Energy and Crystals

鉱石とエナジーワークと神智学と、生きること。

太陽の宿り木 -- 「恐れ」と太陽

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このところ、スモーキークォーツが活性しているように思う。まだ新潟に住んでいた頃、アメジストとスモーキーが好きで仕方ない時期があって、恐らくグラウンディングやバランシングを学んでいたのだと思うけれど、その頃以来、久しぶりにスモーキーに目が止まる。これは先日、リュミエールのインスタグラム企画で、密やかに半額タイムセールになっていたルチルの入ったスモーキー。この時の3点は「もう長いことお店に居るので、今回半額でもお嫁に行かなかったら販売終了」・・として出したアイテムで、結局お嫁に行かなかったので「公家の姫様の出家コース」に。どうしようかな〜、、と、ひとまず持ち帰ってみた。どうやらこれがキッカケとなって、スモーキーたちが光って見えるというムーブメントが、始まったよう。。

我が家は東南向きで、朝日が地平から登ってくるところから始まり、数時間に渡って太陽がさんさんと降り注ぐ。この家を私は、「幸せの家」と名付けていて(笑)たくさんの植物、鉱物、そして犬たちが朝日を浴びて麗しく輝いている朝のひと時が一番、楽しい。

このスモーキールチルが朝日に輝く様子を眺めてコーヒータイムしていると、降りてきたのが「太陽の宿り木」という名前。宿り木は・・他の樹木に絡んで生息する種類の木・・だったかと思う。そのあたりは良いとして、「止まり木」でもいいのかもしれないとも思ったりしながら、響きもよかったのでそのままに。

あの頃、恐れを克服する、自分を強化する、という潜在意識も働いて、スモーキーを必要としていたのかもしれない。ザギマウンテンの男気ある原石、パキスタンのガーネットとブラックトルマリンを抱え込んだ原石など、お気に入りでいつも手にとっていたっけ。。

色々な、人間の苦しみのパターンを掘り下げて行くと、結局は全て「恐れ」に通じているような気がする。化学の分野などで、液体の物質を攪拌して、攪拌して、熱したり水分を飛ばしたりして、最終的に残った個体を取り出す・・・(なんて言うんだろう?)・・処理などをするように、色々な感情や、そこに色付けされたものを、攪拌して、攪拌して、最後に残るものとなると、「本能的な恐れ」が素材の中の純成分として、残るのかもしれない。

その本能的な感覚のような恐れから派生する、様々な感情。それに意味を与えようとする思考や理屈。コーティングされて、本質が見えなくなっているけれど、結局は、素材の中のさらに素材には、恐れが隠れているのではないかと思う。

もうそんな意味づけなんていいよ、それを恐れだと認めて、前に進もうよ・・・と、人を見ていると思うことがあるけれど、自分の中でモヤモヤっとして、尤もらしく考え事をしていたり、カッコつけて理屈で整理したりしていることを、一歩引いて視点の高さを戻して直観すれば、「結局これも恐れであらう」・・と、気づくようなことが、今でも度々ある。

去年の年末だったか、ふと「恐れを抱いて縮こまっているのって、人として美しくはない。誰だって、本当ならば美しく生きたいのではないか。。」と、思ったことがあった。誰だって・・少なくともソウル、魂は、この地上で美しく生きる自分を本当は味わいたいのではないかと。

こういう事を言うとすぐに傍で、「醜くたっていいのさ」「それが人間じゃないか」と言う声が上がる事は、経験上よく分かっているのだけれど(笑)、多分、人間の感情というものは、「魂が本来持っている美しさ(愛・調和)」から、パーソナリティの生き様がずれたときに、「苦しい」と感じるのではないだろうか。

太陽は、いつもそこに在る。ずっと、変わらずに。

けれど地上に居る人間には、「天気」というものを通してしか、太陽を感じられない。今日は晴れている、今日は曇っていて太陽は見えない、雨が冷たくて空が暗い・・・・・でも、太陽そのものは、いつも変わらずにずっと在る。

魂は太陽のようなもので、人として生きているパーソナリティは、お天気。

曇っていても、たとえ嵐でも、その奥にはいつも必ず、太陽が輝いているのだということを忘れなければ、本当は恐れなんて必要ないという自分に、誰もがなれるのだろう。

Love and Grace,

Amari