Energy and Crystals

鉱石とエナジーワークと神智学と、生きること。

今のところは『メタフィジカル』

 若い頃から好きな人物の一人が世阿弥能楽も好きです。世阿弥が残した哲学とも言える思想の中に、「体用」(たいゆう)があります。元々は禅の言葉のようですが、世阿弥はそれを後に続く人々のための芸能論の中で語っています。

 喩えるなら体は花で、用は匂い。花があるから良い香りがする。中身があるからその結果が生まれる。若い役者などは、名人の演技を見て「かっこいい!」と思うと、その技だけを真似ようとする。それはみっともないことである、用ではなく体を真似なさい、という戒めです。基本を積み重ね、やり尽くしたからこそ、名人たちは型を崩す、それがエネルギーを放って人を魅せる。

 能の世界では、そのほかの世界もそうですが、「内弟子制度」で師匠と同じ屋根の下に住み、雑用をこなす下積み生活が数年。職人もそうですが、言葉による伝授ではなく、師匠の身近にあって、日々の佇まいや生活態度を通じて・・生き様を知ることで、多くを得て行きます。逆に言えば、言葉では伝授できないし、言葉にすることで「型」となって固まり、まだ未熟な弟子はいつでもそのメソッドの通りにやろうとする。

 能楽はかつて野外で行われることが多く、その日の湿度や時間、天候や日差し、観客から伝わってくるもの、貴人の前で舞うのかそれとも市民の前で舞うのか・・などによって、名人ならばその「場」のエネルギーを読み、必要なことを感覚で即興することもできる。だからこそ、見る人に感動を与えるエネルギーがそこで生まれるのでしょう。だからこそ、言葉やメソッドではなく、その奥に流れているものを学ぶ必要がある。そのための方法として、師匠とともに暮らすというスタイルが現在でも続けられているのでしょう。

メタフィジカルに関しても、同じように感じて来ました。言いたいことは、日々の暮らしの中で、どのように生きるか。その人間力を身につける中で、レイキなどのワーク(=これが能でいう「型」にあたる)により得られる恩恵も、身について行く訳です。日々の生活すべてに、メタフィジカルで得られたものを浸透させて行く。生き様にして行く。そこで初めて、知識やメソッドが「生きた知恵」になる。「その場」のエネルギーを感じて読み取って、適切な判断が出来れば、どのような状況にも対処できるし、現実を自らクリエイトしていける。

これから、スピリチュアル=趣味 に変わる、生き様 としての何かが、いま一括りにされているところから、分岐して行くでしょう。今の所は「メタフィジカル」と呼んでおきます。

 

 

Love and Gratitude,

Amari