Energy and Crystals

鉱石とエナジーワークと神智学と、生きること。

奈良旅 2020年冬 シルフィードと大地の都、エソテリ旅。Vol. 1

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テレビを見ない私でも、さすがにニュースがちらちらと目に入り、世相的には旅をするタイミングではないと感じつつ、冬の奈良へ。どうしても避けられない事務的な要件があり、最初は「代理人では?」とか「オンラインでは?」と尋ねてみたくらいだったけど、そうは行かないということで、ならば一年半振り、ご縁のある場所や以前から思い入れのある場所へ寄って来ようということに。

出発2日前に予約したホテルは平日ということもありガラガラで。去年利用した時とはまったく違う鎮まり感。さすがに観光地・奈良なので人が居ないという訳ではないけれど、いつもの外国人観光客のにぎわいが引いて、25年以上、奈良に通っている私の目には初めてというくらいに人出が無かった。無理もないけれど。私も本当は「自粛派」。

去年はやはり用事もあって二度、奈良に行っていて。確かSNS等では「ブログで旅日記を綴ります」と宣言していたけど、書けず仕舞い。もしかすると今回の記事を書きながら、話がつながって行ったりしたら、自然と去年の旅記録も載せられるかも?・・なんて淡く期待を抱きながら、今回は記憶が新しいうちに、書き始めてみよう。

ただいま、アルガンザでは今年リリースのプログレッシヴ版「エヴォリューション」の(プラクティショナー伝授は1年前に始まっていたものの)ようやく、クライアントの皆様にお届けする「ワークブック」の最初の2冊が配本できる状態になったところ。そこに至るまでの、いつもの高次が用意する試練のような流れを、執筆中の私も、ワークの現場を担っていくプラクティショナーさんたちも共有しながら、各自の修行、そして全体の潮流を体験し、関係する「サンダルフォンニュートリション」や、(来年改訂に着手する)「レムリアンセイクレッドレイキ」なども、同じ世界観の中つながり合うエネルギーゆえに動いていて、

新しい情報も多く集まり、それによって「ワークブック」の内容に手を加え、「天使」の一般概念をアルガンザ流でガラリと書き換えながらの「アルガンザ天使学」の展開(のまずは触りだけ。ライフワークくらいの難題でもあるから。)という動きも起きている。行く先々でエンジェリックな、天使の羽のような雲が、出発前の関東から、移動する先、する先に着いてくるように現れ、しばし感じ入って感謝していると、その地を去る頃には薄まって消えていく、を繰り返して。何かとても、意義深い時間なのだろうなと感じていた。

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奈良に着いてすぐ、定番の奈良公園に。近鉄奈良駅から歩き出すとすぐに見えてくる興福寺で、お決まりの「最初の一枚」。さっそく、雲が凄かった。

先日インスタグラムに書いたようにトーハクの会員優待期限がなんとこの日、最終日。少しでも活用しなくては・・と、同じ国立博物館ならば使えるので、奈良公園内の奈良国立博物館へ。仏像館、ほとんど一人で見て回る(人が少なくて)ような状態で、とても贅沢。やっぱり、飛鳥・白鵬・奈良時代までの仏像が好き。せめて平安かな、けれど鎌倉期の運慶・快慶はやはり凄いと想う。

冷静に見ていると、どんな分野でもそうだけれど、上手い人の技術の高さは卓越して見えるものだ。とはいえ、素朴な市民が彫ったらしいというものでも、良い雰囲気で引き付けられるものもある。だからこそ、博物館で大事にされているのだろう。

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雲が向かっているのか、そこから現れている(ように見える演出?)のか、大事な御蓋山(みかさやま)のフォーカスを予感させる。20歳の新人会社員時代に大和路ひとり旅を初めた時も、幾つかフォーカスしていたテーマのひとつが春日山付近の古代祭祀で、中途半端であまり深く掘り下げないまま年月が・・(27年も!)経っての今だけど、去年の奈良旅では、ここ10年くらい寧ろ避けていた春日について、「和解の旅」とか名付けて、興福寺の薪能と合わせて心をオープンにして臨んだ。ところが、ひとりよがりの「和解」設定はまあ、良かったものの、拮抗するエネルギーの厳しい逆流があり、やはりそう簡単な問題ではないのだなと痛感して帰って来ていた。

あれからそのテーマもすっかり忘れて、今回何も考えずに用事のために出向き、優待券を活用せねばという三次元思考で奈良国立博、に行ってみたらば、特別展示で「春日大社の祭祀」を取り上げていて、呼ばれた感じもし始めた。展示そのものはどう、ということでは無かったものの、「そう言えば主祭神はタケミカズチだなあ」「ヒタチの国から鹿に乗って御蓋山に降り立ったという伝承だったなあ」と考えていると、

昨年こころみた「和解」旅のカラクリ、個人的な魂の影響力などが解けていく予感がした。若い頃に春日山周辺に思い入れていた理由は、巫女らしい女性たちや女神系エネルギーの気配があり、恐らく縄文時代〜ヤマト国により再編成されるまでは、古来の神奈備だったに違いないし、なぜ神様が(栗本慎一郎氏が、縄文以来の本来の日本、ヒノモトの重要地だったと表現している)ヒタチ(茨城県)から、奈良に移動してしまったのだろうかという事を考えると、古代史に詳しい人々ならば言わずもがな、ご存知だろうけど・・藤原氏の台頭の影響によるもの。もっと言えば、藤原氏による、蘇我氏の権力・土地・神話・バックの神様 の乗っ取り・・というと言葉が悪いか・・・「成りすまし」・・もっと悪いか、まあ、そういう事なのです。(笑)

どこの国の歴史でも、いつの時代でもあることで。もちろん色々な考えの人がいるし、私は古代に興味を抱いた20歳ころから色々と読んで来た中で、エナジーワーカーとしての経験、体感や直感などもともに、ここ数年は、栗本氏の著書で展開されるソガ=イズモ(日本海側の広い範囲)、アズマ(東国・東北の広い範囲)の首長的な存在だったという説に、賛同している。もちろんルーツは、古来言われて来たように「渡来人」だとは思うけれど、早い時期にやってきて、ネイティブの縄文の部族社会と仲良くしていたのだろうと。

話が逸れたけど、

何か偶然ではない、博物館での「春日祭祀」に誘導されるように、翌日の午前中は春日大社の奥の方へ、行ってみようとふと思いつく。

そして明くる日。まずは、ホテルからバスで奈良公園エリアへ、「春日大社参道入り口」で降りる。本当はもっと大社に近いところまで、歩かずにバスで入りたいと思っていたところ(午後に大事な用事があったので体力温存のため)・・その路線が本数が少なく、「入り口」バス停を利用することに。けれどお陰で、昔は大好きでよく行っていた「飛火野」エリアを満喫できた。広大な芝、春日原始林から継続的に点在する森の巨木たち、鹿たちもここでは広々と群れで広がっていたり。そして、大事な神奈備も背後に見える。

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2007年、家族がこの近くで大変な事になり、救急車を呼んだ。遡ればもっとずっと前、若い時分の旅でも、何度か「問題」が起きたり、ヒヤっとしたり、という経験が春日の森、春日野ではあり、2007年の一件から、以前の思い入れは引いて「近づきたくない」という気持ちが続いていた。去年の「和解」を経てもまだ、今思えば少しどこか、心を開けない感覚が残っていたのかもしれない。

今回、直前までのスケジュールが過酷だったので、一切計画を立てず。ただ博物館だけは行くというラフな予定から、結果的に誘導されてみると、この日は本当に世界が美しく違う次元に居るようで不思議。空気の粒子が違うというのだろうか。それでもヒーラーとしてこの数年、様々なエネルギーの拮抗を「研究」してきて、そうそう簡単に喜べない、簡単に解決するとは思えない、という構えが出来ていた。だからこそ全く期待をせずにふらりと向かう旅だったのが、良かったのかもしれない。

顕在意識ではよく分からないけど、何か過去生に関する記憶、更にその原型はアルガンザの「ジェネシス」概念で言う、「ジェネシス層」のいろいろに由来・起因している何かが、奥へ、奥へと登っていくにつれて解けていくようだった。春日のいわゆる「大社」は御蓋山の中腹にあたるそうで、今回インスピレーションを得た大社よりも奥のゾーンへ足を進めることにした。

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飛火野で遭遇した、「鹿寄せ」という楽しいイベントは動画をフェイスブックに載せたので、良かったら覗いてください。

 

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大社にももちろんご挨拶に立ち寄る。ちょうど御神事の最中で、琴と横笛、祝詞と巫女さん二人の舞の美しい場面にも遭遇。

御蓋山自体は神が降臨した聖地。ということで「禁足地」とされていて、一般ピープルはここから拝んでいいよ、という「遥拝」の場所が幾つかあり。その他、たくさんの摂社に出会いながら。

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神社として、オヤシロを建てるようになったのは6世紀に朝鮮半島から仏教が伝来して、お寺という立派な建築物に圧倒されたヤマトの人々が、祭祀にも建物が必要だと考えるようになったから、と言われている。それ以前の神祀りは、きっとこんな風↑だったのだろうな、と思う。木々や岩を神なる場所として区切って、祭祀を行う。

これまでは自分の中に色々な区別、識別が起きていたのだろうと思う。今回、この春日の山の中腹や、森の中を歩いていて、「三輪」を感じた。20歳の旅で「ひとめぼれ」して通い続け、10年以上過ぎてからその麓に移住し、四年間住んでいた、三輪。

一方で、何かこう、興味を持って通いつつも、自分との相性の悪さを感じていた春日。けれどその幻想がスルっと外れて、「ああ、同じものだ」と腑に落ちたような瞬間があった。相性が悪かったのは、その地ではなく、歴史の断片、一側面、確かにそこにあったマジカルな力と、それが自分の過去生や、持っているエネルギーと出会すと実際に作用していた拮抗するもの、それが顕現して現象化していたこと。

人の感情にヒーリングが起きるのと同じような体験を、その土地、歴史的なテーマにおいて、体感したようだった。ただ、あるのは祝福と、光、感謝だけ。間に分け入って邪魔をするエネルギーにより、仲違いさせられていたような・・・喩えて言うならば。

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そんな訳で、今回は三輪には行かなかった。その必要が無かった・・・春日で、三輪と会っていたから。

そして!

面白い「落ち」もある。旅から帰って来て一晩過ぎて、翌朝気がついたのは、実は私、自宅のある神奈川県、サガミの国のアースワークのためにあれこれと調べたり、ソフィア他、クリスタルでワークしていた中で、つい最近「これは春日信仰について調べないとな」と思っていたのだった。信じられないことに、旅の道中、まったくその事を忘れていた。けれど春日信仰の中心地、春日大社と春日山には行っていたという。笑

昔から変わらないこの天然振り。ここが高次と仕事をする上ではきっと大事なのよ〜・・ある種の才能なのよ〜・・と、自分に言い聞かせてみたり。

そうそう。もちろん、春日信仰という言葉によって私がイメージしていたのは、縄文の石器時代の人々による太陽崇拝=春分の日、春の太陽(春の日・カスガ)、にまつわる信仰のことで。春日大社がタケミカズチ神を主祭している、というのとは内容が違う。ゆえに春日大社に行きたかった訳ではなくって、春日信仰がおそらく縄文の人々によって行われていた一つの拠点であった春日山、御蓋山に行き、その空気を体感することが、ポイントだったのだろうと後からしみじみと理解する。さらに、その地で「三輪を感じた」ことにも深く納得。三輪山も同じように、縄文の人々による太陽崇拝の拠点であったのだから。

時間がないのと体力的にもかなり問題がある中、ただ導かれるまま駆け抜けたような旅だったけれど、とても重要なエネルギーの動きがあったと感じている。

長くなりそうなので、幾つかに記事を分けることにします。

今日はこのくらいで。〜〜「つづく」〜〜

Love and Grace,

Amari