壁に書かれた祈り「それでも」
人々は、理性を失い、非論理的で自己中心的です。それでも彼らを愛しなさい。
もし、いいことをすれば、人々は自分勝手だとか、何か隠された動機があるはずだ、と非難します。それでもいい行いをしなさい。
もしあなたが成功すれば、不実な友と、ほんとうの敵を得てしまうことでしょう。
それでも成功しなさい。
あなたがしたいい行いは、明日には忘れられます。
それでもいい行いをしなさい。
誠実さと親しみやすさはあなたを容易に傷つけます。
それでも、誠実で親しみやすくありなさい。
あなたが歳月を費やした建物が、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。
それでも建てなさい。
ほんとうに助けが必要な人々ですが、彼らを助けたら彼らに襲われてしまうかもしれません。それでも彼らを助けなさい。
持っている一番いいものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。
それでも、一番いいものを分け与えなさい。
出典:カルカッタ「孤児の家」の壁に書かれた言葉『マザーテレサ A simple path』(早川書房 ルシンダ・ヴァーディ編 猪熊弘子訳)
太陽とサクヤヒメ
Introduction
二十歳のころ、ふらりと行った奈良旅で、三輪山と「再会」し、スイッチが入った日本古代史、日本神話、民俗学への探究。1993年のことなので、当時は今のようにスピ系の女性たちが神社や神話に興味を持っているような状況もなく、友人たちにも余り理解されず、現地では「なぜここなの?」「もっと行くところあるでしょう、若いんだから」と現地人の方々に言われる始末。
歴史好きは子供の頃から、だったと思うけど、自分自身もそれまでは世界史にしか興味がなく、高校時代はシルクロードやモンゴル、チベットなどの東アジア史や、古代ギリシャ、メソポタミアに興味を高めていたっけ。私は本当に水瓶座というか、第一光線というか、人からの影響では心も行動も動かされることなく、自らが体験したことしか、自分を変えたり進ませたりするキッカケにならないタイプ。
高校2年の修学旅行で何となく京都には無い気配、自分との相性を奈良に感じて、「大人になったら(?)ゆっくり奈良に来よう」と思っていた。短大時代は相変わらず興味は世界に向いていて、卒業後にようやく、会社員となって最初の休暇で奈良に出向いたのだった。その時、さっそく神秘的な体験も幾つかあって、「自分の体験でしか動かされない」私が、自分でも驚くまさかの「日本」探求者となった。その時、二十歳。
間は省略・・時流れて、三十三歳。エナジーヒーリングと、ヒーリンググッズショップを生業とするシングルマザーになっていた私は、娘、両親とともに奈良の三輪山の麓へ移住。
三輪の麓が散歩道となり、大神神社で御神水をいただくことも日常になっている中で、その森で、水辺で、サスラ姫、サクヤ姫、セオリツ姫と感じるエネルギーを体験する。それらは同根で、ヴァリエーションの違いであると悟ると同時に、奈良に移住するころに夢で見たり、レコンセクレーションTM(アルガンザのオリジナルワーク)を受け取ったプロセスでは、菊理姫と呼ばれる女神意識、エネルギーが関係していた。
同時に、地球のロゴスと言われるサナトクマラのシャクティ(女性性の側面)としての「白山姫」を体感するに至る。それらが整理されていくにはある程度時間が必要だったけれど、2008〜9年頃には、地球ロゴスのシャクティとしての白山姫、それが地上に近い形で降りて来たのが菊理姫、そして菊理姫から別れた形で火、水、風、を体現するのが、サクヤヒメ、セオリツヒメ、サスラヒメであると位置付けて、その概念は幾つかのワークにも反映されていた。
それからまた、長い、10年という月日が流れて、依然として同じエナジーヒーラーという仕事を続けている私が、今年向き合ったガイアワークの中で、この四相一体の女神と、そのオーヴァーソウルである白山姫(ロゴス)について、分かった事の一部を、とても重要と感じるので、刻んでおきたいと思う。
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神智学文献では、エレメンタルつまり四元素を神秘家が取り扱うのは危険で、お勧めできない、という記述もある。私たちのエネルギーシステムにおけるチャクラは、ルート、セイクラル、ソーラープレクサスの1〜3の低位チャクラが土、水、火の元素の世界と通じていて、ハートチャクラが空気・風。それらの元素の力を取り込むことで、栄養になる、という。アルガンザのカレッジでもそれを取り入れた四元素のワークを導入している。アーユルヴェーダも人間の肉体や外界(季節や時間)、臓器やその働きすべてを四元素をベースにした「ヴァータ・ピッタ・カパ」という力学に当てはめて、足りない元素を補い、強すぎる元素を抑える、という法則からの処方箋が体系化されている。
恐らく、一般的な、物質界レベルでの話ならばこれでいいのだろうと思うけれど、秘教を学ぶ者としては何か引っかかる感じがずっとあって・・上記の、四相一体の女神のコンセプトとエネルギーをワーク化した「四女神の柱をオーラに立てる」メソッドを、レコンセクレーションの伝授に導入していても、いまいちの感じがずっとあり、また、秘教的な学びの中でも「四元素は封印である」「呪縛である」というフレーズにも出会い、長いこと気に掛かっていた。
2011年頃だったか、それまで数年に渡り直輸入していた、アメリカのワーカーさんからの「四元素ドラゴンストーン」を、アルガンザの周波数の遷移の動きの中で、ちょうど先方も石の仕事を辞めるというタイミングだったので、取り扱いを終えるに至っていた。けれどその後、カレッジで紹介すると生徒さんたちの関心は高く、また、女性たち、それも巫女的・神秘家的な女性たちは四元素が妙に好きなのだ・・・けれど、本格的に「見えない世界」を命がけで探求している神智学では、「危険だからエレメンツとのワークは勧めない」という。
(もちろんアーユルや、チャクラに元素・・という自分の健康に扱うのは、全く問題ないし、むしろ人間の本質・真実なので有効な知恵である)
そのようなモヤモヤが数年越しでずっとあったところ、今年、2019年は「火」のエレメンツを中心にして、体験から、分かったこと、見えてきたことが多くあった。
縄文期の日本人の一部になったと考えられる南方からの流れを持つ人々は、インドのドラヴィダ人由来という説がある。その言語で「神聖なもの」を表す「フィー」が、日本に来て「日」「火」になったという説を、カレッジのテキストでも紹介して来た。韓国語でも「火」は「ファ」で、恐らく同じルーツだろう。日本は「ひのもと」という元来の国名が、漢字が入って来てから「日本(にほん)」となったらしく、縄文からの流れを受けたこの列島の本来の名称は「ひのもと」であったと個人的には信じている。
その「ヒのもと」の「ヒ」とは何であるか・・が、重要なキーだとずっと思って来た。
「霊」と書いて「ヒ」と読ませ、神にまつわる言葉を構成している日本語がある。ヒモロギ(神が宿る場所)、ヒルメ(神の巫女)、ヒルコ(神の子)など。以前から旧ブログにも書いて来たが、鹿島・香取の両神宮のある茨城県の常陸(ひたち)なども、恐らく「霊」=「ヒ」=「神なるもの」と関係していると考えている。
では、日本の歴史の根幹となる「ヒ」とは、何なのか。今、私たちが知っている「火」と「日(陽)」とは、ひとつに括れるものなのか・・そのテーマを長いこと、それこそ奈良に通い始めた20歳の頃から、25年以上何となく考え続けて来た。
今、アルガンザの新しいワーク体系として「プログレッシヴワーク」というスタイルに改変するため、旧来のワークの幾つかを再編成しているところで、そのうちのひとつ、サスラ、サクヤ、セオリツ、キクリの四相一体の女神による禊(浄化)のワークである「さくらしおん・四女神の変容プログラム」を、新ヴァージョンでモニタリングしながら、スクール卒業生の方々に受けて頂いている。その中で、画期的な進展があり、長年の「ヒ」(火・日・フィー・霊)についての考察が深まり、突破口が開けた。
さくらしおんの今回の改変では、長年のモヤモヤを解決し、物質界の呪縛であるという四元素を超えて、すべてを第五元素、さらにより高い層へ統合し、ソウルシステムを拡大し強化するような宇宙的なワークにしたいと意図していた。故に、最初につながるのはシリウスで、そこから、シャンバラにあるシリウスの恒星のミニチュアに降りて来て、その、地球の中心とも言える白い太陽とともにワークをする、という試みで進めている。
4段階のワークのうち、2段回目にあたる「サクヤヒメ」の時。段取り通りにシリウスから地球の太陽、白山姫、と降ろして来て、サクヤ姫のエネルギーにチューニングする。白山姫の桜色と、シャンバラの白の2色はベーストーンとしてあり、そこにサスラなら紺色、セオリツは水色、サクヤは黄緑色が加わる。一段階目のサスラの濃紺色の意味は既に分かっていて、それは人間の中心軸のスシュムナーに関係している。サクヤの黄緑は何だろう・・と、先日、セッション前日に考えていた。
すると、自宅の窓から見える森の緑、自宅の室内の植物たちが陽を受けて輝く黄緑が目を惹きつけた。彼らは光合成で成長する。葉緑素が太陽光で育ち、緑色を呈する。でもなぜ緑色なのか・・・・・
そう考えてみた時、「太陽のエナジーが緑色だからだろう」と、当然のように自分の中から答えが返って来た。そういえば、カメラで撮る時に映る太陽光のプリズムも、明るい黄緑色。自称・太陽人とか長年言っている私・・でもそこは余り考えた事がなかった。コノハナサクヤ姫は、木の花、つまり桜の女神であるから「植物神である」ということと、富士山に祀られる浅間神社も含めて「火の女神」としても伝わっていて、神話では表向き、山の神であるオオヤマツミを父とするけれど、火の神である愛宕(あたご)神が、同神であるという。そして姉の磐長姫のエピソードも気になるところだった。
が、太陽のエナジーが黄緑色であり、それが地球の植物たちを緑色にしているならば、サクヤヒメが、白山姫のベーストーンに加えて、植物神という様相を担当して黄緑色のイメージで見えている訳が、良く分かった。つまり、サクヤヒメの「ヒ」とは、「火」ではなく「日(陽)」=太陽なのだ。
先日、フェイスブックに書いたこと。古代朝鮮の神話について調べていて、導かれた韓国時代ドラマのファンタジー「太王四神記」(ヨン様こと、ペ・ヨンジュンさん主演)を見ていて更にヒントが来た。同ドラマは「四神」つまり朱雀・白虎・玄武・青龍の四元素の守神たちと、古代朝鮮の神がかった王権のカルマ、光と影の物語。その中で、朱雀は火の力であるが、その力を見つけた守護部族は、「地中から火を見つけた」とのこと。朱雀の主であるその部族の「火の巫女」は「大地の母」と呼ばれている。
火は、日が地上に降りてきた表現なのだろうと長年、思って来た。けれど、そうではないと感じ始め、ワーク改定での上記の気づきがあった所に、このドラマの世界観は大いに示唆を与えてくれる刺激となった。「日」は、地球のロゴスの上の階層、太陽ロゴスのエネルギーである。地球の魂である私たちにとって、「神」とは太陽ロゴスであるという表現も、神智学で目にしたことがあるが、まさに縄文やケルト、世界中の新石器時代人が、ストーンサークルなどを建てて、崇拝していた神としての太陽なのだ。
一方で、火は、一部の人間が地球の地下世界で発見した「力」だという。もっと遡れば、アトランティスに起因するだろう、地球内部の力学を地上に引き出してきたもの。地球、ガイアの中でも肉体である大地、地下のマグマの世界に属するものなのだ。古代世界において、火を神聖なものとする宗教が複数、生まれた。私の印象では、それらは生贄や、構造的な文明の構築、つまり都市や軍隊の編成などに向かっていく古代世界を襲った新たな潮流・・そして歴史を塗り替えて、各国、各地で太陽崇拝の部族社会を駆逐し、征服していった潮流に通じている。
「ヒ(フィー)」を神なるものとして、ひとつで考えていると、答えは出なかった。本来はまったく別のものを、低次元に引き下げながら、置き換えていった。「日の巫女(ヒミコ)」「ヒツギノミコ(日本の皇太子)」などの元になった「ヒ」」を、どう捉えるかによって、古代日本における、古代世界における宗教のあり方が全く違って見えてくる。この「引き下げ」からの分離を表しているのが、日本神話におけるサクヤヒメとイワナガヒメの物語であると、気づいた。
姉である磐長姫は、日本神話では「器量がわるい」と言って、嫁に出した天孫から親元に返された。上記の韓国時代ドラマでは、神代に天から降った神の息子の愛を得た「妹」に対して、「姉」である「火の巫女(大地の母)」が嫉妬し、「リリス化」してしまう。その因縁が持ち越され、2000年後に転生する主人公たち。同じく姉は愛を得られない悲壮からリリス化したところ、彼女の持っている火の力を破壊力として使おうとしているネガティブな宗教結社によって、操られるままダークサイドに堕ちていく。(ドラマの冒頭にある神代の二人の女性は姉妹ではないが、2千年後の転生で姉妹として生まれている)
このドラマがベースとしている朝鮮神話、檀君神話の中に、ドラマのような二人の火の巫女姉妹の話が実在しているのかどうか、調べてはいないのだけど(檀君神話には虎と熊が出て来て、熊が王のお嫁さんになるという話は出てくるが)、日本には在る。まさに「サクヤヒメ・イワナガヒメ」であり、弥生人の渡来が日本建国を開いたと思えば、同じ原型的な神話が日本に伝わった可能性も十分考えられる。
更には、より秘教・神智学・ジェネシス概念の中で考えて行くと、かつて「ヒ」という神なる力は太陽そのものであったが、人類が物質界に染まって利己に落ちていくプロセスの中で、地下世界から取り出した物質的な火に習合され、やがて火そのものを崇拝することで、アトランティスに起因する火の破壊力を活用した原型エネルギー、集合場と繋がっていき、人類はさらに戦闘的になっていった。牧歌的な石器時代の人々の思考体系とは、明らかに変わっている。世界中で同じように、戦闘的で残酷な神を崇拝する文明に塗り替えられていく古代の動きを、ずっと不思議に思っていた。
本来は同一であったものから、二極化が起きる。堕ちたサイドは原型的な闇の力の一員となり、破壊力を発揮する側になっていく。イワナガヒメを、大地の女神としてワークに加えようか?リュミエールのブレスレットにしてみようか?と着想してみたことがかつてあったけれど、いずれの場合も「何か違う」と流していた。最近は、このエネルギーをリリスの一種として体感、体験することが続き、ライトワーカーたちを阻む力として動いていると、仲間内でも話している。
ちなみに「イワナガ姫」の「ナガ」は日本語の中にも広く浸透している「蛇」としての「ナガ」の音を彷彿とさせるけれど、蛇の姿で見えるという話も出ている。蛇や龍が好きなスピ女子たちも多く、神社巡りをするうちに知らずに繋がってしまっている人々も居るし、セッション等でその種のものが出て来て伝えても、当人が愛着を持っていて、切り離せないこともある。神社の場所は元々、古い元素霊が封じられた場所に建っていることも多い。自分の周波数が高くないと、またシンパシーを潜在的にでも持っていたり、攻撃や破壊・虚栄心などネガティブなエネルギーが人間性の中に有ると、繋がってしまうこともあるだろう。
神社巡り、土地巡りが好きな女性たちの中には、エレメンタル、つまり自然界に封じられている元素霊たち(「龍神」など)を「解放」している人々の話も聞く。以前からそれを危惧していたけれど、意味があって封じられているものまで、次々と解放されているようで、危険な破壊力をもったスピリットが放たれることで、スピリチュアルなアンテナを伸ばした人々が更にそれをチャネリングとして受け止め、逆側のメッセージを発したり、攻撃的なエナジーをヒーリングとして流したりしている。
神智学の先人が、「エレメンタル(元素)とワークするのは危険。お勧めできない。」と言っている理由、今ではよく分かる。「堕ちたもの」「封じられたもの」にシンパシーを感じている人も多いが、それがもっとも危険な入り口である。古代の人々も馬鹿ではない。今の私たちよりも霊的なアンテナは鋭く、天と通じる人々も多かった。理由があって封じた、荒々しい破壊的な元素霊たちを、よく深く考えることもなく解放している人々はまた、人間の進化を阻む力の方に、動かされていることに気づいていない。
今年は火の破壊力が大いに動いていた。上記のようなワーカーたちにより解放されたものたちなのか、時代の変わり目ゆえの、歴史の層から自然と炙り出されたものたちなのか。それを水によって鎮めなくてはならない状況になっていたようで、台風19号はそれゆえに、猛威を奮ったのだろう。各人の中でも、「火の破壊力」にまつわるカルマが動いていただろうと思う。
これらの気づきから、ちょうど改定していた「さくらしおん四女神の変容プログラム」の第二段階「サクヤヒメ」では、太陽ロゴスの黄緑色のエナジーを、太陽神経叢とハートに注ぐという内容にした。思えば528ヘルツはハートチャクラの周波数、そして太陽の周波数とも言われ、それは明るい緑色だと知られている。サクヤヒメの「フィー」とは太陽の力であり、ゆえに桜の花の女神と伝わるサクヤヒメは、植物界をグリーンに育む植物神なのだ。
サスラ姫の第一段階は、中心軸の奥にある空の領域に向かってスシュムナーを洗浄する。サクヤで第3チャクラとソウルセンターを太陽の力で洗浄する。そしてセオリツの宇宙の水の力でアストラル体を洗浄し、最後にキクリ姫でくくり、第五元素から宇宙の源のゴールドへ、統合する。お陰様で、神智学ベース、ソウルシステム的なワークへとリニューアルすることが出来て、10年越しのモヤモヤが払拭され、安心したところ。
人間は物質界の存在だけれど、物質界のしがらみ、呪縛を「超えていく」ために存在していると考える。ゆえに「四元素は封印」であり「呪縛」なのだ。私たち人間を、物質界に封じているものが四元素であり、物質体としては食事やチャクラの栄養として親しみつつ、やがてはそれを超えていくものだという認識が、少なくともメタフィジカルを学ぶ人々には必要だと考える。浄化が進んでいき、アンタカラナが自然と開発されていけば、チャクラのひとつひとつも分離なく、すべてが白い光へと統合されるという。
四元素という縛りを超えていく。第五元素、さらにその先へ。
Love and Grace,
Amari
ほんもの思考・ほんもの志向
自然派ワインに寄せて・地球の中の「わたし」という意識
趣味はなに?と訊かれたら「ワイン」それも「オーガニックで無添加のワインのみ」と答える私。石や神秘や歴史の探求などはすでに仕事の一部となり(まことにありがたいこと・・)純粋にシュミと言ったら、日々のささやかな喜びの一場面といったら、やはりワインであらうな。
歩き出さなければ、次の道は見つからない
二日前の朝、目覚めとともに「まずは己を知ることから始まる」と心で呟いていたので、ブログにでも書くのかな?と思っていた。ブランチを食べながら見るために、オンデマンドで番組を探していたら、『永平寺』が目につき、メニューが和食だったからちょうどいいかなとチョイス。
人はなぜ、「自分」を知らないのか。
『Arrival』『Big Eyes』から考える「孤独」と「共依存」
以前から憧れていた「男気のある」「東洋好きなイギリス人の」??書斎風の仕事部屋を目指している(笑)、移転後のアルガンザの八王子オフィス。理想に近づくにはまだまだ重厚感が足りないけれど、この冬は本棚を増やして、さらに書斎らしさを出したいところ。以前のオフィス「ブルーム」からのイギリス製のブックケース(写真)は、神智学系の書籍と、これまでのアルガンザの記録、歴代カレッジのテキストなどを収めて。
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7月に、リリースされたDVDで映画『ARRIVAL』(邦題は『メッセージ』)を見て、すぐにここで記事を書こうかなと思ったまま、なんと5ヶ月。7年弱営んだ横浜のサロンを閉めるにあたってのキッカケの波が、ちょうど7月には来始めていて、淡々と、ではあったけれどそういえば、思想的に何かを噛みしめるゆとりの無い、この5ヶ月だったのかもしれない。現実世界とエネルギー次元とで、日々を創造したり、波乗りしたり、切り抜けたり、考えて行動して、終えて、また次・・という具合に。ただ、思えば「時間」をテーマにしているこの映画を鑑賞して後味が強く残った7月からの日々は、自分自身の「時間」のテーマに向かっていたのかもしれず、なにか連動するものも感じられる。
さて、この作品は「時間」と「意識」を主題にしている。アカデミー賞の作品賞・監督賞などを取っているそうなので、見た人も多いと思うが・・自分なりに紹介したいと思う。フランス系カナダ人のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品。巨大な卵型の岩の塊のような宇宙船が世界各地に飛来。その主である知的生命体を研究チームは「ヘプタポッド」(7本指)と名付けた。ヒトデのような巨大な触手に7本の指、壁のように立ちはだかる数メートルサイズ、つるんと頭だけがあるような姿をしたエイリアン。足や、首や、顔のパーツなどはなさそうで、ヒューマノイドと言えるのかどうか。。
世界12箇所のうち、アメリカは長閑なモンタナ州にUFOが来ていた。軍事基地さながらの現地のキャンプには、CIAや軍の男性たちが行き交う。そんな「現場」に呼び出されたのが、女性言語学者のルイーズ。エイミー・アダムズが演じている女性博士ルイーズは、学者らしく理性的でクールな大学教師という風情で登場する。ニュースを聞いて大学のキャンパスが若干パニックになっていても、ひとりでかなり落ち着いている。翌日も、普通に大学に出勤しているというマイペースな様子に、凡人とは違う突き抜けた知識人としての人間性を、映画の冒頭で示される。
結論に先に飛ぶと・・・宇宙人たちは地球人に対して、「武器を与えにやってきた」。その武器とは、「人類を助けるため」の武器であり、「未来を開く」もの。何かというと、このヘプタポッドたちの「言語」がその武器であり、与えられたものは彼らと同じように時間を直線的なものではないように考え、感じるという「高い意識」を得られるという。それが、宇宙人たちからの「メッセージ」であり、地球に到来した理由だった。
さらに奥にある背景として、彼らの言語を解読しコミュニケーションがとれるようになったルイーズにエイリアンの一人は「3000年後に人類の助けが必要」だから・・(人類を助けておくのだ)と、伝えて来た。ということは、彼らが与える「武器」=多次元的にものを見れる意識 がなければ、人類は分裂して争い、3000年後に存在していないという未来を、彼らの非直線的な時間感覚が捉えているから、という事なのだろう。
言語コミュニケーションがとれない宇宙人を相手に、ルイーズは言語学者として、彼らに自分たちの言葉を教えることから始める、という手法を取った。それが功を奏した訳だが、彼らから戻って来るのは巨大なヒトデのような触手の中心から吐き出されるスミ?が空間に繰り出す、筆で描いたような表意文字(ロゴグラム)で、言葉を話すことでのコミュニケーションは成立しない。
けれど、例えば日本人と中国人が漢字の筆談でコミュニケート出来るのと似ているが、彼らの表意文字がパーツごとに何を意味しているかを解析・解読し、各国が連携しながら研究を進めるうちに「会話」が成り立つようになっていく。
この、中国風?の書で描いたマルをモチーフにしたような独特のロゴグラムこそが、彼らの言語が直線的、つまり時系列に左から右へ、上から下へ読むのではないという、多次元意識の表れと言えるだろう。映画の中でも触れられていたが「サピア=ウオーフ仮説」という学説(「言語相対性仮説」)があり、人間の思考(脳)は話す言語によって形成される、という。・・これは体感として理解できる。英語圏に行って英語で話すことに慣れて来ると、明らかに日本に居る自分とは人格が変わるものだ。エイリアンの多次元的な言語を授けられれば、人類の意識が多次元性を搭載するようになる、ということ。
ルイーズは最前線で、彼らと交流していることから、文字だけではなく時にテレパシーや、エネルギーの波長のようなものも受け取っている。ゆえに映画が進行していくにつれて、過去のフラッシュバックを見るように、切れ切れに未来を見るようになっていく。その現場で同じく解読にあたっている数学者のイアンと結婚し娘をもうけ、しかし恐らく二人とも宇宙船内部で防護服を脱いで宇宙人に向かっていたせいだろう、生まれた娘は十代で(恐らく被曝による)癌で夭折しているという未来。そのプロセスで夫は娘の病気が原因で去っていくという未来も。
混乱しながらも、なんとか彼らと人類の間を取り継ごうとするが、「武器を与える」という地球に来た目的を誤解した地球人たちは、地球人同士を分裂させて争わせ、地球を征服しようとしていると判断。各国でUFOへの武力行使を宣言する動きへ。
具体的な方法は割愛するけれど、ルイーズが、自らに起こり始めていたその「未来を覗く」という方法で、他国の武力行使を止め、世界をひとつにすることに成功する。
一年半後の近い未来に、『ユニバーサル(宇宙的)言語』という研究書を出版し、解読したヘプタポッドのロゴグラムについての研究を発表するらしい。本の冒頭には、その時すでに生まれているのか、更に未来に生まれる事がわかっているからか、「ハンナ(娘の名前)に捧ぐ」と書かれている。人類の意識を拓くために、言語を与えに来たエイリアンたちは、世界12箇所は何か理由があってチョイスしたに違いないが、人類の中で一人でも、彼らの意図を誤解せずに受け止め、更にそれを読み解き、人類に伝える者を探していたのだろうと思う。
映画の途中では、軍人たちやマスコミ、世間が騒ぎ出し、恐れをなした若い軍人が単独でUFOに攻撃したり、中国の首席は彼らを征服者とみなしいち早く軍事行動に出ようとする。男性研究者でも現場での仕事に耐えきれず倒れたり、世界中の人間たちが「恐れ」からの思い込み・誤解で高次からの彼らのメッセージを無駄にしようとする中で、なぜ、ルイーズは彼らに対応できたのか。なぜ、ルイーズなら大丈夫だったのだろう・・という点を、考えながら見ていた。
女性だったから・・とも言えるかもしれない。ただ、普通の女性ではもちろんダメだ。並の男性たちよりも精神が強く落ち着いていて、理性的で、知性が深く・・・それでいて、女性的な感性と母性を使い、未知の宇宙人であっても、言語学者として未開の民族に対峙してきた時と同じように、相手に近づこうとハートで動いた。宇宙船の中で防護服を脱ぐという行為も、駆られるようにやっていて、後のこと、自らの身の安全のことなど考えていない。徹底した研究者・専門家意識と、男性性の美点、女性性の美点を兼ね備えた人であると言える。
この映画の最後の10分は、理由も分からず嗚咽するほど泣き通して見ていた私だったが、その理由についてもしばらく考えさせられた。
ルイーズの手腕で、中国軍のUFOへの攻撃をなんとか止める事が出来たが、UFOも地球から一斉に離陸し始め、地上でも、現場の基地を撤収するため全員が引き揚げるという流れの中で、ルイーズはますます鮮明に、これから生まれる愛くるしい娘の姿、成長していく中でのたくさんの思い出、そして別れ・・・の場面を見ている。
そこに、娘の父親となるイアンが横から言葉をかける。
「(学者として)ずっと宇宙に憧れて来たけど、ここでの一番の出会いは彼らじゃない。君だよ。」「子供を作ろうか。」
つまりプロポーズする訳だけど、そこでまたルイーズの頭の中では、娘ハンナの生い立ちが早まわしで流れる。たくさんの、喜びに溢れた親子・家族の場面だった。そこでルイーズは答える。「Yes」
映画の冒頭も、最後も、ルイーズの、娘ハンナにあてた言葉で始まり、終わる。この映画自体が、時間軸を超えたような作りにもなっている。最後まで見るとやっと、冒頭でのナレーションの意味が理解できる。
なぜ、初めてこの映画を見た時に、あれほど泣けたのだろう?
自己分析して思ったのは、ルイーズはやはり並みの人ではなく、それゆえに体験した彼らとのコミュニケーションを通じて、さらに一人、神のような視点を持つという孤独に立った。知性と母性で、娘に語りかける言葉は人を超えた領域からの呟きのようにも聞こえる。夫イアンは、恐らく未来のどこかで、娘が病気になるという話をルイーズから聞かされて、耐えきれずに離婚をする。・・ルイーズは、「基地」ですでに全てを見ていながら、イアンと結婚し娘をもうけ、成長を見つめ、そして見送るという覚悟を決めて、プロポーズを受けている。
そんな、ルイーズの非凡な心の強さが、私は哀しかったのだろうと、気づいた。
どこまで行っても孤独。
そして時に、非難される。夫イアンはきっと、彼女の強さに反発を覚えたのだろう。こんな悲しい事、自分は耐えられない。そう思って、ルイーズと娘との家庭から逃げたのだろうし、ルイーズを「こうと分かっていながら子供を作るなんて」と責めたのだろうと想像される。その辺りは映画では描かれないが、きっとそうなのだろう。
揺らぐこの世界では、常に感情の誘惑がやってくる。最初にUFOが来たとニュースで聞いてパニックになる人、学者として基地に向かいながらも仕事できずに倒れていく人、宇宙人を前にして怯んでしまう軍人、心配する妻のために基地から逃げ出したい人、そして征服されるのを恐れて攻撃しようと決める国家元首。・・そんな人々の「恐れる姿」が横行する中、ルイーズは淡々と仕事を続ける。この任務においてはルイーズのよき相棒、理解者であったイアンも、彼女が成し遂げた更なる女性としての強さ(死すべき命だと知りながら子供を産んだこと)には、同調できずに脱落していった。
そして「残る」のは、いつも、どこまでも強いルイーズ一人だった。夭折する娘を一人、病院で見送る彼女。知っていたとは言え、哀しくない訳ではない。それを一人で受け止めていく。感情が無いわけではない。ただ、そこに落ちないでい続けることが出来る人の強さは、時に、多くの感情に揺らぐ人々の目には、冷たい人や理解できない人として映るものだ。しかし真実はそうではない。誰よりも愛、本物の愛が深いからこそ、感情に動かされない善なる選択をしていく。流されずに壁を乗り越えたというのに、むしろ非難され誤解される。・・・そんな事も承知、そこで傷つくこともない高い知性と理性、母性。
そんな彼女の姿に、淡々とした映画の語りに、泣けたのだと分かった。非凡な心の強さ、善の強さを持つ人々の人生に、よく現れるモチーフであるし、英雄的な人々の意識であり、時にそれは人間社会において犠牲となり得る。それでもこういう人々は、何度生まれ変わっても同じようにするのだということも感じる。それは菩薩道であり、完全に感情的な幻想世界を超えている精神だと言える。
もうひとつ・・映画の後味として考えたことは、
そんなルイーズだったからこそ、彼らの「言語」を受け取り、変容が起こるもそれを自らの中に統合できたのであって、もし、そんな風に未来が切れ切れに見えるという変化が、他の人々に起きたとしても、ただ混乱してむしろ、壊れていくのではないだろうか。彼女が出版した本が、それゆえに最後に少し気になった。。特定の周波数を持つ人じゃないと、変化変容が起きない、という仕組みがあの言語にコード化されているほうが、安全だろうな、と。
映像も非常に美しいので、予告編も宜しければぜひ見てみて・・但し、やはりよくあるように、予告編の作り方がちょっと・・本来の作品の持つ味やテーマから外れている気はする。邦題の「メッセージ」も同じく残念な感じがする。
今回もエイミー・アダムスの演技力に深く引き込まれた訳だけれど、我が家には彼女の主演作・助演作がいくつかある。
左から、彼女の出世作と言えるディズニーの半実写半アニメ作品『魔法にかけられて』、実話の映画化・メリル・ストリープと見事に演じ合った『ジュリー&ジュリア』、同じくメリル・ストリープ他演技派4名の密室劇の一役を担った『ダウト』。
このうち、『魔法にかけられて』と『ジュリー&ジュリア』は過去にもブログで取り上げたことがある。『ダウト』はアルガンザのマスタークラス「星巫女プロ専科」の映画分析で題材にしたことも。他にも話題作に続々と出演しているエイミー。最初に彼女を見た『魔法にかけられて』のプリンセス役は本当に素敵だった・・まさにディズニー・プリンセス、の風情を楽しく可愛く演じていて。。ディズニーの中では最高レベルの映画ではないかと個人的には評価。二次元と三次元を足して五次元、みたいな奥深さも感じる。意識の持ちようでどんな世界でもファンタジー・・という、ディズニーの精神が教科書のように分かりやすい。
エイミーの演じる女性は心の清らかさ、純粋さが際立つものが多い。そこに『Arrival』では徹底した知性・理性が加わっている感じ。制作側にとってルイーズ役の第一候補はダメ元でエイミーだったとか。本人は育児に専念しようと思っていたところにオファーが来て、脚本を読んで了解したと語っている。これまで見た彼女の主演作品の中で一番、英雄的なキャラクターと思う。『ジュリー&ジュリア』はメリル・ストリープのいつもながらの存在感、演技力も素晴らしく、おすすめの作品だ。
これを機に・・と、さらにもうひとつ彼女の主演映画を見てみた先日。
『ビッグアイズ』。60年代アメリカでブームになったという「ビッグアイズ」と呼ばれた絵画。その作者であるウオルター・キーンは人気を博す、が、実はその絵を描いていたのは妻だったという実話に基づく映画。営業力と口のうまさで絵を売り込み出世していく夫は享楽的な生活をし、妻は我が子にすら秘密で部屋に閉じこもり絵を描き続ける。そんないびつな生活が10年続くうちに、すっかり「もうかって」豪邸に住むほどになっていた。
内気で夫の言いなりに、日陰の存在として描きつづける妻マーガレット。連れ子だった娘とともにハワイへ逃亡し、そこで(きっと実話なのでしょう)「エホバの証人」の信仰者たちに出会い、夫に奪われていた自分の力と尊厳を取り戻していく。カルト教団に洗脳された人々が、キリスト教の聖職者の方のサポートを受けてリハビリしていくという話がよくあるが、それと似ているなと思った。実際、夫による人権侵害を許していたのだから、洗脳と同じような仕組みが起きていたのだろう。
ネットで見たレビューの中に、「監督はマーガレットよりも、人としてどうしようもないダメな夫であるウオルターに愛の眼差しを持っているのでは」と言っている人もいたが、私はそうは感じなかった。が、ティム・バートン監督なので、真意は読みにくいが。。。
きっとこういう話って、女性の権利が弱かった時代にはたくさんあっただろう。これからは男女関係なくなるかもしれないが。おかしいな、と相手のやり方に本能的に不信感を抱くことがあっても、特に夫婦であると、生理学的にも女性にとっては、男性のアストラルエネルギーには負かされてしまうことも多い。出力の強さから言って、アストラル体の力はやはり、女性よりは男性、そして感情的な人ほど強いものだ。社会的に女性が弱い立場であればなおさらに。
とは言え、「Arrival」のルイーズのように、アストラルよりもメンタルフォースで生きているような女性ならば、搾取されるようなことにはならない訳だけれど、この大きな瞳のこどもたちは、マーガレット自身のインナーチャイルドなのだろうなと思われるから、恐らく、「強い力によって抑圧される自分」という型を持っていたための、共依存的な夫婦関係だったのだろうと思う。
最後、連れ子である娘が年頃になり、大人の女性二人として手をとりあい、夫から逃げてハワイへ。そして法廷で勝利するという流れに、マーガレットに感情移入する人々はホっとするし、爽やかに見終えることが出来るだろう。他者から見れば、なぜ10年も夫のいいなりになっていたのか?と思ってしまうけれど、人間同士の関係はほとんど全てが共依存であり、自分の中の弱さの投影に、強者としてそれを支配する人を必要としたりする。自分なんて価値がないと思い込んでしまうと、何か少しでも自分をとりたててくれる人の存在を、(実は搾取されているにも拘らず)ありがたく思ってしまったり・・・人間模様は様々だ。
誰もがルイーズのように自己完結していない。
が、自己完結するということは、共依存の投影が要らないのだから、神のような永遠の孤独の中に座することになる。
しかし、孤独 aloneness と寂しさ lonlyness は違う。aloneness は独尊に通じる。他者によって自分を満たす必要が無いという状態からしか、ワンネスや覚醒やニルヴァーナは生まれない。そこに近道はなく、創造主のような孤独の疑似体験に身を浸すからこそ、多次元意識が拓けていく。そうなると、世界の主としてたった一人で現実界を創造している自分の中に、すでに全ての生命や現象があり、その中の全てに同じ意識が宿ることが、体験として理解される。「孤独」の意味もなくなる。
最後に、
『Arrival』に関してもうひとつだけ。
未来を見る・・と言っても、固定された未来は無いと個人的には考える。ゆえに、未来の様々な可能性が見える、という解釈で映画を見ていればいいのかな。様々な可能性の未来が生まれては消えていくのは、今この場で、何を選択するかで未来が変わり続けるからだ。そうなると、やはり、未来から現在を見るのではなく、現在から未来を作る、という感覚のほうが自分の中では自然だ。もしかするとそこは、監督ないし原作者と、思想的に違っているのかもしれないと感じた。
決まっている未来は無い。
だからこそ、常に、出会いたい未来に向けて「今」の生き様、「今」のエネルギーを作っていよう・・というほうが、自分としてはより重要な「メッセージ」だと考える。
Love and Grace,
良いお年を。