「ブログで旅日記を綴ります」と宣言していたけど、書けず仕舞い。もしかすると今回の記事を書きながら、話がつながって行ったりしたら、自然と去年の旅記録も載せられるかも?・・なんて淡く期待を抱きながら、今回は記憶が新しいうちに、書き始めてみよう。

ただいま、アルガンザでは今年リリースのプログレッシヴ版「エヴォリューション」の(プラクティショナー伝授は1年前に始まっていたものの)ようやく、クライアントの皆様にお届けする「ワークブック」の最初の2冊が配本できる状態になったところ。そこに至るまでの、いつもの高次が用意する試練のような流れを、執筆中の私も、ワークの現場を担っていくプラクティショナーさんたちも共有しながら、各自の修行、そして全体の潮流を体験し、関係する「サンダルフォンニュートリション」や、(来年改訂に着手する)「レムリアンセイクレッドレイキ」なども、同じ世界観の中つながり合うエネルギーゆえに動いていて、

新しい情報も多く集まり、それによって「ワークブック」の内容に手を加え、「天使」の一般概念をアルガンザ流でガラリと書き換えながらの「アルガンザ天使学」の展開(のまずは触りだけ。ライフワークくらいの難題でもあるから。)という動きも起きている。行く先々でエンジェリックな、天使の羽のような雲が、出発前の関東から、移動する先、する先に着いてくるように現れ、しばし感じ入って感謝していると、その地を去る頃には薄まって消えていく、を繰り返して。何かとても、意義深い時間なのだろうなと感じていた。

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奈良に着いてすぐ、定番の奈良公園に。近鉄奈良駅から歩き出すとすぐに見えてくる興福寺で、お決まりの「最初の一枚」。さっそく、雲が凄かった。

先日インスタグラムに書いたようにトーハクの会員優待期限がなんとこの日、最終日。少しでも活用しなくては・・と、同じ国立博物館ならば使えるので、奈良公園内の奈良国立博物館へ。仏像館、ほとんど一人で見て回る(人が少なくて)ような状態で、とても贅沢。やっぱり、飛鳥・白鵬・奈良時代までの仏像が好き。せめて平安かな、けれど鎌倉期の運慶・快慶はやはり凄いと想う。

冷静に見ていると、どんな分野でもそうだけれど、上手い人の技術の高さは卓越して見えるものだ。とはいえ、素朴な市民が彫ったらしいというものでも、良い雰囲気で引き付けられるものもある。だからこそ、博物館で大事にされているのだろう。

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雲が向かっているのか、そこから現れている(ように見える演出?)のか、大事な御蓋山(みかさやま)のフォーカスを予感させる。20歳の新人会社員時代に大和路ひとり旅を初めた時も、幾つかフォーカスしていたテーマのひとつが春日山付近の古代祭祀で、中途半端であまり深く掘り下げないまま年月が・・(27年も!)経っての今だけど、去年の奈良旅では、ここ10年くらい寧ろ避けていた春日について、「和解の旅」とか名付けて、興福寺の薪能と合わせて心をオープンにして臨んだ。ところが、ひとりよがりの「和解」設定はまあ、良かったものの、拮抗するエネルギーの厳しい逆流があり、やはりそう簡単な問題ではないのだなと痛感して帰って来ていた。

あれからそのテーマもすっかり忘れて、今回何も考えずに用事のために出向き、優待券を活用せねばという三次元思考で奈良国立博、に行ってみたらば、特別展示で「春日大社の祭祀」を取り上げていて、呼ばれた感じもし始めた。展示そのものはどう、ということでは無かったものの、「そう言えば主祭神はタケミカズチだなあ」「ヒタチの国から鹿に乗って御蓋山に降り立ったという伝承だったなあ」と考えていると、

昨年こころみた「和解」旅のカラクリ、個人的な魂の影響力などが解けていく予感がした。若い頃に春日山周辺に思い入れていた理由は、巫女らしい女性たちや女神系エネルギーの気配があり、恐らく縄文時代〜ヤマト国により再編成されるまでは、古来の神奈備だったに違いないし、なぜ神様が(栗本慎一郎氏が、縄文以来の本来の日本、ヒノモトの重要地だったと表現している)ヒタチ(茨城県)から、奈良に移動してしまったのだろうかという事を考えると、古代史に詳しい人々ならば言わずもがな、ご存知だろうけど・・藤原氏の台頭の影響によるもの。もっと言えば、藤原氏による、蘇我氏の権力・土地・神話・バックの神様 の乗っ取り・・というと言葉が悪いか・・・「成りすまし」・・もっと悪いか、まあ、そういう事なのです。(笑)

どこの国の歴史でも、いつの時代でもあることで。もちろん色々な考えの人がいるし、私は古代に興味を抱いた20歳ころから色々と読んで来た中で、エナジーワーカーとしての経験、体感や直感などもともに、ここ数年は、栗本氏の著書で展開されるソガ=イズモ(日本海側の広い範囲)、アズマ(東国・東北の広い範囲)の首長的な存在だったという説に、賛同している。もちろんルーツは、古来言われて来たように「渡来人」だとは思うけれど、早い時期にやってきて、ネイティブの縄文の部族社会と仲良くしていたのだろうと。

話が逸れたけど、

何か偶然ではない、博物館での「春日祭祀」に誘導されるように、翌日の午前中は春日大社の奥の方へ、行ってみようとふと思いつく。

そして明くる日。まずは、ホテルからバスで奈良公園エリアへ、「春日大社参道入り口」で降りる。本当はもっと大社に近いところまで、歩かずにバスで入りたいと思っていたところ(午後に大事な用事があったので体力温存のため)・・その路線が本数が少なく、「入り口」バス停を利用することに。けれどお陰で、昔は大好きでよく行っていた「飛火野」エリアを満喫できた。広大な芝、春日原始林から継続的に点在する森の巨木たち、鹿たちもここでは広々と群れで広がっていたり。そして、大事な神奈備も背後に見える。

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2007年、家族がこの近くで大変な事になり、救急車を呼んだ。遡ればもっとずっと前、若い時分の旅でも、何度か「問題」が起きたり、ヒヤっとしたり、という経験が春日の森、春日野ではあり、2007年の一件から、以前の思い入れは引いて「近づきたくない」という気持ちが続いていた。去年の「和解」を経てもまだ、今思えば少しどこか、心を開けない感覚が残っていたのかもしれない。

今回、直前までのスケジュールが過酷だったので、一切計画を立てず。ただ博物館だけは行くというラフな予定から、結果的に誘導されてみると、この日は本当に世界が美しく違う次元に居るようで不思議。空気の粒子が違うというのだろうか。それでもヒーラーとしてこの数年、様々なエネルギーの拮抗を「研究」してきて、そうそう簡単に喜べない、簡単に解決するとは思えない、という構えが出来ていた。だからこそ全く期待をせずにふらりと向かう旅だったのが、良かったのかもしれない。

顕在意識ではよく分からないけど、何か過去生に関する記憶、更にその原型はアルガンザの「ジェネシス」概念で言う、「ジェネシス層」のいろいろに由来・起因している何かが、奥へ、奥へと登っていくにつれて解けていくようだった。春日のいわゆる「大社」は御蓋山の中腹にあたるそうで、今回インスピレーションを得た大社よりも奥のゾーンへ足を進めることにした。

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飛火野で遭遇した、「鹿寄せ」という楽しいイベントは動画をフェイスブックに載せたので、良かったら覗いてください。

 

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大社にももちろんご挨拶に立ち寄る。ちょうど御神事の最中で、琴と横笛、祝詞と巫女さん二人の舞の美しい場面にも遭遇。

御蓋山自体は神が降臨した聖地。ということで「禁足地」とされていて、一般ピープルはここから拝んでいいよ、という「遥拝」の場所が幾つかあり。その他、たくさんの摂社に出会いながら。

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神社として、オヤシロを建てるようになったのは6世紀に朝鮮半島から仏教が伝来して、お寺という立派な建築物に圧倒されたヤマトの人々が、祭祀にも建物が必要だと考えるようになったから、と言われている。それ以前の神祀りは、きっとこんな風↑だったのだろうな、と思う。木々や岩を神なる場所として区切って、祭祀を行う。

これまでは自分の中に色々な区別、識別が起きていたのだろうと思う。今回、この春日の山の中腹や、森の中を歩いていて、「三輪」を感じた。20歳の旅で「ひとめぼれ」して通い続け、10年以上過ぎてからその麓に移住し、四年間住んでいた、三輪。

一方で、何かこう、興味を持って通いつつも、自分との相性の悪さを感じていた春日。けれどその幻想がスルっと外れて、「ああ、同じものだ」と腑に落ちたような瞬間があった。相性が悪かったのは、その地ではなく、歴史の断片、一側面、確かにそこにあったマジカルな力と、それが自分の過去生や、持っているエネルギーと出会すと実際に作用していた拮抗するもの、それが顕現して現象化していたこと。

人の感情にヒーリングが起きるのと同じような体験を、その土地、歴史的なテーマにおいて、体感したようだった。ただ、あるのは祝福と、光、感謝だけ。間に分け入って邪魔をするエネルギーにより、仲違いさせられていたような・・・喩えて言うならば。

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そんな訳で、今回は三輪には行かなかった。その必要が無かった・・・春日で、三輪と会っていたから。

そして!

面白い「落ち」もある。旅から帰って来て一晩過ぎて、翌朝気がついたのは、実は私、自宅のある神奈川県、サガミの国のアースワークのためにあれこれと調べたり、ソフィア他、クリスタルでワークしていた中で、つい最近「これは春日信仰について調べないとな」と思っていたのだった。信じられないことに、旅の道中、まったくその事を忘れていた。けれど春日信仰の中心地、春日大社と春日山には行っていたという。笑

昔から変わらないこの天然振り。ここが高次と仕事をする上ではきっと大事なのよ〜・・ある種の才能なのよ〜・・と、自分に言い聞かせてみたり。

そうそう。もちろん、春日信仰という言葉によって私がイメージしていたのは、縄文の石器時代の人々による太陽崇拝=春分の日、春の太陽(春の日・カスガ)、にまつわる信仰のことで。春日大社がタケミカズチ神を主祭している、というのとは内容が違う。ゆえに春日大社に行きたかった訳ではなくって、春日信仰がおそらく縄文の人々によって行われていた一つの拠点であった春日山、御蓋山に行き、その空気を体感することが、ポイントだったのだろうと後からしみじみと理解する。さらに、その地で「三輪を感じた」ことにも深く納得。三輪山も同じように、縄文の人々による太陽崇拝の拠点であったのだから。

時間がないのと体力的にもかなり問題がある中、ただ導かれるまま駆け抜けたような旅だったけれど、とても重要なエネルギーの動きがあったと感じている。

長くなりそうなので、幾つかに記事を分けることにします。

今日はこのくらいで。〜〜「つづく」〜〜

Love and Grace,

Amari

報われない偉業

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大シフトの8月、も終盤のせいか、糸を手繰っているうちに自分でも深い、大きめのもの(消化・昇華するべきテーマ)が出て来た。

去年から少しずつ、奈良の家からオフィスへと、古い書類群を送っていた段ボール数箱。なかなか本腰を入れて整理できずに月日が過ぎていたところ、今週は助っ人の手もあり、作業を進めることが出来て・・

 アルガンザになる前の「ロザリア」「天と大地」時代のサロンの記録のボリュームと、当時の自分の集中したエネルギーの注ぎ方が書類群から激しく伝わって来て、古代史探求や、20代の仏教信仰、さらには受験勉強なども同じくだったが、いつも必ずタイムマシーンを開ける作業(記録の整理)は、決まって物悲しくなってしまう。
 
もう定番だったので、そういうものだと思って気にして来なかった・・・が、今回スタッフさんが手伝いに入っていたことで、客観的な視点が自分の中にも生まれて、「この悲しい感じ、変ではないか?」と、自覚するに至った。実際には過去の努力・奮闘は報われなかった訳ではなく、必ず良い結果を連れて来てくれた。パーソナリティの中心はその部分をちゃんと分かっていて、信念のようなポジティビティもある。けれど、そこから分離している「何か」が、悲哀に変換してしまうのだ。
 
冷静に堀り下げてみようと決意した瞬間に、整理している書類の中から、2007〜8年ころ、当時メル友のような関係だった東北に住む女性 --- 同じ歳、同じ本名の、タロットや占星術やチャネリングアートをしていた女性が見てくれた、星読み&サイキックリーディングの鑑定結果の書類が、出て来た。
 
「秘教の研究においてトラウマがある」と書いてあった。当時は「秘教の研究」と言われても読み流していたようで印象に残っていない。けれど今ならば、「秘教徒を前世でもしていて、続きをしに来ている」と数年前から生徒さんたちにも話していたからよく分かる。加えて、何らかの研究者としての「トラウマ」については、ちょうど考えていた所でもあった。
 
石巫女クラスで取り上げたウェーゲナーの「大陸と海洋の起源」を、最近持ち歩いて電車で読んでいたりもしていた。私はこういう、「先駆的な研究を堂々とやってのけたけど、悲壮感の中で死んでいった」とか、「まだ時代に受け入れられず当人は絶望の中で早逝した」とか・・「研究者の悲哀」に妙に敏感なのだ。そしてこれは、最後に残った「理由のない感情パターン」でもある。
 
ヒーリングと出会ったころ、今世では身に覚えが無いにも拘らず自分の中に深く入っていて、ネガティブな感情反応を生み出しているパターンを多く抱えていた。私の場合、ネガティブの中身はほとんど「悲しみ」や「虚しさ」「恐怖」などだった。父権制への恐怖、十字架、ギロチン、高所恐怖症、閉所恐怖症、伴侶である男性の死と犠牲、そこへの罪の意識(「ハピの巫女姫」のリーヴ、「ガイアナ神謡集」のレオダイなどに反映)、などなど。それらが一つ一つ、セルフワークやセッションを通じて癒されていった。
 
自分になぜか入っている多くの原型的エネルギーからの感情パターンがクリアリングされると、本当に嘘のように「反応」も消えていき、そのような感情に理由もなく落ちるようなことは、無くなるもの。これは或る意味とても「科学的」だと言える。感情や思考が情報の注入、セッティングであり、的確な手順でそれを外したり中和できれば、翻弄される自分のメカニズムそのものが、無くなっていく。
 
この数年どうも、悲しい末路のエピソードがあったり、偉業の割にはパっとしない人生、みたいな先人たち(研究者・執筆家)にシンパシーを感じていた。かつて若いころは上記のほかに、「狂ってしまった人」や「自殺する芸術家」に同情するクセがあったが、これらもまた、過去生を癒すことであっさりと消えていた。この二つは、実際にそのような過去生が、比較的新しい時代にあった為に、影響が強く出ていたパターンだった。
 
「秘教研究や執筆の、(前世の)続きを、今世でやっている」と自覚している今、その仕事に直結する、打破しなくてはいけないトラウマがあるのだと、漸く気付く。これを綺麗にしなかったら、この先には進めないというくらいに自分の今世の「本題」であるがゆえに、むしろ子供の頃や若い頃は息を潜めていて、ここ数年で浮上して来ていたのだろうという事にも、やっと気付く。
 
過去の自分の「反応」パターンを振り返り、その本質を理解するのに時間は必要なかった。。過去生では、自分の弟子、または共同研究者のような立場の人々に裏切られてしまったのだろうと納得する。そして過去生のさらに深層にある原型パターンを既に「ジェネシス」で紐解いて、体験もしているから、断定しやすかった。
 
アトランティス文明期、叡智のマトリックス「ソフィア」から、情報だけ取り出してソフィアとその守り手のエルフ界を破壊した「革命派」の人々。数年前、このジェネシス情報が開示された時、私はソフィアの意識になって、ウオンウオンと大泣きしていた(笑)。
 
先にそれを体験していた(鋳型を癒していた)から、もっとも近い過去生だったゆえに生々しくお腹の中に沈んでいたとは言え、意識を向けただけでスルスルと解け始めた。過去に大きなテーマと向き合うには、かなり大掛かりな体勢が必要だったり、長期的に少しずつ分かっていったりしたものだけれど。鋳型に先に触れていたから残照のようなものだけが残っていたか、またはこれからの仕事に直接関わるからこそ今、ソウルのデーターバンクから改めて降りてきて、お腹に入ったとも言えるかもしれない。
 
悪気のないちょっとした不注意(利己の波動)、人がついついやってしまうというレベルの利己による他者の侵害に、過度に悲しくなる性癖も、ここに起因していそうだ。人魚姫に助けられた王子がそれに気づかず魔女が化けた女性が命の恩人だと勘違いするシーンに、子供のころに号泣した理由も(笑)
 
ウェーゲナーの大陸移動説は、すぐには理解・評価・賛同を得ることは難しかったけれど、当人の死後、価値に気づいて取り上げる学者が出て来て、評価されるに至る。さらに技術革新からデータによって彼の気づき、研究、主張が正しいと認定される時代が到来した。こういったタイムラグが生まれるのは、「天才と凡人が居るから」で片付けられる問題ではない。自身に感情的な違和感があったとしても、それは自分の中に在るものが反応しているのではないか?という謙虚さとともに、「普通ではない」ことを言い出す人々の声と真摯な態度に、ハートを開く感性が、人々にあれば解決すること。
 
ある程度のワンネス的叡智の周波数の共有は、やはりこれからは必要だと思う。そうでないと、自由になった人類は各自の利己で暴走する。地球は持続可能ではなくなる。
 
・・と、話が逸れたけど。私個人の記憶だけではなく、
アトランティスにおいて、自我の目覚めを体験しつつある人類の中から、神なる世界に手厚く保護され、闇に染まる、利己で暴走する、という状態にさえ未だなりようが無い仕組みの中に居たところから、「俺たちは結構賢いから、何でも自分たちでやってみようゼ」という「革命」が起こった時、彼らは宇宙的叡智のマトリックス「ソフィア」を電磁的に攻撃して破壊し、かつ、ソフィアに蓄えられていた情報だけは自分たちが活用するために吸い取った(アルガンザ「ジェネシス」でのストーリー)。・・ここで、ソフィア側だったソウルは人類の(愛を注いでいた存在たちの)仕打ちを深い傷として刻んでいる。
 
「愛しんでいたものたちに、情報だけ持っていかれ、自分は滅ぼされる」
 
このパターンを持っている人々は、少なからず居るはず。ソフィアを守っていた存在たち、その世界、人間界に居てソフィア側だった魂も多く居たのだから。・・そういえば日本人は「判官贔屓」で、民族のDNAとしてはやはり、自然界系、レムリア系、ソフィアの守り手たち・・の流れを濃く継いでいるのかもしれない。そのために「大人になれない(進化に乗れない)」人々が多いのだろうか?
 
タイムカプセル、自分の過去の「頑張った記録」を見るにつけ、悲壮感に包み込まれていたことも、過去に多くの「反応パターン」が嘘のように消えた、思い出せないくらいに関係なくなった事例と同じように・・過ぎ去っていくものなのだなあ。。。と、意外な、不意にやって来た新しい秋の風の到来を予感している。
 
ちなみに上記の、占星術とタロットで鑑定してくれた女性は、私がまだ奈良に居たころに急な発病を経てあっという間に天に還られた。亡くなる直前、彼女が好きだった「マグダレーナ」という洗礼名で洗礼を受けてクリスチャンになっていたということを思い出して、これは偶然ではなく、彼女のスピリットがくれたメッセージだったのでは?と思った。というのも、ちょうど執筆物のための文献として、マグダラ関連の本を4冊並べて、読んでいた最近だったから。
 
太古フェミニズムが、縁を繋いでくれたのだった。女性性や女神のテーマは、自分がずっと前に昇華したために、最近はほとんど頭を過ぎることもなく。『聖娼』のキーワードで私を検索で見つけたと言っていたっけ。。もう15、6年も前のこと。マグダラの読書をしていても、申し訳ないことに彼女を思い出さなかった。けれど、私は当時何を読んでどんなふうに感動し、母系社会や聖娼制度の国を舞台にした「ハピ」や「ガイアナ」を書いたのだっけ・・・と記憶を辿ってはいた。なぜか抜け落ちていたけど、書き上げたばかりの「ハピ」をメルマガで購読してくれ、まだ高揚感でワクワクしているような当時の私の世界観を、ひととき一緒に、喜びとともに感じてくれていた一人だったのだ。
 
「過去の努力を振り返ると押し寄せる悲壮感」のパターンは過去生ゆえだと気付いたことで、過去も現在も未来も、創造の1本の流れにあるという、何か、「魂の生み出す力」のようなものが戻って来た。
 
そう言えば、世界史の中でもっとも「報われない偉業」と呼ぶべきは、近年までのマグダラのマリアの立場、だったかもしれない。ここ30年くらいで、報われつつある。2000年越しの誤解と偏見を超えて。本来、イエスと対等に扱われるべき人物なのではないか・・とさえ、思っている(ジョン&ヨーコのように)。世が世なら。つまりちょうどあの頃に盛っていった父権制・男社会へのシフトの波の中で、情報を改竄されることが起きていなかったならば。
 
いろいろと話が枝葉を広げつつも。
 
まさしく、変容の夏。
 
読んでくれたみなさまにも、華麗なる変容を!
 
Love and Grace,
Amari

New エソテリ、或いはメタスピ。

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こちらのブログは「スピリチュアル」が好きではない、どこか怪しいと思っている(笑)人々にも読んで欲しい、そしてその「すぴ」の括りの先入観を外して、メタフィジカルな探求者の中には、宇宙文明とか惑星の進化とか言いながらもそれを歴史として取り扱い、真剣に人類の過去と未来、そして現在を研究し模索する中に身をおいて、何とかプロ(専業)として目に見えないエネルギー、魂というものをケアし導くという仕事をしようとしている者たちが居るということを伝えたいと、スタートして2年半が過ぎた。

同時に、そのような在り方をする新しい時代の「すぴ」を超えた、バランスのとれたエナジーワーカーたちが次世代、次々世代に生まれて欲しい、という両方向からの目的で、以前の「いかにもエナジーヒーラー」のブログ群を閉じて、リニューアルするべく開設したもの。

今書いた「目的」はこのブログに限ったことではなく、数年前からの、そして今後の私の活動指針でもある。2016年で一般クライアントの受付を終了し、2017年にはスクールの縮小、小数精鋭を育てていくマスタークラス、伝授、勉強会に的を絞って来た。来年春にそれらも終えることになっていて、一部の例外的活動(既にアルガンザワークのプラクティショナーである人々だけを対象にする伝授が幾つか来年まで続く)を除き、「エナジーヒーラー」としての仕事を「引退」する。

現場に立つ専業者は、一つ一つの事例に集中し、クライアントのニーズを満たすことで、サービス業としてお客様に報いる必要がある。それと、研究や新たな道を切り拓くための模索、広角で広い視野を持ち、未来に焦点を当ててその分野ごと「進化させていく」ためのチャレンジを、同時に行うことは出来ないからだ。

上記の、「真剣に人類の過去と未来、そして現在を研究し模索する中に身をおいて、何とかプロ(専業)として目に見えないエネルギー、魂というものをケアし導くという仕事をしようとしている者たち」は、もちろん昔からずっと居た。それは「秘教」とか「オカルト」とか呼ばれて綿々と一部の知識人たちに受け継がれ、時にアブナイ集団や思想を生んだ事もあるだろうし、最近ならば140年前のブラヴァツキーを初代とし、シュタイナー、アリス・ベイリー、そしてクリシュナムルティを輩出した『神智学教会』が知られている。

現在、ニューエイジと呼ばれている(日本ではいわゆる「スピリチュアル」)ジャンルは、ここから派生している。多くのチャネリング情報、ヒーリング体系、出版、スクールがどんどん生まれ、特に日本では「江原さん効果」でスピに参入した人々も加わって、質や方向性が錯綜し、今はかなり混乱している。

メタフィジカルな分野は、神智学、があれば十分だと実は思っている。そもそもブラヴァツキー夫人、2代目のアニー・ベサントの試みは、古今東西の秘教的叡智からエッセンスを追いつつ、直観や東洋の聖人の教えも取り入れ、、リードビーターやアリス・ベイリーは更にインドのヨーガ思想や哲学、チャクラやオーラの概念、ソウルシステムまでを現在の表現でわかりやすく説明した。思想の違いで離脱したシュタイナーは、単に思想や癒しだけでなく医学・建築・農業・教育・美術などあらゆる分野に神智学と直観的世界を活用しメソッド化するという「人智学」を打ち立てた。

そして、神智学教会の幾らか犠牲のような側面もあったクリシュナムルティは、人生の後半、そんな彼だからこそ説得力のあった独特の思想哲学を、ボームなど科学者とコラボしながら紹介し続けた。これだけ、天才たちが集まり、完璧な役割分担を演じたのだから、もうこれ以上、何も必要ないというくらいに、「すべて」が詰まっている。私はそう感じている。

けれど・・・アリス・ベイリー著書の中で、情報源であるチベット僧のジュワルカルは言っている。時代に応じて、探求者たちは変化(進化)していく。地球の表面世界に届く高次元世界からの光線、意識やチャクラに刺激を与えるウェーブも、変わっていく。その時代時代に生きる人々や状況に合わせて、伝えるための表現も、変化していく必要がある。

今は過渡期だと信じたい・・情報だけではなく、メタフィジカルなエネルギーも錯綜し、混乱している。向かう方向、引っ張っていこうとするベクトルがバラバラで、このジャンル自体が、以前のような心地よさや輝きを感じさせない。

深淵な神智学の語りに触れ、または効果のあるヒーリングと出会い、歩み始めた人々がそんな混乱の中で道に迷い、中にはガッカリしてしまうケースも多々あるだろう。

2002年、このジャンル(ニューエイジ、癒し)に本腰を入れて付き合うことになった私のキッカケは1本のフラワーエッセンス(花のエネルギーを転写した波動水)。なぜか最初から体感もあり、起きるものごととエネルギーの仕組みもすんなりと、理解できるという今思えば不思議な「初心者」だった。エッセンスを一回飲んだだけで起こる自分と周囲と体の変化や浄化の強さに驚いて、2本目を試すと、エッセンスの中に入っている植物の意識のようなものをヴィジョンで見るという体験をした。

20代の10年間、仏教徒として真冬の水行や、白装束での未明の登山などの修行をしていたという下地?があったからかもしれない・・過去生でも繰り返し「秘教」に触れていたからかもしれない・・・ともあれ、あっという間に強い信念を気づけば抱くようにになり、半年後にはヒーリング雑貨や石を扱うウェブショップをオープンした。計画したわけではなく、娘を保育園に入れるために「仕事を作らねば」という状況にお尻を叩かれた故だったが(幼稚園ママは自分には無理だと悟っていたので・・)。

当時のスピの主流である、女性的なハートの勢いで、エナジーヒーラーとして一気に駆け抜けた。来年春、15周年での引退となるが・・実際には、密度としては、それ以上だったと思う。これもまた計画していたわけではなく、シングルマザーゆえに娘を育てるという大業を前に、休む間もなく構えているところへ、うちのサロンの見えないマネージャーたちは次々と仕事を運んで来た。ヒーリングをする立場でも、そのエネルギーに常に自分が癒され、いつでも元気、やる気満々で駆け抜けていた。最初の・・前半の8年くらいは。

9年目に入った頃、あるキッカケから「パチン」とエネルギーの膜が弾けて、「スピ」というグラマー的集合エネルギーから、数秒間の時空変動のような体感とともに、醒めてしまった。ヒーリングスクールである「カレッジ」3期の真ん中、中級と上級の間の夏休み、8月のことだった。

カレッジ3期は、急に起こった自分自身の変化を反映させた章がテキストに幾つか追加され、また、1期を行いながら構築していったフルで1時間の「虹と大地の瞑想」を、知人の作曲家に頼んでオリジナルで音源化し、CDの形で仕上げた。つまりカレッジとしてはここで完成を見ていた。今振り返ると、カレッジだけではなく「新たに作る」「広げる」というエネルギーはその夏までの、前半の8年に凝縮されていたのだと思う。今整理してリニューアルしているオリジナルワークも、その頃までに原型が出来ていたり、情報を既に受け取り終えていたものばかり。その後のマスタークラス、ジェネシス、プラクティショナー育成も然り。

山のピークを登り切り、ゆっくりと降りながらその山を去るために整理をしている。2015年の夏からはそんな歩みの中にあった(当時は自覚なく、自分もやや混乱していた)。このブログを作った頃は、最初に記事に書いたようにまだ名前もなく、この先の表現活動を何と呼ぶべきか分からなかった。が、最近ふと「メタスピ」(「スピリチュアル」を超えたもの)で良いんではないかと思いつく。

そして昨夜、自宅でのこと。

デスク脇の小さなアンティーク風の棚の石は、手にとるというよりは置いてあるだけで高周波を発する「装置」のような位置づけが多い。シュンガイトやヌーマイト、メテオライト、サルファーなど。そのコーナーから珍しくグリーンアパタイトに引きつけられ、何となく手にして階下での夕食に向かった。部屋に戻り、元の位置に戻した時に側にあるシチリア島のサルファーを落としてしまった。が、何とも思わずそのまま明かりをつけずに、薄暗い部屋で瞑想し、就寝。

今朝起きて、朝日を浴びているデスク上に、レモンイエローのキラキラしたものが散らばっているのに気づいて、状況を察した。そうだった、サルファーは脆い。忘れた訳ではないけれど、近距離でちょっとした高低差だったのに・・あたりどころが悪かったか。同時に悟ったのは、昨夜はアポフィライトに呼ばれていた訳ではなく、それを戻す時にサルファーを落として欠けさせるというセレモニーが、必要だったのである。昨日、一昨日と、シチリア島サルファーが2014〜15年に関わって起きた「ジェネシス世界観」にまつわる一部の情報について、プラクティショナーさんへのメールで触れていたところだった。

その関連は、こちらよりも右脳的なブログ「アルガンザ・アップデート」で後日、記事にしようかと思う。それは秘教的・神秘的な水面下の流れであるとして。以前同じサルファーが粉々になったという記事を書いたっけ、と自分の古い記事アーカイブ「パサージュ」を覗いた。こちらの記事:

これを読んで当時と今を同時に比べた時に、上に書いたように2015年8月に起こったキッカケから、既に山の頂上を去る歩みが始まっていたことに気づく。この記事は同年9月13日に書いたもの。丸々一つ、約3センチ四方のサルファーが割れてしまっていた。

今までも、ただならぬ変化は2017年から、も少し視点を変えると2016年から・・と書いて来たけど、確かにグラマーが醒めるという経験をしていたのが2015年8月であり、カレッジ体系の完成も同じくその頃だった。この、興味ない人々にはどうでも良さそうな話---私の仕事の背後にあった設計図が(笑)、私自身に思い出させられたことによって・・実はこちらのブログにとっても、小さからぬテーマであった「今後の新たな表現方法を何と呼んでいくべきか」の答えを見つけることに繋がった。

古い記事の粉々のサルファーの画像を眺めていたら、「新しいエソテリシズム(神智学)」=「水瓶座時代の New エソテリ」と、頭の中で響いた。「エソテリ」と外来語を途中で止めるといういい加減さ、ユルさが、新しい日本語っぽくて良いではないか?

皆で流行らせましょう。。。笑

天才たちが集った100年前のムーブメント「神智学」が、現代と調和しながら、「秘教」ではなく「常識」になっていく日を夢見て。それは世界平和、地球環境、人類の進化、全てにとって持続可能な流れに乗せていくための「必然」のように私には思われる。いやいや地球など、人類など壊して終わらせたいのだよ・・という意見の持ち主以外の、すべての人々にそれが伝わるように。怪しいものではない、秘められたものでもない、日本的に混乱した「すぴ」でもなく、怖いものでもない・・・ヒトという形をとって、魂がこの地上で生きていくための常識的な知恵であり、全ての人が健康と幸福のためにそれを知るべきであるし、その時代が来ているという事が、伝わるように。

「新エソテリ」「メタスピ」、どちらも使って行こうかな。

まずは、このブログのカテゴリーとして作ってみた今日。その記念を刻むべく記事を書いてみました。

Love and Grace,  Amari

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「好き」「嫌い」と魂の道

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いつもより早起き出来たので目が合った石たちとゆっくりワーク。珍しくマスタークリスタルでもトパーズでもなく、小さめの結晶たち。フェナカイト、スキャポライト、タンザナイトに、パープルサファイア。それにしても、昔から人に私のイメージ、と言われることも多いけれど、青紫、タンザナイトの色はほんとに落ち着く。セントジャーメイン、インディゴチルドレン、と言ったところか。

さて、皆さんは食べ物の好き嫌いはどれくらい、あるでしょう 

ヒーラーとして、人間としての経験上、やはり食べ物の好き嫌いが多い人は、チャクラのバランスが悪いと考えるに至っている。アレルギーや、体質的に受付ない・・という事は除外しての話で。大概は、子供の頃に苦手だった食べ物(野菜、薬味、香りや味の強いもの、食感が独特のもの、強めの調味料など)を、そのまま食わず嫌いしているケースが殆どと思う。

子供はまだ、味覚の器官、味蕾が完成していないので、苦味・辛みなど味の強いものは食べられない。ここで、親が成長に応じて、チャレンジさせて「あ、美味しい!」と知る機会を作らないと、ずっと嫌いなまま大人になってしまう。

うちは若大将にもたびたび、昔の思い出として言われる独自の教育(=「ママ部」とあだ名されていた・笑)の中で、小学六年生くらいから、「好き嫌いは克服せよ」と言って、幼い頃から「嫌い」と言っていたものを食べるように促したり、例えば、なぜ、寿司にはワサビが必要か、昔の人がなぜこの組み合わせを考えたかについての講釈をたれ「寿司にはワサビが必要なのである」と理解させ「文化として慣らす」など、試みたものだ(笑)。結果、娘は小さい頃は食べれなかったものの多くを、食べれる大人になった(&ママのお陰、と感謝もされている)。

私の母は厳しくない母だったけれど(-- 私も親として厳しいという訳ではない-- )、私はなぜか成長段階で自分自身でこれをやっていて、体が受け付ない青魚や生臭いお肉系以外は、何でも大丈夫という大人に気づいたらなっていた。。故に、娘にもその手法を受け継いだというわけ・・ 幼少期から無意識に「修行好き」だったよう。自分が変化していくこと、苦手を克服していく事に、喜びを感じたのだろうと自己分析。

食事に行くと、嫌いなものを避けるのが大変、という人も割と居るものだけど、そういう人は人間、他者についても苦手が多くて、結果、人付き合いがストレスになっていたりもする。

メタフィジカルが目指すところは「バランス」であり、あらゆる囚われから自分を解放していくこと。嫌いなものを避けて心地よいほうへ向かうのではなく、外側の変化で自分を満たすのではなく、自分自身の心の力で常に、幸福を生み出せるように変化していくことが問われる。

ライトボディの作りとして、内側(ひいては肉体)がエネルギーで満たされないと外のオーラの活性が始まらないという仕組みがある。それゆえに、体、食べ物や行動から始まって、感情、意志・・と、順番にコツコツと自分と付き合いながら、「良いものを入れて」「良からぬものを排出する、以後は取らないようにする」という道を、歩き続けるものなのだ。何のために・・って、「幸せ」のために。見せかけや、一時的な幸せではなく、本当の幸せのために。

肉体で感じた幸福感(食べ物などもココ)は、外側のオーラにも少しの影響は与える。同じように、感情体・メンタル体で感じた感情や思考レベルの情報もまた、魂の領域である外側のライトボディにも響いていく。けれど一時的なもので、それら下位のサトルボディ(オーラ)での働きは常に、反作用の可能性を宿している。「好き」があれば「嫌い」があり、「満足」があればまた「不満」がやってくる、という具合に。

内側の体を安定させ、(感情や食べ物ばかりでなく)エネルギーで満たしながらも、扱うテーマ、意識を向ける焦点を徐々に外側のライトボディ、魂領域、精妙な宇宙領域へと向けていくように移行していくのが本当の幸せを目指す本物のメタフィジカル(スピリチュアル)である。徐々にブッディ、アートマ、そしてモナド体へとフォースがまわっていくようになると、そこにはもう「好き」「嫌い」の感覚も消えていき、自分個人の執着よりも、世界全体の秩序、宇宙や自然界の法則の中に生きるということに意識が向くようになる。=これが宇宙に言う「愛」である。宇宙という秩序の中に融けることを「知っている」状態。

ライトボディはどの層も綺麗に光を湛え、影や隙間や偏りや滞り、エネルギーの流れを悪くするものがない状態を目指していく。ここでようやく、魂は「幸福感」で完全に満たされる。肉体からモナドまで。フィジカル体から、七つ目のモナド体まで。 関係ないようでいて、関係があるのが肉体レベルや感情・思考レベルの「好き」「嫌い」。この偏りがあるうちは外側のライトボディへの活性に進めず、真の幸福にはメカニズム的に至れない。

けれど個々によって性質・体質は違い、自分なりの「バランス」を掴んでいくことが重要。その「自分なり」を知り発見するにあたって、欲望や感情などのエゴを入れないことも不可欠であり、そうなると、常に浄化と純化を続けるのがメタフィジカルだと気づく。そのための手法を、自ら持っていなくてはいけない。レイキやヨーガや瞑想、危険ではない、他者に利用されない何らかの信念、知識、魂まで扱える、かつ現実・肉体を疎かにしないヒーリングメソッド。

好き嫌い、食わず嫌い がたくさんあるという人は、まずはそこを見つめてみよう。変化・成長・進化できない理由がそこに隠されているかもしれない。

Love and Grace,

Amari

不可視の相互作用とヒトをめぐる外部の力

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ウリエルとピュアレイのブレスたち。以前 ショップの Instagram に載せた画像ですが、なぜかウリエルの気分だったので、再び。

Face Book 7/27 に書いた文章、あまりに長いのでこちらの記事にすることにしました。前回と同じくですね(笑)、そのため文体がFaceBook仕様で「ですます」調に。場所が広くなると気持ちが大きくなって、編集・追記により文章さらに大分長くなっています。Face Bookで一読いただいた方も、ぜひお読み下さい。

・・・・・・

(Face Book に書いた「とある珍しい光景」に遭遇した後の、続きをこちらに書きます)

帰路の途中から、左半身の気配がおかしくて、帰路のなか色々ワークしましたが外れないうちに帰宅。何となく切り替えて過ごして普通に就寝したら、夜にうなされてしまいました。カルナのシンボルや、魔除けの究呪を唱えているうちにうつらうつら。すると、透明で黄色がかった人型のエーテルのようなものが、左側から私の体に入って来ようとするのを感じて、瞬間でセイキムのマントラを唱えると同時に、意識でそれを吹っ飛ばした・・

こういう体験、全く無い訳ではなかったのですが久しぶりだったので焦りました。少し違うけれど似た様な事は、まだヒーリング初心者だった頃にオーラソーマのボトルを初めて「体に塗って」みた夜、ゼリー様の弾力のあるエネルギーが入って来ようとするのを感じて(大天使ボトルだったのですが)怖くなり、それ以後、ボトルは観賞するのみで、体に塗らなくなりました。また、10年くらい前にモルダバイトの原石を2つ手にしたまま寝てみたら、同じような体感があって、やはり「怖い」と感じてしまった。

けれど、いずれもエネルギーの響きのようなものがオーラ層に作用して、さらに肉体に最も近いエーテル体に降りて来た時、人より少し敏感な私はそれを感知して飛び起きてしまったのだろうと、解釈しています。入って来ようとしたのはバイブレーション、振動のようなものだったので、今思えば。けれど今回のようなケースは、明らかにヒトの形をしていて、仰天しました。故に、ヒト、(のエネルギー)だったのだろうと思います。

アストラル体のフォースが強い人は、感情を強く出力した時に、敏感な相手だとズシっとその粒子の到来を感じ取りますし、感情エネルギーは肉体で影響される事が多い。重さを感じる、体調を崩す(来ている感情に攻撃性がある場合)、という形で。チャクラの体の裏側の力(回転)が弱いと人の感情を自分に入れてしまって、自分の感情と錯覚してしまったり。

この、アストラルにパワーが強めに入っている人は、本人が深く眠っている時にアストラル体が旅に出てしまい、執着している相手や、強い感情を持っていたり気にかかったりしている相手のところへ行ってしまう。そう、源氏の六条御息所です。私のような仕事人だと、相手の響きも感じるので包み込まれて不快さで目を覚ますと、「自分がまるごと相手の姿になっていた(起きた瞬間そのように見えた)」(!)という事もありました。恐る恐る、翌日ご本人にその時間帯に何してたかと聞いたところ、「気を失ったように寝ていた」という返事。やはり六条御息所です。

本当に旅をしてしまう人って居て、おそらく自分でも異変に気付いたりもすることと思います。人を念で動かしてしまう、というタイプの人は要注意。どうしたらいいのでしょう?赤い力が強い、という表現をアルガンザではします。青い力で中和、鎮める、メンタル体にエネルギーが移行していくように、瞑想などすると良いと思うのですが、こういうタイプの方々は瞑想が苦手で、波動が高まるとすぐに寝てしまうという特徴も共通してあります。この体質を努力して変えていった方が良いでしょう。アストラルがお散歩する可能性が高い体質です。

逆に、青い力、システム上方のパワーが強い人だと上のチャクラ、サードアイから思考波のようなものが相手のフィールドに電波的に性能良く飛んで行くので、相手が無意識に受信して人それぞれで何らかの反応をする(相手の体質、状態、組み合わせによって起きることは変わる)。浄化のされ具合と言ったらいいか、人間同士のアストラル(動物的)やメンタル(電気・電波的)物質のやりとりというのは、どれだけアストラル体やメンタル体(もちろんそれよりも下位にある肉体、エーテル体含めて)が浄化され、軽やかになっているかどうかで、起きることは変わってくる。

ただ、いずれにせよ、言葉や対面では現れないエネルギーとしての「やりとり」は常に、繰り広げられている訳なのです。

こういう仕事(エナジーワーカー)をしてくると、その時々で何が起きているかを分析しつつ直観しますが、間違いがあってはいけないので、最初は控えめに取り扱い、繰り返し、繰り返し、似たような事が起きると、腰を据えて分析して何らかの結論を出さなくては、という段階にギアチェンジします。

今回のことも、相当な複数回の体験を繰り返して来た後の、今の見解なのです・・・(と、何となく前置き、説明を加えた上で、当日の話に戻ります)

コレクションの中でも大きめのトパーズと一緒に寝ていたのも、良かったようです。侵入は防げたものの、翌日は終日、左半身の異変がつづき、また思考パターンのようなものが明らかにおかしい。これまでの経験で色々とわかっているので、エナジーワークで対処して1日で影響は外れましたが・・このように、エネルギーの不穏な事象が起きると、必ず、思考をハッキングされるような自覚がいつもあります。こういったこと、気付かずに影響されている人々が、きっと多いのではないかとも、思っています。

実際に起きたこととの関連性はわかりませんが、何かある時というのは、同時多発でネットワークを通じて、同じような響きを持つ人や事象を動かして来たりもします。全く自覚のない普通の人が、そのネットワークの一端になることもあります。

以前、電車で隣に来た人を「なんかイヤだな」と思ったら、その人が遠慮する様子もなく激しい咳を怪しい程していて、滅多に風邪など引かない私がひどい風邪をひいたことがありました。その頃サロンで起きていた事や不穏な事象が、呼吸器系に故障を起こす傾向のあるエネルギーであることが、今では分かる。例えばそんな具合に。

ネガティビティの系統はいくつかあり、日によって、同じ系統のものばかり見かけたり出くわしたり感じたりもします。

今回の、「人型をした透明な黄色いエネルギー体」は等身大のサイズだったので、アルガンザでいう「黄色系の宇宙エネルギー」の、大きなものと繋がって動かされてしまっているヒト・・の、アストラル体がやって来た、という解釈をしました。「大きなもの」とは、去年ようやく明確に知ったもので、本当にビルごと包まれるくらいに感じられる巨大なエネルギーです。ジェネシスヒーリングの概念に導入していますが、今は割愛します。。上記の人型エーテルが来るよりも少し前、その巨大なエネルギーも、やや久しぶりに降りて来た日がありました。明らかに違うものであることはもう既に、繰り返しの体験から分かっています。

稀ですが、神社に行くとその大きいエネルギーが祀られていることもあり、日本は縁が強いよう。ある意味で「愛」のように感じるのですが、(言いなりにならず)先方の目的から外れると、一転してネガティビティに変わる(ダークな力になる)ので、やはり繋がってしまっては、危険だなと思います。同じところをずっと、のどかに回っているようなあり方をしている間は、その力は母のように包み込んで、色々よくしてくれるのです。ただ本当に、ずっと同じところを回ります・・・サロンをやりながら見て来た多くの事例から、時間をかけて知った事でした。

「母」のフトコロで成長せずに「子供」のままで目覚めずに居ることを望む原型エネルギーで、人類の中にもそれは遺伝子として既に入っていて、人によって濃淡があり、濃い目の人はチャネルになってしまう傾向もある。包まれたままヒーリングその他の仕事をしている人々もいることでしょう。そこでは、「成長せずにグルグル回る」状況が続きます。

やはり「降臨」した後は、思考やエネルギーがおかしくなります。起きていることに気付いてエナジーワークで対処しようとしても、影響が完全に抜けるまで数日かかったりしますので、一般の人々が体調を崩したり、人間関係がこじれたり、わけもなくUpdownしたり、思考が自分らしく無い時期があったり、の背景には、様々なネガティブな力が働いている可能性があります。

また別の種類の、情報操作、思考操作を起こして人と人を争わせる系統もあります。驚いてしまいますが、瞑想でのヴィジョンや体感、インスピレーション、などの中にもその操作が入り込んで来て、情報、感情、思考を書き換えてしまうようです。それはかなり高度な場合ですし、私が関わって来たジャンルでは起こりやすい特殊な例と言えますが(集まっている人々がもともと直感的、ヴィジョンをよく見る、メッセージを受け取る、などの能力が拓けているから)。・・けれどやはり一般レベルで、大なり小なり、影響を受けていると思われます。

 

人間は、電波のようなものを常に持っていて、無意識に発していて、別次元の存在から見ると周波数の高低や種類などが、魂レベルでも人間レベルでも、その時だけの機嫌の良し悪しも含めて一目瞭然なのですよね。ゆえに、その時に「使えるものを使う」

逆に言えば、自分が良からぬ力に使われないためにも、常に良い響きを発していれば、ネガティブなチャネルにされることはない。悪意のない「ごく普通の喜怒哀楽」のつもりでも、怒りや妬みや執着などがよぎっていく時、貴方はネガティブな力のネットワークの一員になってしまうかもしれない。

サロンを長年やってくると、様々なエネルギーの動きを事象の中から感じ取ります。見えない次元が介在して、そういう事をぐるぐると繰り広げているのが、人が生きる世界。人間の遺伝子の中にもネガな周波数と響きあうタネが、誰にでも入っているので、それを浄化していくことなしには、世界は変わらないのです。

「人間らしくて良い」??

ネガティブな感情、思考、怠惰。 それは実は、人間自身のものではないものも、大いに混じっているかもしれない。

 「今日だけは許して」「たまには良いじゃない」??

耳元で囁いたり、エーテル体やチャクラに侵入したり、ハッキングしてきた電波によって、他者を傷つけたり、人の何かを損なうことことの一端になっていたとしたら?

それでも、カルマとしてデータが残り、それを償却しなくてはいけないというマイナスの課題が自分に増えてしまうのです。

自由意志、自由だ、というつもりでも、実はそうではない。ただネガな見えない力、ネットワークに動かされているだけかもしれない。・・・という部分に、もっと人間社会が敏感になる時代が来ると良いなと思っています。そうしないと、利己的な社会で人間同士が幸せの邪魔をし合う連鎖が終わらない。

 

ある哲学者が言っていました。人間は生まれながらに自由である、と。それを意図的に(アメリカ的な)自由を行使してきた結果が、今の物質主義の極みであると。多分、ヒトは、自由すぎてはいけないのです。

道徳や善意の重要性を最近の世界をリードする思想家や歴史家・哲学者などが強調しているのは、とても重要なこと。見えないエネルギー次元にも大きく関わってくるから。

心が自由でありすぎると、そんなつもりなくてもエネルギー次元で人を攻撃していたり、人をコントロールしたり、人の足を引っ張ったりしているものなので。・・・・・自分を高めて涅槃に入っているような人の「心の自由」はまた別の話ですよ(笑)

それと、現実問題として自分を縛り付ける親や社会、というテーマがまだ自分の中に残っている人、インナーチャイルドがある人は、この「自由」という言葉には過剰の反応をします。自分を抑圧するネガティブな力と、重ねてしまうので、話が交わることがありません。「〜でなくては」「〜することも必要」などの大人としての話を全て、強要されるように感じて反発してしまうものですが、それでは上に書いたような話は耳に入らず、平行線となります。

自分が自分を運営しているという「大人」たちの、次のテーマ、「人間社会や世界をよくして未来を維持していくには?」という次元の話をしている、という大前提を、最後に付記しておきます。エナジーヒーラーとして来春で15年。人と魂と感情とエネルギーと、背後にある高次元と、横から入り込む別次元。その難しさを見せられた年月でしたが、

クリシュナムルティの言うように、全ては自分の内側にしか存在しない。それも事実ですし、マルクス・ガブリエルの「世界は存在しない」もまた、真実であるように思います。ただ他者がいなければ経験することが出来ないので、他者という自分の断片をちりばめている。自作自演のような、魂の体験フィールド。その中で、全ての魂が目指していくものは一つに、決められていると思います。色々あって良い、という事ではないのだ、と。

その、ひとつの潮流、向かう先、流れの方向の話をしていて、ただそこに向かいましょうと言ったとしても、それぞれが立っている場所からは、色々な方向に道があるように見えてしまう。そのように人間を複雑にしているのは、辿ってきた歴史の中に理由がある。ちりばめたものを回収して、四方八方に見えている道がひとつひとつ、消えていった時に、ただひとつの潮の流れというものが、ようやく見えてくる。

そのためにヒトの魂は、どれくらい生まれ変わるのでしょう? 何百? 何千回・・かもしれない。

Love and Grace,

Amari

アルガンザ:http://www.arganza.jp

「持たざる者たち」のララバイ

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おはようございます。霧雨が新緑を潤す、静かな朝。2月に引っ越した家は「昭和レトロ」なのですが、私の部屋は「大正モダン」?です。サロンのお下がりのアンティーク家具たちゆえに。障子を少しだけ開いて仕事をしていますが、木々の緑が迫って来て、それだけでもハートが癒される感じがします。あえて緑を見ていただくために影になるよう撮ってみました。
 
最近思ったことの徒然メモとしてフェイスブックに書いていたのですが、余りに長くなってしまったので、こちらに載せることにします。その為、いつものこちらのブログの口調と違って「ですます」調ですが、直すのも何なのでそのままに。笑
 
批判目的ではないので、ジャンルは明かさずにおきますが、10年以上前に好きで買い物をしていたショップがありました。そのお店をキッカケにその道に目覚めた、という感じで。オーナーさんはメディアの取材も受けていたり、メルマガなどを綴っていたりして、買い物する立場としては何となくごく自然に、お名前やお顔も印象に入ってくるという感じ。
 
優しさや真面目な職人気質が伝わってくる、お人柄が見えてくるサイトやラインナップや文章、そして商品に、その世界全体に素直に引き寄せられていくような気持ちでした。・・が、1〜2年くらい経つと、似たようなお仕事を、さらに勢いをもって展開する同業のショップが私の目についてしまい、
 
一見すると華やかで、ヴァリエーションの広がりに魅了されるように、今度はそちらのお店を利用するようになっていました。それから数年が経ち、先にあげたお店を探したところ、活動をすべてクローズしていて・・勝手な、本当に勝手な推測なのですが、業界の中で成功された後の、裏の反面を体験されて、真面目で優しい気質の方の心が折れてしまった?体調を崩してしまった?のではと、頭をよぎった私でした。
 
あまりにも思い切った、幾つかの実店舗やウェブすべてのクローズ、だったので、ヒーラー思考でついついそんな風に考え、他の店に気を移した自分のようなファンも、多くいたのかもしれない・・ことに、胸を痛めました。
 
おそらく先駆者としてのその方の背中を見て、取れるところを取りつつも、その方の生真面目さ、人の良さから展開している丁寧な活動の中には広がりにくいような部分で消費者のニーズを捉え、そこを満たして、バババっと勢いよく事業展開した二つめのお店。気づけばメディアにもそちらのお店のほうが取り上げられるように、確かに途中からなっていたよう。
 
様々な個性が存在する中で、(私含め)消費者はそのように反応するので致し方ないこと・・・とは思っていましたが、気を移したほうのお店で買い物を数年してくる中で、「あれ?」と想うことがあり、それでも「まあいいか」と、利用を続けていました。それが、今年の4月にちょっとした体験をしたのです。
 
すべてをクローズしたお店のオーナーさんが、形を変えてご自身の活動を再開されていたことに偶然気づいたのは去年。まったくの直感で、気づけばかつてのお店の名前を検索してみたその日。数年の間に同じようにしてみても「閉店しました」という画面が出るだけだったのが、新たな情報発信のページが表示されて、本当に嬉しく思いました。
 
去年のその再開から、何度かお買い物させていただいて。うちの娘でも、「商品から伝わってくるまごころみたいなエネルギーが全然他とは違う」と言うくらいの、良いお仕事を相変わらず、なさっています。
 
一方で、数年間、そのジャンルはそこでしか買わないというくらいに利用していたもう一方のショップさんを4月に利用した際に、手違いがあり、顧客としては1万円弱損をしてしまう状況だったので、問合せをしました。何度か・・けれど、お返事が無かった。この時にふと、霧が醒めるような体験をしました。グラマーが晴れるというか。
 
確かに、同じような職人仕事をアピールしている。お持ちのバックの力をうまく活用し、スピーディに魅力的なものを生み出している。から、消費者の目には華やかに映る。けれど、そう言えば、「顔が見える」わけではなかった。ブログやメルマガはすべて、どなたが書いているかわからないし、10年くらい買い物をしているのにオーナーさんの名前が表に出ることもなく、ましてお人柄などは全くわからず。
 
ただ、メーカーとしてのこだわりや取り組みについてはかなり力を入れて発信されていた。ようやく気づいたのですが、ほとんどをネットで買い物をしてきた私が個人的に気に入るお店や会社では、家具屋さんでも、雑貨屋さんでも、洋服屋さんでも、ワイン屋さんでも・・代表の方が表に出て、商品に込めている思いを伝えている。いわゆる「顔が見える」ところばかりでした。
 
すでに大きく、組織化しているというだけなのかもしれないけれど、同じジャンルで、同じようなものを販売されていても、見えてくるのが「組織」「技術」しかなかった。その時、4月に買い物をしたアイテムも気には入っていましたが、試しに、前者のお店を覗いてみると、同じような素材・色のアイテムが出ていたので、儀式的な意味で、そちらも買うことにしました。
 
私はよくそういう「儀式」をするのです・・今書いてきたことが、まったくの勘違いで、前者のショップの閉店の理由も状況も違っていて、後者のお店がブラックかもしれない?!という疑惑(笑)が何かの行き違いだったかもしれないとしても、深いところでコンセプトなどに共鳴し応援していた顧客だったのが、見た目の華やかさ(仕事はしっかりしていた)で他に気移りしていたことは確か。それが消費者としては普通のことであったとしても、結果としてまっとうに自分の道を正しく行っていた人を追い落とすような流れに自分も加担していたかもしれない?という可能性に、お詫びも込めて。
 
損をしそうな件はもう諦めて、代わりに後者のお店とは、サヨナラすることに決めて。気づけば、もう十分足りているではないか・・ついなんと無く、その華やかな発信力に、コレクター気質の私は随分とコレクションしてしまったのだ、もう、終わりでいいということだ、とも。
 
そしてこんな個人的な現実体験を、ここで語るつもりは無かったのだけど、ずっと前に見ていた「チャングムの誓い」の中の一場面がどうしても、この一件について考えていると頭にちらつく最近なので、同じくショップオーナーとしての自分への教訓としても、ここに刻んでおこうと思いました。「チャングム」の一場面とともに・笑。
 
宮廷で王の食事をつくる料理担当女官になるべく、修行中のチャングムに、師匠の貧民出身の上級女官である「ハン尚宮(さんぐん)」様は、山に行って数種類の湧水をとって味を覚えろとか、100種類の薬草をとって来て研究しなさい、などの体を使った学びをさせて、素直に励むチャングムは味を体感しイマジンできる料理人として、才能を発揮していきます。
 
そのライバルの「クミョン」は、それに気づいていて、自分もそのようにして学びたいという気持ちを抱いていると、叔母である(一族代々、最高尚宮を務めてその座を狙っている)チェ尚宮により、諭される。「あんな修行をするのは、『持たざるもの』たちだからだ。我らには代々に伝わる知恵がある」と、数代にわたって料理女官のトップを務めてきた一族秘伝の書物に、頼ろうとします。
 
ドラマとしては政治的にはチェ一族が暗躍して一時的に勝ってしまうのですが(最後には滅びます)、職人としては無論、チャングムが・・というか師匠であったハン尚宮様の教えが勝利するわけです。色々な神話や物語でもすべてそうですが、所有しているものの上にあぐらをかいて、そのテクノロジー的な勝利でしか物事を見れなくなっていたら、その時点で真実の世界ではすでに負けてしまうということ。
 
様々な物語の主人公たちが、最初は「持たざるもの」であり、這い上がるように体験するトライ&エラーの中で培った実力こそが、本物であり、紛れもない愛を宿した何かがその仕事や人生に実るのだということ。
 
チャングムを見た時からこのチェ尚宮の「あんな修行をするのは、『持たざるもの』たちだからだ。」のセリフにはとても反応していました。ハン尚宮様のほっそりとした優し気なたたずまいと貧しかった料理上手な少女がそこまで登りつめた、けれどいつまでも、悲しいくらいに優しすぎる姿に共感していた一人として。放送時はチャングム人気とともに、ハン尚宮ママニームのファンクラブも出来るほどだったそうです。
 
話が逸れましたが・・同時にこれは人類全体の行く末にも関わるテーマだ、と。歴史学では、物質的に豊かで戦争がない平和な時代がつづくと、人間は精神の上で腐敗していき、その文明は滅びると言われている。
 
個人の人生においても、同じことです。むしろいつでも自分自身を「持たざるもの」と心得ておくのがよろし、と想う私です。
 
Love and Grace,
Amari
 

 

壁に書かれた祈り「それでも」

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pyrite heart


人々は、理性を失い、非論理的で自己中心的です。

それでも彼らを愛しなさい。

もし、いいことをすれば、人々は自分勝手だとか、何か隠された動機があるはずだ、と非難します。それでもいい行いをしなさい。

もしあなたが成功すれば、不実な友と、ほんとうの敵を得てしまうことでしょう。

それでも成功しなさい。

あなたがしたいい行いは、明日には忘れられます。

それでもいい行いをしなさい。

誠実さと親しみやすさはあなたを容易に傷つけます。

それでも、誠実で親しみやすくありなさい。

あなたが歳月を費やした建物が、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。

それでも建てなさい。

ほんとうに助けが必要な人々ですが、彼らを助けたら彼らに襲われてしまうかもしれません。それでも彼らを助けなさい。

持っている一番いいものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。

それでも、一番いいものを分け与えなさい。

出典:カルカッタ「孤児の家」の壁に書かれた言葉『マザーテレサ A simple path』(早川書房 ルシンダ・ヴァーディ編 猪熊弘子訳)