Energy and Crystals

鉱石とエナジーワークと神智学と、生きること。

秘密の花園-- 再生の力

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インスタグラムにも乗せていた、近所の八重桜。初めて出会った2年前、見たこともないような美しさに圧倒された。今年もタイミング良く、満開の様子を見ることが出来た。白とマゼンタが同じ木に咲いていて、さらに青空とのコントラスト・・・ライトグリーンの若葉も加わって、何とも女神的。

先日書いた「敬愛なるベートベン」と、同じ監督作品ということで久しぶりに見ていた「秘密の花園」。製作総指揮という形で巨匠・コッポラが関わっている。原作は有名な児童文学で知っている人も多いとでしょうけれど・・ざっとストーリーを。

インド駐在イギリス貴族の家柄で、お姫様のように育った、けれどパーティ三昧の両親には放っておかれ、「泣いたことのない」少女メアリー。インドの地震で両親が亡くなり、イギリスの親戚の伯爵家へ引き取られることになる。そのクレイブン伯爵は愛する妻(メアリの母の双子の妹)を数年前に亡くして以来、心に愛も希望もなく、ほとんど鬱状態。実は妻が残した息子コリン(メアリの従兄弟)が居るが、病気だからと部屋に幽閉状態。コリンは生まれて一度も歩いたことがない。

コリンの存在はメアリには隠されていて、屋敷は伯爵の心象を表すように重くて暗い空気に包まれている。メアリの叔母が大切にしていた花園は、あるじの急逝により扉が閉じられ、鍵がかけられ「封印」され、植物たちは枯れ果てている。

ポニーに乗った近所の庶民の少年ディコンは、まるで小さなお爺さん、長老のような存在感を見せる。メアリと、コリンをさりげなく支え導き、メアリは少女の中にある母性を開花させ従兄弟のコリンを癒し励まし、大人たちに「封じられ」部屋から出たことのない、歩いたことさえないコリンを外の世界へ。。。大人たちの手厚い配慮で歩けなく「されていた」コリンは、メアリとディコンの、知識ではない直感的な導き(=子供ゆえの純粋さだからこそキャッチできる魂からの知恵の降下とも言えるだろう)で生命力を取り戻して行く。

彼は実際には病気ではなく、大人たちの知らないところで、歩けるようにさえなって行く。ディコンは上流階級の姫・王子であるメアリやコリンが負っている傷や重さとは無縁で、ただまっすぐに大地のように、太陽のように存在している。自分の欲望や不満などはなく、メアリ、コリン、伯爵が癒されて行く過程を遠い位置から見届けると、満足したように微笑み、ポニーに乗って去っていく・・不思議な少年だ。

少年の脆さをコリンが、少女の強さと母性をメアリが、それぞれの双子の母からの流れを象徴するように体現する。この二人は同じように傷を追った、貴族の少年と少女。対のようでもある。そして、同じく病んでしまった伯爵・・・コリンの父親は、メアリとの出会い、彼女が中心となって死んだ花園を蘇らせるという子供3人の密かなプロジェクトにより、長い鬱状態から目を覚ます。

コリンとの親子の再会。そう、同じ屋敷にいながらも、同じ世界にはいなかった。伯爵の時間は妻の死とともに停止し、コリンは封じられ、花園と同じく生命力を無いものとされていた。メアリという女性性、母性が入って来たことから、死んだ花園は蘇り、伯爵は目を覚まし、コリンはようやく生きることになった。その時に初めて、複雑な想いが入り混じったメアリは涙を流す・・・初めて泣いた。伯爵は長い間忘れていた笑顔を取り戻した。

子供たち3人の手で、再生された花園に満ちる新たな生命力。行き交う動物たち。生きるということ、命、育む力、育つということ。太陽、笑顔、そして涙。その当たり前のような営みが失われていた伯爵家に、全てが戻った。使用人たちも、喜ぶ。

使用人の人々は、結局は主人、ロゴスである伯爵とその息子のコリンの指示を受けるばかりで、女主人を失って以来、生命活動を止められた屋敷の陰鬱な空気をただ受け入れて、働き続ける。ロゴスである伯爵を目覚めさせるには、メアリが必要だった。女性性、女神の再生の力、豊穣の力が、少女であるメアリから発動したのだろう。

女主人の死により封印された花園、伯爵の心、息子であるコリンの生命力。

メアリの両親の死という現実からの、彼女の旅の始まり。逆・英雄譚。世界の神話には度々、少女や幼い姫が冒険を強いられ、難局を打開していく物語がある。伯爵、コリン、花園、屋敷の人々・・・が、その良き影響を受け、命を取り戻していく。

ただ、メアリの背後には、それらの成り行きを全て見通しているような不思議な少年、ディコンがいる。動物たちとも話せるようだ・・・まさに長老。アーサー王伝説でいうマーリンの少年版のよう。さらに上の階層のロゴス、といったところだろう。

先日触れた「青い鳥」と同じく児童文学が原作ですが・・・子供の頃も、大人になってからも、小説や文学作品を読むことがほとんどない私なので、映画の美しい表現に感じ入るものがあった。皆さん、とうによく知っているお話であれば申し訳ないなあと思いつつ。。。

・・・・・・・・・・・

最近は、非二元、ノンデュアリティが話題として流行りのようだけど、では二元とはなんぞやというと、善悪などのモラリティではなく、生命を生み育む力と、その逆、枯れさせ萎えさせる力、と、アルガンザでは定義している。闇の力というのは、本来そういうものであると。闇=病み ゆえに。どうせならば育み、元気にしていく道を選択して行きたいもの。「愛」も然りで、活性し、癒し、アニメイトすることで創造を行っていく、維持していくのが宇宙的な愛のエナジーであるし、それはただ一つの宇宙の法則であると言える。

Love and Grace,

Amari

イシスとオシリス

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 「イシス」と「オシリス」。どちらもアルプス水晶。

数年前に、ちょうど感じていた秘教的なテーマと絡めてこの二つのアルプスの石をセットで迎えて。あの頃、一段落したと感じていた二次元レベルでの地球創生期、特に「イシス・オシリス」と私が呼んでいるエネルギー、出来事が起きたアトランティスの人類の誕生と選択、の部分。5次元的に、今年の1月後半からアルガンザでは動き出して、先週末の「ジェネシスヒーリング」伝授4デイズで、ひとまず区切られた。

ここで言う2次元とは、元はアースワークやセッションやチャネリングで得られたものをベースに、文章や思想や歴史的にざっと理解し、把握できたと言う意味で、5次元とは、アルガンザのセッションやジェネシスの場に絡めて、クライアントさんや生徒さんを通じて、多次元的にその情報が開き、生きたエネルギーとして動き、それを我々がキャッチ、理解し、現実を通して動いていたものをエネルギーワークにより対応できた・・・それにより、テーマは次の段階へ進む、という多次元ヒーリングとアースワークで対応するというレベル。

時代の流れや私たちのエネルギーシステム、周波数、意識の成長具合によって、その時々、少しずつ来てくれているのが分かる。当事者的ではない情報としてキャッチし、当事者として味わい、解放するために「役作り」を伴う現実の動きがあり、そして多次元ヒーリングで対処。・・・ここから先、いつものアルガンザの仕組みからすると、より大きなソウル集団、さらに大きな、と波及しながら同じようなテーマが伝播して行く。

自他ともに認める?フライング気味の走者なので、というかそれが自分の立ち位置だと認めていて、自分の前の流れというのはほとんど全く見ていない。情報収集を同じ時代からはほとんどしていなくて(仮にしたとしても「それは違う」という事実に気づくばかりで)、むしろ、同じようなケース、時代の流れのパターン、高次や私たちのソウルシステムがどのように連動して地球が動いて行くのか・・を、過去に刻まれて残されている先人たちの仕事や、歴史そのものから、参考になるものを得ていく。

「レムリア」も「アトランティス」も、過去ではない。人類が非物質な境界から、物質化して存在するようになったその時代の変遷は、これから、まだアトランティス人種期を引きずっている今の人類(神智学では「アーリア人種期」の始め)が、物質的・利己的という意味で(神智学的に言えば)最底辺をマークしていたアトランティス時代から、今度は上昇孤の進化段階へ入って行く時、もう一度、アトランティス→レムリアへと、逆回しで体験して行くような流れが、これから来るのだろうと思っている。

そうかと言って、それらの時代を懐かしむでも、逆に忌み嫌うでもなく、今を生きる私たちの中で、アトランティス→レムリア という、かつて辿ったのと逆のエネルギーや意識を体験して行く行程が来るのだろう。そこに、これまでの歴史を刻んで来ての今の人類、という「現実=三次元」と、5次元つまりエネルギーやカルマとしてのアトランティス、レムリア が、統合されて行く。

一見、歴史を逆に辿って行くようで、進化に向かって行く。そういう時代が、これから数十年か、数百年かけて動いて行くのではないかと「ジェネシス」をまとめて、今、感じている。

・・・これを、すご〜くキャッチーに分かり易く言ってしまうと、「光と闇、分離、という二元性を超えて、ワンネスへ」

という、ニューエイジで当たり前のようにずっと言われている表現になる(笑)。ならばそれでいいじゃん、という訳にはいかないのが、物事をアレコレと真面目に考えてひっくり返してみたり、「そもそも二元性とは・・」「人類の進化とはなんぞや」とやらずにはいられないタイプなのである。。(笑)。。けれど、「スピリチュアル好き」な人々の趣味の世界のキャッチフレーズ、として片付けられない為には、説得力のあるものを求めて行く態度が、不可欠であろうとも思ってのアプローチ。

歴史や思想史・宗教史を見ていると、民衆レベルの情報の取り扱いと、権力者(=当時はそこに知識人や賢人たちが集まる)の周辺との、常に二層構造があり、民衆はただ押し付けられて鵜呑みにしている(自分たちも頭の中身を委ねてしまっている)時代もあり、一方で安定した権力の元では学問や芸術は華々しく展開する。が、権力者同士の争いなどで世の中が荒れると、民衆にも火種が行くので、日々の生活の危機をまともに痛感した人々はようやく、自分の頭と行動力で、何か違うものを求め始める。

そこに、民衆のために立ち上がる、世の中を見据えた天才肌のカリスマ宗教家のような人たちが登場し、命がけで活動しながら、心の平安を求める人々のニーズに答えて行く。権力者たちは、自分たちが大事にして来たものが、思想レベルから崩れて行くことを危惧し、大抵の場合はそんなカリスマたちを弾圧する。でも大抵、その動きは止められない。市民たちが本気を出せば・・・数で勝ってしまうから。

そうして時代が流れ、思想も流れて行く。

現代社会は、幾度ものこうした思想とエネルギーの錯綜を経て、かつての民衆=市民と、権力者・知識人・文化人などの壁がなくなるところまで、人類は歴史を前に進めて来ている。今の思想的な主役は市民、つまり私たち一人一人であって、昔のように封建制の領主や専制君主たちに、自分たちの運命を委ねている訳ではない。それに加えて、情報化社会になり、ほとんど全ての知識や情報が開示されているような状況。

誰のせいにも出来ない。この時代背景の中で、アトランティス・レムリアという逆進化が、実は、本来の上昇孤の進化に乗って行くことであるという流れが来ている。

今年の1月に、アルガンザとしてはレムリア=自然界=調和の崩壊のテーマがこれまでに無い強さで来ていて、それが1月半ばで一段落。すると、1月後半には「なぜ調和の世界を当時の人類は否定し、自ら周波数の低下(楽園追放)や分離、二元性のある構造を生み出したのか」が、情報として開示されて、その中で様々な関わり方をしたことのカルマが、今月初めの「ジェネシス」伝授では浮上していた。それにより、2012年末、「イシス」のキーワードで始まったジェネシス(当時は創世記、と呼んでブログに刻み、カレッジでもシェアして来た)は、再び「イシス」のキーワードにより、一旦の情報として、螺旋で一周したように、締めくくられた。

体感としては、これが・・・現実の、より大きなフィールドで、つまり全世間的に、起きて行くのがこれからの数年なのではないか、と感じている。体験と消化なくしては、次の段階に進めないのが人間のエネルギーとソウルシステムの法則。

イシスとオシリス。光と影、女性性と男性性。このテーマを超えて行くことが、それらの分離が始まった(それを人類が選択した)アトランティスのカルマを解消し、調和を戻す(レムリア)という流れを生み出す。とはいえ、それは単なるレムリア回顧、回帰では当然なく(そこには戻れない)、物質体として存在する人間社会が、非物質のセンスを取り戻し統合して行く・・・5次元化。これをずっとずっとずっっと・・・やっていくと、また再び非物質領域で生きることになるのだろうけれど、今とこれからは、その上昇孤に人類が乗れるかどうかという、それを選択できるか、という、分かれ目のように思う。

封建制や絶対君主の居る時代の民衆たちと違って、私たちは自由市民である。けれども、いまは情報化社会やメディアそのものが、絶対君主のような存在と言えるかもしれない。そこに委ねてしまわずに、エネルギーと意識を常に自分自身のものにしていくことが、大切だろうと。

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ジェネシスヒーリング第二世代の伝授セミナーを終えて、2018年度に入ったこの一週間。新しいスクール「エコール」の「インテンシブコース」が始まり、また昨日は今年だけのスペシャルなコース「セルフスタディ特別クラス2018」のお二人が、無事に最終のスクーリングを終えたところ。皆さんと共有する時間の感触が、やはり明らかに新しいものになっている。これが2018年の感触なのだろうと。

まだうまく言葉にならないけれど、ある意味で「ほかに権力者・権威がいる社会の民衆」のように、誰もが無意識ながらに色々なものにとらわれ、怯え、動けなくなっていたのが今までの時代ではないかと思う。もう既に無い支配のエネルギーを、親や会社や周囲の人々に重ね、動けなくなっている。それ以上、行動できない、考えられないのを、何か・誰かの存在と重ねて。(私自身も含め)

そんな幻想のベールが、今年の2月くらいから剥がれていって、自分の責任をもうどこにも預けることが出来ないというエネルギーに、切り替わっている気がする。そこから、各人がどう、この2018年の新しさをまとめていくか。それが具体的に、創造というエネルギーに結実し始めている人たちも居る。変わり目には、自分の中からたくさんのお化け、ゴーストが現れてくる。それに騙されず、創造に向かっていくことに、この変化のエネルギーを使っていく人が増えたらいいと思う。

Love and Grace,

Amari

疾駆する魂・ベートーベン『大フーガ』

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アルゼンチン産ブルーカルサイト・スフィア(UP済み)

http://www.lumiereblanche.net/crystal/index.html

アニエスカ・ホランド監督作品、『Copying Beethoven』(邦題:敬愛なるベートーベン)は何年か前にも一度、ブログに書いた気がする。久しぶりに観たら、以前よりも深く面白さを感じ、また監督の目線のようなものも前よりスッと自分に入って来て、我が家にある同監督のもう一つの作品『秘密の花園』も改めて見てみた。こちらもなかなか奥深くて、魅せられるものがある。

まずはベートーベン。原題にある「Copying」はこの映画のヒロインであるアンナという女性の「写譜師」=copyist という立場から来ている。作曲家が書いた楽譜を清書する仕事のようで、音楽のプロとしての知識が必要。そして作曲家との共同作業でもあるから、息が合う・その作曲家を深く理解している、などの条件が必要になると思われる。が、残念ながら、ダイアン・クルーガー演じるアンナは架空の人物。

大叔母が長を務める修道院に下宿する真面目で優秀な音楽学校の生徒であるアンナ。設計士を目指す恋人も真面目で堅物そうな印象。すでに晩年に差し掛かり(50代)、代表作である『第九』の発表を目前にしたベートベンの写譜師として紹介されたアンナは、尊敬する作曲家を前に、荒々しい性格のベートベンに怯えながらも、女性特有の母性的な人間愛と、敬愛をうまく統合しながら、ベートベンの良き理解者・仕事のパートナーとなって行く。

エド・ハリスが演じるベートーベンは不器用でしょうもない所も多々あるけど天才とはこういうもの、と感じさせ魅力的。透き通るようなアンナの美しさもこの映画を見ている中で清々しい風のようで、監督のタッチとダイアン・クルーガーの女優としての性質がうまく共鳴しているように感じる。

映画の見所として、ブタペストの劇場でオーケストラと合唱団と観客を用意してノンストップで撮影されている『第九』の初演があげられることが多い。確かに圧巻と言えるシーンではある。彼を揶揄していた人々も皆、作品の余りの素晴らしさに涙するというのも、見ていて伝わってくる。この現場に居たら誰もがそうなるだろうな、と。当時、大合唱団を交響曲の中に組み込むなんてことはあり得なかったよう。

特に晩年のベートーベンは、「普通ではやらない」ことを実行し、それまでの支持者を失ったり、聴衆は付いていけなくなり、映画でも描かれている『第九』の後の弦楽四十奏『大フーガ』の受けは惨憺たるものだったよう。。。時代を数十年、ひとり駆け抜けていたようだ。その作品が正当な評価を得たのは、20世紀に入ってから。現代では高く評価され、現代音楽への影響も少なからずと言われている。

第九のシーンは確かに素晴らしい。けれど、映画の中盤でさらっと終わって行く。その後、「大フーガ」に取り掛かるベートーベンがアンナに意見を求めると、「美しくないです。」と返ってくる。不協和音や、あえてズレて行くテンポ。当時の古典音楽においては考えられない発想と試みの数々は、結果的に、その後のロマン主義を呼び起こす力となった。ロマン派音楽というのは、より感情表現を乗せるために演奏する側の技能は高度なものが求められるようになっていったよう。間違いなく、「大フーガ」はその動きへの促進剤になったはず。

私は若い頃にぶつけどころのない、得体のしれない熱や情動のようなもののはけ口として、ハードロックやヘヴィメタルを好んで聴いていて・・それと同じような理由で30代、執筆活動をする時には必ず、ベートーベンのピアノソナタ(特に「ワルトシュタイン」)がBGMの定番だった(笑)。今、『大フーガ』は同じようなものを感じさせてくれる。wikipediaから聴けるようになっているのでリンク!

大フーガ (ベートーヴェン) - Wikipedia

久しぶりに観たこの映画で、改めて印象的だった幾つか。人々に理解されない、人々が求めるものと、自分の立つ境地が大きく違っているのを承知しているベートーベンは、アンナを相手に本心を吐露する。「理解できないなら(聴衆の方が)想像力を高めればいい」・・まるで、「パンが無いならケーキを食べれば?」(マリーアントワネット)と同じような物言いだけれど。芸術家も一人の人間。自分が追求したいものを追求し、常に新たな境地を目指し続け、それを表現したいのは当然だろう。若い頃から天才として遇されパトロンたちの要求に応え続けて来たのだから、尚更のこと。

というか、そのような態度でなければ、死んだものしか生み出されない。一見、その時代の聴衆心理・大衆心理には心地よいものが生まれるかもしれない。それによって生活が安定するかもしれない。作曲家自身も楽だろう・・・・・が、それは本当の芸術ではない。自分自身が生み出したいもの、その時に到達できる最上のエネルギーでなければ、当人が満足することはないだろうし、一時の評価を得られたとしても、すぐに忘れ去られるようなものとなっていくだろう。それは本来、芸術ではなく、言ってみれば・・・商品だ。

本物の芸術家ほど、出せるものを全て出し尽くそうとするから、芸術以外の要素では苦労する。孤独な求道者としての道。

「神と私は完全に理解しあえる」・・映画の中でも神との繋がりを信頼していることを表すセリフが何度も出てくる。自分の仕事が神がかったものであることを信頼し切っていたからこそ、聴衆の意見を無視する、という態度が貫かれていたのかも。やっと見つけた、自分の音楽を理解し、寄り添ってくれる助手としてのアンナ。彼女も奇抜なベートーベンの天才振りに、真面目な優等生としてベートーベンを真似た作曲しか出来なかったところから、少しずつ変わり始める(頭の硬い恋人とはおそらく別れる・・笑)。

「この曲(大フーガ)は、未来の音楽への架け橋だ。この橋を渡れば、君にも新しい扉が開く」とアンナに諭す。アンナの曲については「君は私になろうとしている。ベートベンは一人いればいい。」

印象的なラストは、「大フーガ」発表後まもなく世を去ったベートベンを思いながら、喪服姿のアンナが一人、草原を歩いていく後ろ姿。彼女はおそらく、これからの人生でその橋を渡った先の、自らの魂から溢れ出す表現を生み出していくのだろうと、予感させる。

アンナのような理解者・同志が、芸術家の人生で一人二人でも、居ればいいのだろうなと。けれどアンナは架空の女性。実際のベートベンの人生に、そんな人が一人でも居たのだろうか、居たのならいいな、と思いながら、単に第九の圧巻シーンが目的では無い、この映画の深さにジワジワと感動していた。

そうそう、映画の冒頭にはベートベンの死の間際のシーンが挿入されている。駆けつけるアンナの中に第フーガが流れ込んできて、ようやく彼女の中で全霊で、その作品のエナジーが理解される瞬間が来る。それを、死の床に居るベートベンに告げることも出来た。「マエストロと同じように、私も大フーガを聴きました!」

敬愛するベートベンが逝ってしまうという瀬戸際、自分の全存在を持って馬車で疾駆するその祈りの高まりの中で、頭ではなく、魂でアンナは「大フーガ」を聴いた。それと自身が一体となり、世界の全てが大フーガとなった・・・

 これは、「第九」で聴衆が総立ちで涙したことよりも、感動的で重要なシーンである。だからこそ、時系列ではなく、映画の冒頭の数分間に挟まれている。芸術家にとっては、数百人の聴衆のウケよりも、たった一人でも魂から理解してくれる人の存在が意味を持つ。監督自身の投影が、アンナであり、ベートベンでもあるのかもしれない。そんなことも思った。

Love and Grace,

Amari

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坑道のカナリア

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ギリシャ産セレナイト 白銀の眩しさ、柔らかさ。リュミエールでUp待機中

 「坑道のカナリア」。有毒ガスに敏感に反応するので、一昔前は鉱山へ入っていく坑夫達が、籠にカナリアを入れて行ったという話。それをアメリカの著名な作家であるヴォネガットが比喩として使い、作家や芸術家という人々は、世間の人々がまだ感知していない危険や社会の悪化を感じ取り、知らしめるという使命を持つものであるという、芸術論として語った。ひいては芸術家やそもそも芸術というものが理解されにくいという前提から、自らを含む作家・芸術家という立場を知らしめるための表現なのだろうと思う。

実際に使われてきた事例をみると、反戦などの意見表明など、やや政治的な場が多いよう。その論が展開されたヴォネガットの論文をちゃんと読んだ訳ではないので、なんとも言えないけれど・・個人的には反戦などよりももう少し、根源的な人類の問題や方向性に関する、芸術家のセンシティブなアンテナ、センサリーを言うのではないか・・と、思う。

芸術家、作家などを含めた表現者は、表現せずにはいられない人々であると思う。媒体はなんであれ、この「カナリア」に当てはまる人種、種族というのは「表現者」でくくられるのではないかな。そうでなければ、芸術や文学が好きだとしても、趣味の域でいいわけで・・・表に出せば、批判されたり嫌いだと言われたり、誤解されたり、楽しい事ばかりではない訳だけど、それでも、「表現」せずにはいられない、つまり深いところからの叫びがあるはず。

人間の思考や感情が結びついた顕在意識というのは、社会的な制約や時代の風潮などに染まりやすい。動物的な自己保存本能からいえば、その方が生存がしやすいからだ。でも、動物的な自己保存本能を抑えてでも、自分の立場をこの物質世界において、表そうとする。それが表現者、芸術家ではないかと思う。

実際には全ての表現者が「カナリア」とは言い切れず、むしろ傷や痛みや怒りなど、ネガティブなエナジーを社会にぶつける、エゴイズムからの自己表現も多々、あるだろう。けれど、坑道に向かうカナリアの使命は確かに、自らの身をもって坑夫たちの命を守る、というものであり、そのような思想家や芸術家・作家は少なくない。

若い頃、こういった運命に過敏で、ドラッグや自死で夭折するアーティストなどに非常に同情的だった。自分でも不思議なほど。。恐らく過去生などでたくさん、「浮かばれない芸術家」や「生活に押しつぶされ才能も認められず」などの、天からの祝福(才能や直感)と地上で生きることの狭間で、潰れていく人生を少なからず経験したに違いないと思っている。おかしなくらい、シンパシーを感じていた。

そんな二十代前半にとある集まりで、こういったこと(「芸術家の苦しみ」)へのシンパシーを語ったところ、学校の先生をしているという人に「僕はそういうの嫌いだな」と言われ、ショックを受けている時、「僕はわかります」と助言してくれた人が二人。一人は舞台の役者さんを目指す方で、もう一人は、出版社で編集をしているという方。その時、「やっぱり、芸術家の気持ちは芸術家にしか分からないものだな」と思ったのを、よく覚えている。当時から自称「作家」だったので・・・

けれどもまあ、何というか、こういう人に一番効いたのは自分が親になること。生きる、ということをここまで生々しく、力強く、笑いと涙で教えてくれる道はない。どこか危うい翼の折れた天使たちも、親になることで地上の人になる。エネルギーワークが無かったら、そして子供を持つことがなかったら、きっと二十代で人生が終わっていたのではないかと、思っている。

そうして今は、エネルギーの世界で人間の仕組みや世界の仕組み、大宇宙の法則がわかってくると、そういうギリギリな芸術家の生き様には、常に隙間が多く、足を引っ張る力が入り込んでくるのだという、芸術家をめぐる秘密のようなものがよく見える。才能があるということは、それだけ魂からの光の流入があるということ。それは逆の力からしても「美味しい」魅力があり、「波動の高い人が感情や周波数的にアップダウンする」のを、闇の力は何よりも嗜好するもの。また当人も、センシティブな感性は美しい世界の響きをキャッチする一方で、人をダメにするようなサウンドにも自分を預けてしまうことがあるのだろう・・・

メタフィジカルな世界でも、そういった事が起きている。情報も撹乱される。だから本当のライトワーカー達の仕事が進みにくくなる。アルガンザのジェネシス視点でいえば、坑道のカナリアの比喩が一番似合うのは、「アンドロセラフ」。アンドロメダから地球創生に関わるために降りてきているセラフ達が、地球で起きた様々な攻防や変動に巻き込まれ、その魂が人として生まれる道が作られ、地上で転生してきているパターン。芸術家肌、こだわりの多い、洗練されたセンスで知的好奇心の強い人が多い。・・が、内面にどうにもならないような深い淵を持っていたりもする。

この癒しはなかなか手強く、そうでない人々に比べるとかなり難しい。けれど、健全にケロっとして生き、さらにそれを超えて魂から生きていこうとすることだって出来る。そのためには、「堕ちたセラフィム」以外の要素を自分の魂の何らかのコネクションから、呼び出さなくてはならない。私の場合はそれは2005年に命がけの強烈な瞑想体験として起きて、以後、シリウス人になり(笑)・・去年からはアルクトゥルス人にもなり(笑)。

地球にまつわる様々な思いを持っている。元素や、デザインにまで遡る創成の記憶・・(だからこそ芸術家が多いのだろう)・・・個我を持たず淡々と関わる創造活動の中で、地球の質量が重くなって行き、人間達の意識とシステムは落ちていく。犠牲になり、再生され、人間界へ。その複雑さが、(アルガンザジェネシスヒーリングに照らすと)アンドロソウルを持った人の人生の難しさ、本人の生きづらさとして現れる。

けれどその複雑さに、呑まれていては・・負けていては・・翻弄されていては、今生の創造が本格的に身を結ばない。やりたいと意図すること、魂が望むことを表現し、創造的に生きながらも、苦悩にとらわれないところまで、自分を持ち上げ、整えていく。それが出来るのは、自分の強い意志から始まる魂との共同作業。

若い頃と違い、抜け出す方法は分からないのにただ同情する、なんてことはしない。少し前までのように、抜け出す方法が分かって自分は抜けられているのに、深みに居るアンドロソウルたちを無意識の領域で引き上げようとしたりも、もうしない・・先に進めと、言われているから。カナリアたちが、自らコミットし強い意志で、持ち前のセンサリーと創造的本能を、今生で思う存分に開花させることが出来るよう、ただ祈っている。

この、「坑道のカナリア」という概念を知ったキッカケは、先月下旬のジェネシスヒーリングの認定セミナーでのこと。受講者の方が用意してきたオリジナルワークが、「鉱山のカナリアのように優れたセンサリーと感性ゆえに、人々の前線に出ている、けれど傷ついている、という部分に効く」という、何とも優しい愛に溢れたワークで、モニタリングで体験させてもらった私も、感動的に響くものがあった・・

その後、調べてみてヴォネガット氏の「カナリア論」だと知った。ジェネシスのセミナーに来てくれていた Alphさんに、この度、ブログ記事にしても良いかとお尋ねして、了解を頂いた。ちょうど彼女の方でも、ブログにカナリアのワークについて書かれているようなので、ご紹介しておきます。

実は・・・

ジェネシスの認定セミナーの時はいつでも、受講生の方が用意してくるオリジナル光線のヒーリングの趣旨にピタッとハマる「役作り」が、どうやら私に起きるよう。その日の朝、「どうしてこんなに脆弱な私がこれ以上、前に進めるというのか」と天に向かって心で叫んでいて・・数時間後、Alph さんのワークを受けて、起き上がった時には「はい、頑張ります」とニコニコしていた私。。。笑

自分の無意識レベルの女優シャーマン魂には、いつもながら呆れてしまう。けれど、まだまだそんな叫びが出てくるエネルギーが、自分の中にあったのだなあ、と。

Alph さんは星巫女専科の1期、卒業発表においても非常にクオリティの高いエナジーワークを作っていました。エネルギーへの感性だけでなく、それを読み解くセンスや、説明する知識の引き出しも必要になってくるエナジーワークのクリエイション。今回、カナリアのようなレモンイエローの光を私もモニターしながら感じていましたが、それをシェアしたところ、Alph さんから坑道のカナリア・・の話を聞いて、体感と、効き目と、その日の朝の自分と、ワークの世界観がぴったりと一致して、感心したのです。

自らの経験上、自分ではどうにもならないというレベルの力が、自分の深いところを押さえつけていることは多々ありますね。ヒーラー、ヒーリングは、そんな時に専門家として、活用して貰えたらと。

アルガンザ・ジェネシスヒーリングTM

ちょうど、第二世代のプラクティショナー伝授4デイズが昨日、終わったところ。いつものようにみんなのジェネシス層が改めて揺さぶられ、見つめるべきところを見つめた4日間は、不思議な天候や、鳥達の大群や、宇宙船の群れのような雲や、強風、みんなが帰った後に私一人で2度も見てしまったUFOのかつてない大きな光など、すでに3次元ではなく5次元にあり、自分たちのソウルと地球の歴史を傍で感じ続けるような時間として流れていき、スッキリさっぱりと終える事ができた。

これをもってようやく、ジェネシスプラクティショナー第一世代の伝授、カレッジ5期、星巫女2期、なども、ようやくここで終わった、そう感じた。

そして今週から、2018年度の「インテンシブ」、新しいアルガンザが始まる。

Love and Grace,

Amari

「青い鳥」円環構造

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昨日アップしたピンクフローライト。水色やラベンダーの部分もあり、境界線のように走るピンクのラインも見えている。フローライトだけれどモルガナイト&アクアマリンのような高いオクターブを放つ、見たことないような美しいフローライト。

http://www.lumiereblanche.net/crystal/180307pfl.html

 

インド哲学の中から派生した仏教は、シャカの思想では「自己鍛錬」の道を説いたものだった。苦しみを生み出す己の心と徹底的に向き合い、そのメカニズムを超えて行くことを説く。その後、空の思想が深められて大乗仏教ができ、たくさんの宗派に分かれてそれぞれの宇宙観を展開していく。とはいえ、根底に流れるものは「ここに在る、煩悩で生きる自身ではないものに変容していく」という姿勢。

その哲学を懐に搭載して人生を歩んでいくということは、生きているうちに出くわす様々な障害、山、自身の内的葛藤などを、その都度、超えていくように・・少なくとも心がけて行く、という姿勢。これを人間として当然のことと見なす人々と、そうではない人々が居る。

先日テレビを見ていて(確かNHKの歴史系の番組)最後に司会者がコメンテーターの先生に質問した。「今の日本に足りないものは?」

その答え、リア充で満足するのを否定するという態度」・・「現実生活が満たされていればそれでいいじゃん、という日本にある風潮は『負け』である。それは騙されているということなんじゃないか。」・・と、サラッと仰った。

インドから中国に入った仏教の流れの中から、新たに中国で生まれ日本にも入ってきたのが「禅」。元々はサンクスクリットの「ディヤーナ」から来ていて、インド仏教で説かれていた仏教者が守るべき3つのもの(「三学」)の中の一つ。「心を平静に保ち揺るがない、無我の境地」を意味し、=瞑想と説明されることが多い。

禅は中国で仏教の一派として生まれ、教義により主に二つの宗派に分かれて行く。一つの宗派は「ありのままを生きる。人はそのままでその人個人として完璧なのだ」と考え、他方は、「ありのままをどう乗り越えるか」をテーマとしたのだという。・・・いつの時代も、スピリチュアリティという分野では、やはりそういった分岐点があるのだなあと。

そして、「ありのままでいいんだよ」と考えた宗派の中でも、時代が降るうちに様々な解釈が生まれ、自分の本来性(本質)を、今あるこの自分とするか、または別次元に求めるか・・・など、思想の違いから5家7宗に分かれ、そのうちの臨済宗曹洞宗が日本に入って来ている。

ニューエイジスピリチュアリティにおいても、同じようなことが起きて居るのは、むしろ然るべきことというか、人間の思想というものは、いつの世も同じだと納得が行く。「リア充信仰」が「負け」で、「騙されて居るのか」、そのまま(リア充)でいいのか。これも同じ分岐点だなあと感じた。

私の個人的な思想。基本的には、「生きている限り人は成長を心がけて行くもの」・・だけれど、自分一人で生きて居るわけではなく、世の中は複雑。時に、あえてダウングレードすることも、道に迷うことも、思想的にわからなくなることもあるだろう。子供の頃は、メーテルリンクの「青い鳥」について、「本当に大切なものは足元にあるのに、人はそれに気づかずに夢を追い続ける。が、いつかそれに気づく」というメッセージだろうと受け止めていた。けれど、四十代も半ばになって、漸くとてもとても深い意味が込められていたのだと知ったのは、禅で言われる円環構造に触れた時、「青い鳥」のことを想起したのがきっかけだった。

「必要なもの」「欲するもの」を探し求めて出向く冒険の旅。ジョゼフ・キャンベルの英雄神話論のように、また多くの神話的モチーフがそうであるように、様々な困難に遭遇する旅を通じて、そこにあるものは「何かを手に入れる」結果ではなく、「自らが変容する」というプロセス。言うなれば恐れの克服やいらないものの削ぎ落としや、視点や洞察力の進化成長があり、人間性の深まりや生きて行く知恵の習得があり・・・その状態で戻ってくるからこそ、「青い鳥は家に居た」と言う結果が顕現するのだろう。

世界中の思想や物語において「円環構造」「円環思想」は描かれている。「青い鳥」の物語がまさに語っているように、彼らが冒険を通じて変容していなかったら、鳥は元々の鳩のままだったのだろう。。。「世界を変えるなら、まず自分から」マイケル・ジャクソンも歌っていたっけ。(Man in the Mirror)

ヒーラー的に言えば、エネルギー状態、チャクラバランス、エネルギーの活性や意識指数の数値が上がって行けば、スロートチャクラから顕現する三次元の現象・現実・自身のあり方が変わるのだし、そのような人間が増えることで、集合意識が描き出す結果として、世界も変わるのだという、シンプルな法則。

できれば自分は何もせずに、世界がシフトして行くのを待とう・・・そういう人が、多いのではないかしら。。?

けれど、「あるがまま」で行くのならば、鳩が青い鳥になること=幸せ=地球のアセンション? は、永遠に来ないのではないか。同じところに居るようで、螺旋をいくつも上昇していくと、鳩だった自宅の鳥が、幸せの青い鳥であったという現象化が起きる。この円環構造から、何も今の時代が例外的であるとは、個人的には思えない。宇宙の創造の仕組み、エネルギーと顕現の仕組みからしか、現象は顕現しないはずだから・・

思想的な分岐点は、人々をどこへ運ぶのだろう?

誰もが青い鳥を見つけられたらいい。

Love and Grace

Amari

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太陽の宿り木 -- 「恐れ」と太陽

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このところ、スモーキークォーツが活性しているように思う。まだ新潟に住んでいた頃、アメジストとスモーキーが好きで仕方ない時期があって、恐らくグラウンディングやバランシングを学んでいたのだと思うけれど、その頃以来、久しぶりにスモーキーに目が止まる。これは先日、リュミエールのインスタグラム企画で、密やかに半額タイムセールになっていたルチルの入ったスモーキー。この時の3点は「もう長いことお店に居るので、今回半額でもお嫁に行かなかったら販売終了」・・として出したアイテムで、結局お嫁に行かなかったので「公家の姫様の出家コース」に。どうしようかな〜、、と、ひとまず持ち帰ってみた。どうやらこれがキッカケとなって、スモーキーたちが光って見えるというムーブメントが、始まったよう。。

我が家は東南向きで、朝日が地平から登ってくるところから始まり、数時間に渡って太陽がさんさんと降り注ぐ。この家を私は、「幸せの家」と名付けていて(笑)たくさんの植物、鉱物、そして犬たちが朝日を浴びて麗しく輝いている朝のひと時が一番、楽しい。

このスモーキールチルが朝日に輝く様子を眺めてコーヒータイムしていると、降りてきたのが「太陽の宿り木」という名前。宿り木は・・他の樹木に絡んで生息する種類の木・・だったかと思う。そのあたりは良いとして、「止まり木」でもいいのかもしれないとも思ったりしながら、響きもよかったのでそのままに。

あの頃、恐れを克服する、自分を強化する、という潜在意識も働いて、スモーキーを必要としていたのかもしれない。ザギマウンテンの男気ある原石、パキスタンのガーネットとブラックトルマリンを抱え込んだ原石など、お気に入りでいつも手にとっていたっけ。。

色々な、人間の苦しみのパターンを掘り下げて行くと、結局は全て「恐れ」に通じているような気がする。化学の分野などで、液体の物質を攪拌して、攪拌して、熱したり水分を飛ばしたりして、最終的に残った個体を取り出す・・・(なんて言うんだろう?)・・処理などをするように、色々な感情や、そこに色付けされたものを、攪拌して、攪拌して、最後に残るものとなると、「本能的な恐れ」が素材の中の純成分として、残るのかもしれない。

その本能的な感覚のような恐れから派生する、様々な感情。それに意味を与えようとする思考や理屈。コーティングされて、本質が見えなくなっているけれど、結局は、素材の中のさらに素材には、恐れが隠れているのではないかと思う。

もうそんな意味づけなんていいよ、それを恐れだと認めて、前に進もうよ・・・と、人を見ていると思うことがあるけれど、自分の中でモヤモヤっとして、尤もらしく考え事をしていたり、カッコつけて理屈で整理したりしていることを、一歩引いて視点の高さを戻して直観すれば、「結局これも恐れであらう」・・と、気づくようなことが、今でも度々ある。

去年の年末だったか、ふと「恐れを抱いて縮こまっているのって、人として美しくはない。誰だって、本当ならば美しく生きたいのではないか。。」と、思ったことがあった。誰だって・・少なくともソウル、魂は、この地上で美しく生きる自分を本当は味わいたいのではないかと。

こういう事を言うとすぐに傍で、「醜くたっていいのさ」「それが人間じゃないか」と言う声が上がる事は、経験上よく分かっているのだけれど(笑)、多分、人間の感情というものは、「魂が本来持っている美しさ(愛・調和)」から、パーソナリティの生き様がずれたときに、「苦しい」と感じるのではないだろうか。

太陽は、いつもそこに在る。ずっと、変わらずに。

けれど地上に居る人間には、「天気」というものを通してしか、太陽を感じられない。今日は晴れている、今日は曇っていて太陽は見えない、雨が冷たくて空が暗い・・・・・でも、太陽そのものは、いつも変わらずにずっと在る。

魂は太陽のようなもので、人として生きているパーソナリティは、お天気。

曇っていても、たとえ嵐でも、その奥にはいつも必ず、太陽が輝いているのだということを忘れなければ、本当は恐れなんて必要ないという自分に、誰もがなれるのだろう。

Love and Grace,

Amari

哲学の道と桜-- 吾は行く

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まだ五分咲き・・三分咲きかな?うちの近所の桜並木。

桜を見ていたら思い出しました。京都の哲学の道

歩いたのはもうずっと昔ですが・・・短大を卒業した春なので、25〜6年前になりますか。。短大の卒業記念に母と出かけた京都旅行でのことでした。近くに泊まったのでガイドブックに導かれて出掛けて行って、何となく花曇り、寒々とした空だったような記憶が蘇ります。

当時は、留学や四年制大学への編入を資金的に諦めて、向いてないと知りながらイヤイヤ企業への就職が決まり、新入社員研修を目前にして逃亡したいような気分で過ごしていた時でした。更に、学友の多くがヨーロッパなどに卒業旅行に向かう中、これまた資金的に諦めて(苦学生だったので)、母と京都へ。ただ、この旅で琵琶湖を望む比叡山からの風景との衝撃的な出会い(過去生の記憶)や、仏像の魅力に開眼したり、続く20歳からの奈良大和路への一人旅、日本古代への探求が生まれて行くきっかけとなった、ターニングポイントの旅となりました。

そんな、モヤモヤした若い娘としての心情を抱えた中で不意に歩いた哲学の道で、あの有名な言葉に出会いました。

「人は人 吾はわれなり とにかくに われ行く道を われ行くなり」 西田幾太郎

高校時代で既に、自分の感性や思考回路が人と違うと気づく事が多く、世の中の、あるいは同じ世代の人々との価値観や見えている世界の違い、というものは十分に自覚していて・・それを自分の場合は学問や思想から、乗り越えて行こうと考えていた短大時代。それでも、アカデミズムの世界に進むことが叶わず、現実の壁に四方から囲まれているような苦しい時期。

自分に言い聞かせてはいたものの、人に・・それも(当時の私はどなたであるかも分からなかったけれど)偉い哲学者の先生の言葉として、刻まれた碑文と出会って、ありがたや、苦悶しながらの巡礼の先で神仏の姿を観照したかのように、感動と興奮でテンションが上がりました。それを見た母は、つくづく不思議な娘だなと思ったそうです。

その後・・本当に本当に、「われ行く道を われ行くなり」で、生きて来ました。

いつしか、他者からのリアクションが気にならないというよりも、気にしなくて良い現実の層の中で生きていて。いろいろ段階がありましたが、若い自分にとっては巨大な壁であったことが、いつしか壁は壁でなくなり、問題でさえなくなり。

人と違うように考えることは自分のむしろ財産であり、自分が決めた、自分で見つけた道を歩んでいられることは普通に呼吸をして生きていられるための不可欠な要素となり。その結果、人が得られるものを得られない要素があったとしても、そこには何の未練もない。から、人を羨むこともない。

これは私にとって空気のような要素だけれど、・・まだ、そこを突破できていない人々は多いのだろうな、と、サロンをして来て思います。考え方のコツをお話しし、結構一生懸命に説明をし続けるのですが(セッションで通っている方々など)、変容の良いところまで来たとしても、「自分」よりも「そこにあるもの」=世間の価値観 にヒュっと戻って行く方も多い。

人と違う、奇抜なことをしようという意味ではなくて。何を言われても、自分の魂が決めて来た道を行くのだ・・というところに、乗れない、乗り切れない人が非常に多い。そんな時、「私は私なりに、周りの人たちに少しでも光を配れたらと・・」というようなセリフもとてもよく聞きます。それはそうなのです。それはもちろんなのです。でもその先に、何かあったのでは?それを見つけかけて、掴もうとしていたところだったのでは? と、いつも思う。

けれど・・・時代はどうやら、変わり始めました。ワンネスとか、ホリスティックとか、全体へ、調和へ、という流れは必ずやって来ますが、そこに至るには、ある程度、個々のパーソナリティが目覚めなくてはならないのです。ある程度の質への高まり、魂つまり高次我に火が灯るからこその調和の時代へ、進んでいかないことであらう。。そうなると、日本人が苦手な「自分の頭でちゃんと考える」「それを行動に移す」という要素が、求められる時代であるとも、言えると思います。

日本は湿度が高くて、インド思想でいう「タマス」(怠性)のエネルギーが強いのだろうな。また、レムリア的グラマーが低い波動で作用してきた。

西田幾太郎は世界的にも引用されるような哲学の大家で、京都の琵琶湖疏水のほとりを散歩していたことから、当地が「哲学の道」と呼ばれています。

西田の哲学体系は西田哲学と呼ばれる。

郷里に近い国泰寺での参禅経験(居士号は寸心)と近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとした。その思索は禅仏教の「の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開していった。一方で、一見するだけでは年代的に思想が展開されているように見えながら、西田は最初期から最晩年まで同じ地点を様々な角度で眺めていた、と解釈する見方もあり、現在では研究者(特に禅関係)の間でかなり広く受け入れられている。

最晩年に示された「絶対矛盾的自己同一」は、哲学用語と言うより宗教用語のように崇められたり、逆に厳しく批判されたりした。その要旨は「過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて、現在から現在へと働いていく」、あるいは、鈴木大拙の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。そこには、行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている。論文『場所的論理と宗教的世界観』で西田は「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。」と記している。

 Wikipedia:   https://ja.wikipedia.org/wiki/西田幾多郎

『我々の人格が失われ行く過去をかき集めて現在の一点を突破するところに、

真の直観というものがあるのである』(「哲学の根本問題・形而上学序論」)

宗教的すぎて哲学ではない・・なんていう批判もあった西田哲学。けれど、個人的にはとても好きです-- 『〜らしくない』

そういうタイプの学者の先生や、門外漢だったり、在野の人々が新しい目、斬新な意識で固まった世界に新たな風を吹き込んで、抵抗されながらもそのうちに、時代の潮流に押されて、いつしか本流に少なからぬ影響を与える、またはそれ自体が本流となっていく・・・というのは、珍しいことではないですよネ。

いつの世も、どの世界でも、新しいものは抵抗を受ける。けれど、封殺され得ない強い力を持っていれば、必ず流れは拡大して行く。そんなことの繰り返しが、人類をここまで持ち上げて来たのだろうな・・と、桜を見上げた散歩道、私も哲学を気取って歩いていた今日でした。それに、西田哲学の強いところは、ご本人が禅の実践者であった、つまり思考活動だけではなく、実践から導き出された言葉であり発想であったというところ。やはりどんな分野でも、それはとても大事なところです。

Love and Grace

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