Energy and Crystals

鉱石とエナジーワークと神智学と、生きること。

窓のないモナド・インドラの網

 

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(私物)ドラゴングラスと私は呼んでいたもの。今では違う名前で他の方が扱っているけれど、2009年だったか、ある石が欲しくて探し回り、英語サイトを探して探して・・とやっているうちに見つけたアメリカ人女性のショップ。日本人初の小売店として彼女から卸してもらっていた石たちは、独特の活気があって素敵だった。

私のほうでは周波数帯のような部分で時期が終わったかなと感じて、取り扱いを辞めたけど・・ちょうど時を同じくして、私のサイトで見たのをキッカケに日本の方が彼女を探し当てたとのことで、日本には引き続き入る道が出来た。

この「グラス」ではないが、カレッジでも教材として毎年使っていたので、うちの生徒さんたちが毎年、そちらのショップにその時期になると買いに行くという現象が続いた(笑)。そんな風に、当人たちは無意識でも、常に必要なことは移り変わり引き継がれ、この世界に途切れることなく、別次元からの波長が届くようになっている。

そのアメリカの方が、ドラゴンシリーズの販売をスタートし始めたまさにその時を見ていたので、なにしろ初期の初期。こちらのグラスもリュミエールやブログから販売しつつ、「社長特権」で自分用に取り置いたのは、なかなか大きくて、美人たちなのである。今、身辺整理のモードに入っていて、リュミエールではビーズのストックからのブレス群につづき、私物や、最後の石巫女での登場を終えたサロンの石たちを、Amari's コレクション、略して「Aコレ」として、出し始めたところだけど・・・・・

このグラスたちは、今のところは・・・・売りませんっっ(笑) 最小限、記念になるものは残しておかねば。。

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華厳経(けごんきょう)はモナドロジー、ライプニッツだ」と教わって、こわごわとライプニッツ、「モナドロジー」を覗いてみた。法華経とは違い、確かに華厳経は何か冴えたビビっと刺さるようなものがある。法華経が女性的なブッディ・モードだとすると、華厳思想は男性的なアートマだろうか。量子物理学と華厳哲学の一致に、知的な人々も注目しているらしい。

法華経は「この法華経って本っ当にすごいんだから。ねえ、試してみて。ぜったい凄いから。。」と言い続けているような内容。一方で華厳は、世界観をぐぐっと全宇宙に広げて、盧舎那仏アートマンブラフマンつまり宇宙の源という説もある)という究極の如来(仏)を世界の中心に据えつつ、最小の微粒子の中にもその仏国土が無数に入っているのだ・・とか、大と小という対象も、全と一という対象も、有と無、有限と無限など、あらゆる相反するものが、本来はすべて矛盾しないと説く。「あらゆる矛盾律の超越」という一大テーマを掲げる。

時間の過去も未来も無い、とさえ言う。すべてのものが、関わりあい、干渉し合いながら存在している。が、主体と客体など無く、互いは溶け合い、含みあっている、という。まさに、量子物理学で分かって来ている宇宙や万物の仕組みを語っているかのよう。それはインド哲学という、そもそもの秀でた哲学的伝統を受けているから、でもあるけれど。華厳思想という形で新たに整理されたことにより、宇宙のフラクタル構造がヴィジュアル化され、密教曼荼羅宇宙はここから派生していった。

民衆化・一般化されることでバラエティに富む楽しい世界になっていったような密教の印象に比べて、華厳宗はハイソな貴族的僧侶であった哲学者たちの領域として、守られたイメージがある。日本での総本山はなにしろ奈良の東大寺である。民衆化することなく、学問寺であった。今でも、檀家や信者などが存在しないため、拝観料で維持されているという独特の存在感。(東大寺は昔から好きで仕方ない。。また別の機会に書こうと思う)

そうそう、モナドロジー。神智学で採用された「モナド」は、ニューエイジでも継承され、私たちの魂のもっとも原初的な、創造主から分岐した「個」を表す言葉になっている。もともとは哲学用語で「単子」、ギリシャ語の「モナス」「モノス」に由来する。このモナドは、二つとして同じものはない。そして全てが内的に作用し、外部からの影響を受けることはない、という。ライプニッツは「窓のないモナド」と表現していて、つまり(右脳な私が物凄く飛躍的に解釈するに)他者によって何かされてこうなる、というような因果律ではなく、すべて、モナド自身が外部の世界を生み出している、という意味。。?

その理論(モナドロジー)が、華厳経で繰り返し出てくる「すべてが繋がりあっている」「心(意識)が世界を生み出している」に通じるという。窓がないから、モナドのレベルだと互いに外的に影響を与えるということはない。しかし、全てのモナドは響き合い、互いの情報を内包しあっているという。まさに量子物理学。

そんな、モナドロジーな華厳思想はしばしば、「インドラの網」に喩えられる。インドの神様インドラは、日本で言う帝釈天のこと。そのインドラ神をまつった寺院(神殿)に飾られる装飾の網のようなものであると言う。画像を検索して見てみると、同じパーツが無数に、網のような装飾でつながっている、天井から吊り下げるような、金属の暖簾(のれん)のようなもの。

ヴィジュアル派としては、モナドロジー=華厳思想を、このインドラ網をじっと見ることで理解しようと試みた。

すべての単一存在が、繋がりあっている。これはワンネス思想でおなじみ。もちろんアニミズム(自然崇拝)においても。

けれど、外的な影響を与え合うことはない。全てが内部で起きる。そして、合わせ鏡のようなインドラ網のようなフラクタル構造が、その、全てで起きたことを互いに記録し、含有し、ともに微細な変化を常に受け取っていく。

外的な影響を互いに与え合うと思い込んでいるのは、この物質界、三次元だ。けれどそうではないという、インドラ網のネットワークですべての情報も過去も未来も共有し含み合い、一斉に変化を伝播させていくというのは、魂の世界。あるいは量子物理学で見えてきた宇宙のエネルギー領域。

外部からの影響や相互作用など、本来は存在しない。幻想である。個々の意識、モナドが個性を帯びた情報から、外部に映し出している世界。その投影された現象・幻影同士が、影響を(エネルギー次元まで)刻むことで結果が現れるのではない。個の中で起きた変化が、映し出される世界の映像を、変えていく。。。そして個に起きた変化は、ほかのモナドすべてにも情報として内包されていくのだ。

ニューエイジスピリチュアリティでも、よく言われることでもある。

そして、華厳哲学の真髄は、毛穴の中に宇宙がいくつも展開される、というような矛盾律の超越であり、それを理解できないと、他者を悟りに導くことは出来ないという。そもそもが、幻影である世界の想念に取り込まれていると、魂の回帰への道は前に進まない。堂々巡り。私たち人間の意識・心がそもそも幻影的に動くメカニズムなのだから、宇宙のエネルギー法則が矛盾しているように「見えてしまう」。

三次元の幻影的な思考メカニズムで、「矛盾してるじゃない」と決めつけてジャッジしてしまう。エネルギー視点で三次元を生きていこうとすると、幻影の枠の中で思考する世界の内では、しばしば路頭に迷う。天才の中の天才と言われたライプニッツも、晩年は寂しく苦しい人生であったという。それでも、天才たちはまた、降りて来てくれる。これを仏教的には、「菩薩道」というのだろう。

一切衆生(すべての人間、すべてのソウル)がこの次元の幻想世界から抜け出せるまで、人間界に生まれたり、インスピレーションを与えたり、なんらかの「任務」についたりして、菩薩「ボーディサットヴァ」たちは諦めることなく働いているという。華厳経でも、他の大乗仏教と同じく菩薩行に重点が置かれ、菩薩たち(つまりライトワーカーだ)のやるべきこと、なされるべき修行や境地について、提示している。そこが(具体的なメソッドが提示されない)法華経とは違う点で。女性や就学の機会の無い民衆向けの法華経、知識人や学者向けの華厳経、という感じで発生したのかもしれない。。

宮澤賢治が「インドラの網」という物語を書いているそうだ。ちなみに彼は法華経信者だったが。。

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人間の脳のつくりは、様々な分類を好む。そうでないと、この複雑で行きにくい物質界ではやっていけなかった故の、進化というか、退化というか。

矛盾律の超越・・・は、実は個人的にはいちばん、人間としてやってきて(?)他者との、つまり三次元的思考メカニズムとの共存の難しさを感じる点だった。つまり自分は超越OKというか、最初からそのフィルターが無いというか、過去生で大乗仏教インド哲学を修行していたのかもしれない。

他者に、「一貫していない」とか「このまえ言ったことと違うじゃない」なんて言われることが(相手が口に出さずとも想念波としてキャッチすることが)多く、エネルギー次元をベースにして魂システムと連動して感覚する、行動する、発言する、そこからズレたくない、を貫くと・・三次元思考と感情の波に揉まれてしまうことになる。けれど、そうそう。これが菩薩道なのだと。。分かっているからまたやってしまう。ずっとそれでやっていく。

アルガンザのヒーラーズカレッジのテキスト冒頭で、フリーエネルギー研究家の飯島秀行先生の言葉を紹介している。

「自分は人間なのだ、と思っている人から、知恵は出ない」

知識とは物質だけれど、知恵は宇宙エネルギーである。アリス・ベイリー著でも、チベットマスターのジュワル・クールが同じことを言っている。

ヒーラーとして、「ライトワーカー」と自認・受容し活動してきて、同じフィールドにいる、あるいは目指している筈の人々でも、ほとんどが、自分が「人間である」と思っていることに、いつも不思議な驚きや時に失望を味わってきた。そのようなフィールドを学ぶ人、そこで仕事をする人は、飯島先生の言う「人間である」と思っていては、宇宙エネルギーの扱い手として機能しない、と思う。本当に。「魂である」=宇宙存在である、と自認するからこそ、宇宙エネルギーとともに仕事をしていけるし、真に人に変化を齎すことのできる波動が動くのだ。ちなみに誤解のないように、ここでいう「人間である」とは「肉体存在である(に過ぎない)」という意味。非人間的であれという意味ではない。念のため。

一応は、地上で生きているわけなので、100%が魂であれという訳にはいかない。けれど、ソウルセルフがエゴセルフを凌ぐだけのフォースを、繰り出せるようにしておかなくては。魂が、地上を体験しているという今の我々、人間の生存自体が、矛盾している。そこから拮抗、葛藤が生まれている。ゆえに世界が常に不安定で、人体には病気も発生する。

ライトワーカー、ヒーラーをしている人たちの中でも、「高次の言いなりになりたくない」「自分の領域は守らねば」というような言葉を聞くことがある。そこに私は違和感をずっと感じて来た。「高次」「高次」と表現していても、それは私たち自身である。自分の魂が、この三次元に降りて来てこれをやろうと、決めていることを進めていくわけだから、自分自身が魂主導で生きていれば、エゴセルフとソウルセルフはうまく融合し、「領域を守る」もなにもない。

立派なお仕事をされているライトワーカーの方の言葉でも、「乗っ取られないように高次にはちゃんと意思表示をした方がいい」というニュアンスを聞いたこともあるけれど・・それこそがある意味、二元的な考え方だと思う。「モナドロジー」的に言えば、外部からの力ではなく、内部から魂は活動している筈、というのが私の感覚。ただ、自分のソウルと、パーソナリティを融合させ、エゴセルフの抵抗を抑え、ソウルセルフと折り合いをつけて、時にエゴセルフの言い分も聞きつつ、本流はソウルという本来の自分に融けて回帰していく。それだけのことなのだ。(もちろん自分のハイヤーではない怪しいモノに乗っ取られてはいけませんが。。基本的なライトワーカーの仕事とは、自らのハイヤーシステムと連動するということだから)

色々なものを分類し、切り分けて考えて、変に自己防衛をしたり、他者批判をしたり、分離を起こしたりしていく。そもそもの意識に、差別(仏教用語としてはシャベツ)をたくさん張り巡らすために、自分の生きる現象世界が難しくなっていくのだ。上にあげた飯島先生は言う。「神一元。宇宙の仕組みはたったひとつ」

そのたったひとつで、受信し、咀嚼し、発信し、発言し続けていくことで、少なくとも自己矛盾は消えていく。葛藤せず、苦しみが生まれないモナドとして、存在できるようになる。が、その肯定では、「神一元」では動いていない雑多なエネルギーに揉まれてしまう。それでもめげずに進み続ける道が・・・菩薩道、菩薩行、といったところか。

今日はこのくらいで

Love and Grace,

Amari